第16話:疾風の暗殺者、配達員になる
東京・杉並区の路地裏には、時折、奇妙な風が吹くことがある。
初夏の生ぬるい空気を切り裂くように、音もなく、そして極めて鋭利な気配を伴った風だ。
木造アパート『コーポ日ノ出』の一階。大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)が、共用廊下の掃き掃除をしていた時のことだった。
サァッ……と、首筋を撫でるような不自然な風が通り抜けた。
「……そこか」
真木がホウキを構えたまま、背後の暗がりに向かって低く声をかけた。
大気中にエーテル(魔力)が存在しないこの世界において、これほどまでに気配を殺し、かつ俊敏に背後を取れる存在は、人間界の暗殺者か、あるいはかつての同胞しかいない。
「……流石は、我が主君。気配遮断の極意すら、容易く看破されるとは」
音もなく、アパートの陰から一人の青年が姿を現した。
年齢は二十代前半。黒のパーカーのフードを深く被り、痩せぎすで身軽そうな体つきをしている。その瞳は獲物を狙う鷹のように鋭いが、足元は生まれたての小鹿のようにガクガクと震えていた。
「久世、か。お前もこの世界に落ちてきていたのだな」
「はっ……。風属性魔導暗殺部隊、隊長、久世颯太。遅ればせながら、主君の御前に……」
久世はそのまま片膝をつき、恭しく臣下の礼をとろうとしたが――そのままの姿勢で、バタリと顔面からアスファルトに突っ伏した。
「おい!? どうした久世!」
「も、申し訳ありませぬ……。ここ数日、水しか飲んでおらず。さらには先ほど、真木様の背後を取るために『隠密歩法』に微量の魔力を使ってしまい……生命エネルギーが、限界……」
グゥゥゥゥッ、と青年の腹から、暗殺者らしからぬ悲しい音が鳴り響いた。
真木は大きくため息をつき、ホウキを置いた。
「……馬鹿者が。この世界で魔力を使うと即座に餓死しかけると言っているだろう。いいから上がれ、飯を食わせてやる」
* * *
「うっ……う、美味い……! なんという暴力的なまでの塩分と炭水化物! これが現代の携行食糧……ッ!」
大家部屋の六畳間で、久世颯太は真木が三分で湯切りした『大盛りソース焼きそば(カップ麺)』を、涙を流しながら一心不乱にすすり込んでいた。
黒木や凛花の時と全く同じ光景である。異世界から逃れてきた魔族は、皆一様に日本のジャンクフードのカロリーの虜になるのだ。
「落ち着いて食え。喉に詰まらせるぞ」
真木は麦茶の入ったコップを差し出しながら、久世の身の上話を聞いた。彼もまた、勇者の追撃を逃れて次元の歪みに飛び込み、昨日この杉並区に漂着したらしい。宝田不動産の志乃の手引きで身分証(住民票)の手続きは済ませてきたが、手持ちの金は完全にゼロだという。
「で、久世。お前もこの余の城に住みたいということだな」
「はっ! 我が命、再び魔王様の剣として……!」
「剣はいらん。家賃を払え。お前には103号室を与えよう。家賃は月額五万二千円だ」
真木はいつものように、分厚いバインダーから『建物賃貸借契約書』を取り出し、久世の目の前にバンッと突きつけた。
「や、家賃……? 主君の城に滞在するのに、私が金銭を納めるのですか?」
「ここは余が身銭を切って買った私有財産だ。タダで住まわせる道理はない。敷金と礼金は分割払いにしてやるから、お前も他の者たちと同様、今すぐ労働して現金を稼げ」
暗殺者として闇に生きてきた久世にとって、「敷金・礼金」という概念はあまりにも理不尽な響きを持っていた。しかし、大家としての威圧感を放つ真木の前では、契約書にサインする以外の選択肢はない。
「承知いたしました……。では、直ちに暗殺の任務を。この街の不穏分子、あるいは敵対する領主の首を刎ね、その報酬で家賃を納めてみせます」
スパーーーンッ!
真木の丸めたチラシが、久世の後頭部に炸裂した。
「あだっ!」
「馬鹿野郎! この日本で暗殺などすれば、即座に警察という名の騎士団に捕まり、死刑か無期懲役だ! 我がコーポ日ノ出から殺人犯を出してたまるか! アパートの資産価値が地に落ちるだろうが!」
「な、ならば私はどうやって現金を稼げばよいのです! 私には、気配を殺し、風を読み、最速で目標に到達する技術しかありません!」
久世は半泣きになりながら抗議した。
確かに、彼の言う通りだった。重装歩兵の黒木は解体現場の力仕事で、経理の天才である凛花は派遣の事務職で、そして吸血鬼の麗華は深夜のコンビニバイトで、それぞれの適性を見出している。
だが、久世のスキルは『暗殺』と『隠密行動』に特化しすぎている。学歴もなく、接客業に向くような愛想もない彼に、即座に現金を稼げる仕事などあるのだろうか。
「……ふむ。気配を消し、風を読み、最速で目標に到達する、か」
真木は腕を組み、しばし思案した後、ポンと手を叩いた。
「一つだけあるぞ、久世。お前のその特技を、合法的に、かつ最大限に活かせる『現代の暗殺任務』が」
「現代の……暗殺任務!」
「そうだ。標的の居場所を特定し、指定された時間内に、いかなる障害物もすり抜けて『ある物』を送り届けるミッションだ。報酬は完全歩合制。やればやるほど稼げる」
「おおおっ……! なんという胸躍る任務! 是非ともお任せください!」
真木はニヤリと笑い、久世の肩をポンと叩いた。
「よし。ならばまずは『武器』と『移動手段』の調達に行くぞ。ついてこい」
* * *
一時間後。
二人がやってきたのは、駅前にある中古自転車の専門店だった。
「自転車……? これが、私の移動手段ですか?」
久世は店先に並ぶ二輪の乗り物を、不思議そうに眺めていた。魔界には存在しない、細い金属のパイプとゴムのタイヤで構成された乗り物である。
「ただの自転車ではない。お前の機動力を極限まで引き出すための名馬、『ロードバイク』だ」
真木が指差したのは、ハンドルが羊の角のように曲がり(ドロップハンドル)、タイヤが極端に細い、スポーティな形状の自転車だった。
「見ろ、この無駄を削ぎ落とした軽量フレームを。魔力を使わずとも、人間の脚力だけで時速三十キロ以上の速度を叩き出すことができる。風を操るお前なら、空気抵抗を極限まで減らし、さらなる超高速移動が可能になるはずだ」
「おおお……! 魔力機関を持たずして、これほどの構造美! 触れただけで、風を切る感覚が伝わってきます!」
久世は感動に震えながら、その中古のロードバイクのフレームを愛おしそうに撫でた。
真木は店主と交渉し、初期投資として大家の財布から四万円を支払った(もちろん、久世の敷金・礼金の借金に上乗せされる)。
さらに真木は、中古のスマートフォンと、四角い『巨大な黒いリュックサック』を久世に手渡した。
「真木様、この箱のような背嚢は一体……?」
「これが、お前の暗殺任務に欠かせない装備だ。名付けて『デリバリーバッグ』」
「でりばりー……?」
「そうだ。お前の任務は、街の飲食店から『食料』をピックアップし、スマートフォンに表示されるターゲット(注文者)の自宅まで、最速かつ最高の状態で配達することだ。これを『フードデリバリー』という」
そう、真木が久世に勧めたのは、近年急速に普及している『自転車での料理配達員』の仕事であった。これなら履歴書も面接も不要で、アプリの登録さえ済ませればその日からすぐに働き始めることができる。
「なんと……食糧の輸送任務ですか。しかし、暗殺を生業としてきた私が、ただの運び屋など……」
「舐めるな、久世」
真木は鋭い視線で久世を睨みつけた。
「いいか。温かい料理は冷めず、冷たい飲み物はぬるくならず、さらには汁物の一滴すらこぼさずに、複雑に入り組んだ東京の路地裏を最短ルートで駆け抜ける。これは並の運動神経と空間把握能力では不可能な、極めて高度な『任務』なのだぞ!」
「……!」
「お前ならわかるはずだ。このデリバリーバッグの内部に施された保温・保冷の断熱材の構造が。そして、スマートフォンのGPSが示す目標地点へのナビゲーションシステムの精密さが。これを使いこなし、客から最高の評価を得ることこそが、現代の暗殺者の誇りではないのか!」
真木の熱弁(という名の方便)に、久世の暗殺者としての血が激しく滾り始めた。
「……理解しました。つまり、私は風となり、この箱の中の『脆弱なターゲット(ラーメンや寿司)』を、依頼人の元へ無傷で護送すればよいのですね!」
「そうだ! 一件届けるごとに数百円の報酬がチャリンチャリンと入る。一日に三十件こなせば、日当一万円以上も夢ではない!」
「やります! 私にやらせてください、真木様!」
久世はロードバイクに跨り、背中に巨大なデリバリーバッグを背負い、ヘルメットを深く被った。
その姿は、少しシュールではあるが、間違いなく『現代を生きる風の暗殺者』の誕生であった。
* * *
翌日の昼時。
杉並区の駅前ロータリーに、一台のロードバイクに跨り、目を閉じて全神経を集中させている青年――久世の姿があった。
周囲の喧騒を遮断し、大気の微かな振動すらも感じ取る研ぎ澄まされた集中力。
その時。
――ピロリンッ!!
ハンドルに取り付けられたスマートフォンから、甲高い電子音が鳴り響いた。
配達アプリの画面に、リクエストの通知が表示されたのだ。
カッ!と久世の瞳が開かれた。
「……標的、補足ッ!!」
久世は周囲の人が驚くほどの鋭い叫び声を上げ、瞬時に画面をタップしてリクエストを受諾した。
「ピックアップ店舗は駅裏の『中華料理・龍源』。商品は……『特製担々麺』と『麻婆豆腐』! 汁物とドロドロの熱菜の同時輸送とは、なんという高難度任務!」
久世はペダルを強く踏み込み、ロードバイクを急発進させた。
彼のペダリングは常軌を逸していた。風属性の暗殺者としての能力を「空気抵抗の削減」に全振りし、自らの肉体にまとわりつく空気の膜を切り裂くように進む。
通常なら五分かかる駅裏の店舗まで、わずか一分半で到着。
「たのもうッ!」
店に飛び込み、番号を伝えて熱々の担々麺の容器を受け取る。
「はいよ、兄ちゃん。汁こぼしやすいから、気をつけて運んでな!」
「御意! この久世颯太、命に代えましても!」
久世は商品をデリバリーバッグの中に慎重に配置し、隙間をタオルで完全に固定して衝撃を吸収するクッションを形成した。このあたりの手際の良さは、かつて魔力爆弾の輸送任務をこなしていた経験が見事に活きている。
店を飛び出し、再びロードバイクに跨る。
スマートフォンのナビが示すドロップ先(配達先)は、ここから約二キロ離れた住宅街のアパートの三階である。
「予想配達時間は十五分……だが、それでは麺が伸びてしまう。暗殺者にとって、標的の鮮度は命と同じ!」
久世は路地裏へとロードバイクを滑り込ませた。
ここからが、彼の真骨頂であった。
入り組んだ東京の裏道は、一方通行や行き止まりが多く、初見の配達員にとっては迷宮に等しい。しかし、久世は『風の微小な流れ』を肌で読むことで、どこが袋小路で、どこが大通りへ抜ける道なのかを、マップを見るまでもなく直感的に把握することができた。
「右からの風に、車の排気ガスの匂いが混じっている。……そちらは渋滞だ。ならば、左の細い路地を抜ける!」
シャァァァァッ!
ロードバイクの細いタイヤがアスファルトを擦る音だけを残し、久世は人混みと障害物を、まるで音のない影のようにすり抜けていく。
彼の背中にある巨大なバッグは、重力制御の魔法を使っているかのように微動だにしない。上半身の体幹を完全に固定し、下半身のペダリングのみで前進する『暗殺者の歩法』を自転車に応用しているため、バッグの中のラーメンのスープは、水面に波紋一つ立てずに安定していた。
(曲がり角! 死角からの歩行者の気配……三人! 回避行動に移る!)
超人的な気配感知能力により、飛び出してくる歩行者をコンマ一秒の差で華麗に避け、ブレーキを最小限に抑えてスピードを維持する。
「これだ……。敵陣の深深くまで潜入し、誰にも悟られずに刃を届ける、このスリル! 風を切り裂き、街と一体化するこの感覚……! 素晴らしい任務ではないか!」
完全に仕事の喜びに目覚めた久世は、狂気じみた笑顔を浮かべながら杉並の住宅街を爆走した。
「……お待たせいたしました! フードデリバリーです!」
目標のアパートに到着し、三階の部屋のチャイムを鳴らす。
ドアを開けたのは、寝起きのスウェット姿の若い男性だった。
「えっ? もう来たの? まだ注文して五分ちょっとしか経ってないんだけど……」
男性が驚きの声を上げる中、久世はデリバリーバッグを肩から下ろし、中から担々麺と麻婆豆腐の容器を恭しく取り出した。
「ご安心ください。スープの一滴すら漏らさず、熱々の状態のままお持ちいたしました。中身の確認をお願いします」
男性が容器のフタ越しに中身を見ると、確かに担々麺の盛り付けは店で出された直後のように美しく、スープも全くこぼれていなかった。おまけに、容器からは持てないほどの熱気が伝わってくる。
「す、すげえ……! 今まで何回も頼んだことあるけど、こんなに綺麗で早い配達員の人、初めてだよ!」
「お褒めにあずかり、光栄の至り!」
男性は感動のあまり、財布の中から五百円玉を取り出し、久世に差し出した。
「これ、少ないけどチップ! 本当にありがとう、またお兄さんに配達してほしいよ!」
「チ、チップ……!? 私のような運び屋に、追加の報酬を……!」
久世はその銀色の硬貨を両手で受け取り、深く、深く頭を下げた。
アパートを後にし、ロードバイクの傍らに立った久世は、手のひらに乗った五百円玉をじっと見つめていた。
魔界で暗殺任務を成功させ、血に塗れた金貨を受け取っていた時の感覚とは、全く違う。
誰かを笑顔にし、感謝され、自分の足で風を切って手に入れた、清々しいほどの『正当な労働の対価』。
「……悪くない。いや、最高ではないか」
久世の口元に、暗殺者特有の冷ややかな笑みではなく、一人の青年としての清々しい笑みがこぼれた。
その直後。
ピロリンッ!!
スマートフォンから、次なるリクエストの通知音が鳴り響く。
「おおっ! 次なる標的が現れたか! 待っていろ、名もなき依頼主よ! この疾風の久世颯太が、熱々のハンバーガーを今すぐ届けてみせようぞ!」
久世はロードバイクに飛び乗り、再び杉並の街へと疾風のように消えていった。
* * *
その夜。
コーポ日ノ出の大家部屋のちゃぶ台の上には、久世が初日の配達で稼ぎ出した一万数千円の現金と、チップの五百円玉が誇らしげに並べられていた。
「真木様! 初日の任務、無事完遂いたしました! 顧客満足度(評価)は一〇〇パーセントにございます!」
太ももをパンパンに張らせ、顔を真っ赤に日焼けさせた久世が、直立不動で報告する。
「うむ。よくやったぞ久世。お前の能力が現代社会の物流において、いかに高い適性を持っているかが証明されたな」
真木は満足げに頷き、その現金の中から、日割りの家賃と借金返済分として数千円を容赦なく抜き取った。
「これで今月の家賃の目処は立ったな。明日からも、我がコーポ日ノ出の平穏のため、ペダルを回し続けろ」
「ははっ! 疾風の暗殺者改め、最速の配達人として、杉並の街を駆け抜けてみせます!」
横で見ていた凛花が、電卓を叩きながらフッと口角を上げた。
「これで稼働率は六室中四室。空室は残り一部屋(201号室はのちに乃愛が入るとして、順番的にここでは残りわずかというニュアンス)ですね。満室経営まで、あと一息です」
「ああ。だが油断はできん。どんな厄介なトラブル(店子)が舞い込んでくるかわからんからな」
真木は窓の外を見上げた。
今日も東京の空には、無数の人間たちの欲望と、そしてほんのわずかな異世界の気配が渦巻いている。
元魔王の木造アパート経営は、新たな『風』を迎え入れ、さらに騒がしく、そして力強く前進していくのであった。




