第15話:満室への道
木造アパート『コーポ日ノ出』の朝は、規則正しい生活音とともに幕を開ける。
大家となってから数ヶ月。真木征司(元魔王ヴァルザード)は、大家部屋である一階奥の六畳間で、インスタントコーヒーの香りを楽しみながら窓の外を眺めていた。
梅雨の豪雨と台風を乗り越えた東京・杉並の空には、清々しい青空が広がっている。
「ふっ……。今日も我が領地は平和だな」
真木が満足げに呟くと、窓の外の共用廊下を、作業着姿の巨漢がドスドスと足音を立てて歩いていくのが見えた。
「真木様! おはようございます! これより大田組の解体現場へ出陣してまいります! 今日も我が筋肉とバールを以て、木造家屋を粉砕してくる所存!」
「うむ、ご苦労、黒木。熱中症には気をつけろよ。水分と塩分をしっかり摂るのだぞ」
「ははっ! 真木様の温かき御心、五臓六腑に染み渡ります! では!」
101号室の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)が、深々と九十度のお辞儀をして出勤していく。彼はすっかり現場の親方に気に入られ、今や大田組のエースとして、アパートの家賃を一日も遅れることなく納入する優良店子となっていた。
黒木と入れ替わるようにして、今度はフラフラとおぼつかない足取りで、ゴスロリドレスの上にコンビニの制服を羽織った女が帰ってきた。202号室の神埼麗華(元吸血貴族)である。
「あー、もう最悪……。今日の深夜、また酔っ払いのサラリーマンが唐揚げの在庫で文句言ってきたから、ちょっと強めに『殺気』を飛ばして黙らせてやったわ……。太陽が昇る前に帰れてよかった……」
麗華は手にしたコンビニ袋(廃棄予定だった消費期限ギリギリの弁当)をぶら下げ、あくびをしながら階段を登っていく。彼女もまた、最初は泣き叫んでいた深夜のワンオペバイトにすっかり適応し、夜の駅前コンビニを恐怖と規律で支配する有能なスタッフとして定着していた。
そして、共用ランドリースペースからは、先日商店街の福引で真木が執念で引き当てた『最新型ドラム式全自動洗濯機』の、ウィーンという静かで滑らかなモーター音が心地よく響いている。
家賃収入は毎月滞りなく回収され、店子たちはそれぞれの労働に従事し、アパートの設備も向上した。
真木はマグカップを置き、ちゃぶ台の上で腕を組んで深く頷いた。
「素晴らしい。これぞまさしく、余が思い描いていた『不労所得』による悠々自適なスローライフ。魔界の玉座で勇者の襲撃に怯えていた日々が嘘のようだ。我がコーポ日ノ出の経営は、完全に軌道に乗ったと言えるだろう!」
真木が高らかに勝利宣言をした、まさにその時である。
「――魔王様。ずいぶんと脳天気なことを仰っていますね」
背後から、氷点下の冷気を伴った声が響いた。
振り返ると、大家部屋の襖を開けて、102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が立っていた。彼女はパリッとした黒のビジネススーツに身を包み、片手には分厚いバインダー、もう片手にはノートパソコンを抱えている。
「り、凛花。今日は派遣の仕事は休みか?」
「はい。本日は土曜日ですので。それよりも大家、月に一度の『月次財務報告会議』の時間です。ちゃぶ台を空けてください」
凛花は真木の対面に正座すると、ノートパソコンを開き、エクセルのスプレッドシートを画面いっぱいに表示させた。
そこには、コーポ日ノ出の今月の収入、支出、そして今後の見通しが、無慈悲なまでの数字の羅列となって刻まれていた。
「な、なんだその深刻そうな顔は。今月の家賃は黒木も麗華も、そしてお前もきっちり納めたではないか。何一つ問題はないはずだ」
「確かに、キャッシュフロー(現金収支)の観点から見れば、現在はトントン……つまり、日々の生活費とアパートの光熱費を払って、わずかに黒字が出ている状態です。しかし、このエクセルの『長期予測シート』をご覧ください」
凛花がエンターキーをターンッ!と叩くと、画面のグラフが切り替わった。
右肩下がりに落ち込んでいく、真っ赤な折れ線グラフ。
「なっ!? なんだこの不吉な赤い線は! 我が軍の兵力低下を示しているのか!」
「これは『修繕積立金不足による将来的な破綻リスク』を示したグラフです。魔王様、あなたは目先の現金が入ってきただけで満足しておられますが、不動産経営というものはそんなに甘いものではありません」
凛花は眼鏡を指で押し上げ、教師がダメな生徒を諭すような厳しい口調で語り始めた。
「現在、コーポ日ノ出の入居状況は、101号室、102号室、202号室の三部屋。つまり稼働率はちょうど五十パーセントです。先日の雨漏り修繕や、全自動洗濯機の導入により、アパートの価値は向上しましたが、その分の蓄えは全くできていません」
「うっ……」
「このままの稼働率で推移した場合、来年春にやってくる『固定資産税』の支払いで手元の現金は底をつきます。さらに、数年後に必ずやってくる外壁塗装工事(約二百万円)の費用など、到底捻出できません。魔王様、現状維持はすなわち『緩やかな衰退』を意味するのです」
現状維持は緩やかな衰退。
その言葉は、魔王として軍勢を率いていた頃にも、嫌というほど実感してきた真理であった。領土を拡大し続けなければ、軍は内側から腐敗し、資源は枯渇する。
資本主義におけるアパート経営も、まったく同じ構造だというのか。
「……では、どうすればいいのだ。余の食費をもやし一袋まで削るか?」
「大家が餓死しては元も子もありません。答えは明白です。残り二部屋の空室を埋めるのです」
凛花はホワイトボードに、大きく『入居者募集』と書き殴った。
「103号室と203号室。この二部屋に新たな店子を迎え入れ、家賃収入のベースラインを根本的に引き上げなければ、我が帝国は遠からず税金と経年劣化によって崩壊します。満室経営こそが、大家としての絶対的な防衛ラインなのです」
「残り、二部屋……!」
真木はゴクリと唾を飲み込んだ。
確かに、これまでは身内(元魔王軍の幹部たち)が偶然転がり込んできただけで、大家として主体的に入居者を集めたわけではない。
「わかった。凛花の言う通りだ。これ以上の衰退を防ぐため、至急、新たな店子を募集する手立てを打とう!」
真木はすぐさまチラシの裏紙とマジックペンを取り出し、猛烈な勢いで『入居者募集』の広告案を作成し始めた。
「よし、できたぞ凛花! これを見よ!」
数分後、真木がドヤ顔で提示したチラシには、筆ペンで禍々しくこう書かれていた。
『求む、我が城の新たな領民(店子)!
コーポ日ノ出、日当たり良好! 最新の魔導具(ドラム式洗濯機)完備!
敷金礼金は分割可の慈悲深き処置あり!
※ただし、家賃滞納はギルティ(重罪)とする! 近隣の主婦を怒らせる者、深夜の騒音、可燃ゴミの分別を怠る者は即刻ベランダに逆さ吊りの刑に処す! 命が惜しくば真っ当に働け!』
「……魔王様。こんな脅迫状のようなチラシを見て、誰が住みたいと思うのですか。カルト教団の入信案内かと思いましたよ」
凛花は冷ややかな目でチラシをビリビリに破り捨てた。
「ええい! ではどうしろというのだ!」
「素人が小細工をする必要はありません。我々には、強力なビジネスパートナーがいるではありませんか」
* * *
その日の午後。
真木と凛花の二人は、駅前通りから一本裏に入った路地にある『宝田不動産』の暖簾をくぐっていた。
「いらっしゃいませー。あ、真木さんに佐伯さん。どうしたの、アパートに何かトラブルでもあった?」
幻惑種族の末裔であり、この世界の不動産ルールに精通している若女将の宝田志乃が、お茶を啜りながらカウンターから顔を出した。
「トラブルではない。志乃、我がコーポ日ノ出の空室を埋めるべく、貴様の不動産ネットワークの力を借りに来たのだ」
真木が堂々と宣言すると、志乃は少し驚いたように目を丸くし、それからクスリと笑った。
「へえ。真木さん、大家業を始めて数ヶ月経つけど、ずいぶんと大家らしい顔つきになってきたじゃない。最初は満員電車で潰れそうになってた元魔王様とは思えないわね」
「ふん。この世界の資本主義の恐ろしさを骨の髄まで味わわされたからな。現状維持は緩やかな衰退……我が城を確固たる要塞とするためには、残り二部屋の空室を満室にする必要があるのだ」
真木が真剣な眼差しで訴えると、志乃も不動産屋としてのプロの顔になった。
「なるほどね。確かに、今のままじゃ大規模修繕の時にローンを組む羽目になるわよ。わかったわ、うちの店舗の窓ガラスに図面を張り出して、近隣の不動産ネットワーク(レインズ)にも空室情報を流しておくわ」
志乃はパソコンのキーボードを叩きながら、コーポ日ノ出の物件データを更新していく。
「家賃は周辺の相場より少し安め。日当たりは悪くないし、新しくドラム式洗濯機も入ったなら、若い単身者の目に留まる可能性はあるわね。……ただ、一つだけ覚悟しておいてね、真木さん」
「覚悟、だと?」
「ええ。これまではあなたの身内というか、同じ異世界から来た知り合いばかりを入居させてたでしょ? でも、一般に募集をかけるということは、まったく素性の知れない『本物の現代の人間』が内見に来るかもしれないってことよ」
志乃は真剣な声で忠告した。
「家賃を払わない不良入居者、夜中に騒ぐ大学生、ゴミ屋敷を作ってしまう人……。大家業の一番のリスクは、そういった『厄介な店子』を間違って入れてしまうことなの。入居審査は私がきっちりやるけど、最終的に誰に部屋を貸すかを決めるのは、大家である真木さんの目利きにかかっているわ」
「……厄介な店子、か」
真木は腕を組み、力強く頷いた。
「案ずるな、志乃。余はかつて、数百万の魔族を束ね、力と恐怖で統治していた男だ。人間の若者一人や二人の本質を見抜けないようでは、大家など務まらん。いかなる者が来ようとも、我がアパートの平穏とルールに従わせてみせる」
「頼もしいわね。それじゃあ、いい報告ができるように募集をかけておくわ。吉報を待っててちょうだい」
「頼んだぞ。手数料は正規の額をきっちり払うからな」
「あら、魔王様が手数料を値切らないなんて、成長したじゃないの」
「ギブアンドテイクこそが、この世界で生き残るための鉄則だと学んだのでな」
* * *
宝田不動産を出て、コーポ日ノ出へと歩いて帰る道すがら。
夕暮れの茜色が、杉並区の住宅街を美しく染め上げていた。
スーパーで買い物をした主婦たちが自転車で行き交い、公園からは子供たちの笑い声が聞こえてくる。魔力も魔法も存在しない、ただの平凡で、それゆえに尊い人間の営み。
真木はレジ袋(特売の卵と、もやし三袋)を提げながら、隣を歩く凛花に言った。
「凛花。余は絶対に、コーポ日ノ出を満室にしてみせるぞ。そして、修繕積立金を貯め、外壁をピカピカに塗り直し、この街で一番立派な城を築き上げてやる」
「はい。そのための帳簿管理と経費削減は、この私にお任せください。共に資本主義の頂点を目指しましょう、魔王様」
二人が夕日に向かって固い決意を誓い合っていた、その瞬間であった。
――ピリッ。
真木の肌を、微かな静電気が撫でるような感覚が走った。
足が止まる。
「大家? いかがなされました?」
「……今、空気が歪まなかったか?」
真木はレジ袋を持ったまま、夕焼け空を見上げた。
大気中のエーテル(魔力)が完全に枯渇しているこの現代日本において、それは絶対にあり得ない感覚だった。
ごく微量ではあるが、確かに空間が引き裂かれ、異界の波長がこちらの世界へと漏れ出してきている気配。魔界の覇王として頂点に君臨していた真木の魂が、その『馴染み深い波長』を鋭く感知していた。
「凛花、お前も感じたか。この街の空に混じった、微かな異世界の魔力の揺らぎを」
凛花もまた、眼鏡の奥の瞳を険しく細め、空を見上げた。
「……はい。極めて微弱ですが、次元跳躍の痕跡です。おそらく、我々と同じように勇者の追撃から逃れた魔族か、あるいは……」
夕焼け空の向こう、赤く染まった雲の隙間から、流れ星のような一筋の光が、東京のどこかへと音もなく落ちていくのが見えた。
「……また厄介な奴が落ちてきたか」
真木は深々とため息をつき、頭を掻いた。
せっかくアパート経営が軌道に乗りかけ、平穏な不労所得生活が見え始めていたというのに。もしあれが同胞であれば、放っておけば東京の街で大暴れし、警察沙汰になって真木たちの安寧まで脅かされる危険性がある。
かといって、もしあれが追撃してきた勇者軍の残党であれば、血みどろの戦闘は避けられない。
「大家、いかがいたしますか。調査に向かいますか?」
「いや、今は焦る必要はない。この魔力ゼロの世界に落ちてきたのなら、いかなる強者であろうと三日もすれば飢餓と疲労で動けなくなる。我々が黒木や麗華を回収した時のようにな」
真木は口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「それに、ちょうどよかったではないか」
「ちょうどよかった、とは?」
「我が城には、まだ空室が二つ残っている。もし落ちてきたのが野垂れ死にそうな魔族であれば、保護して社会適合訓練を受けさせ、家賃を徴収するための『新たな店子』として組み込んでやるまでだ」
かつての魔王は、今や完全に『資本主義の大家』としての思考に染まり切っていた。
異世界の脅威すらも、アパートの稼働率を上げるためのビジネスチャンスとして捉えるその逞しさ。
「流石は真木様。頼もしい限りです。では、夕食の準備に戻りましょう。本日は特売の卵を使った、もやしの卵とじ炒めですね」
「うむ。栄養をつけて、次なるトラブル(入居者)の襲来に備えるぞ」
二人は夕闇が迫る住宅街を、コーポ日ノ出に向けて再び歩き出した。




