小さな魂
《黒禍狼》は、すぐには動かなかった。
広場の中央に立ち、赤い双眸で周囲を見渡している。
逃げ惑う人々。
泣き叫ぶ子供。
武器を構える騎士たち。
だが。
そのどれにも襲いかかろうとはしない。
「……?」
エルンが眉を寄せた。
黒禍狼が、ゆっくりと鼻先を持ち上げる。
何かを探すように。
空気の匂いを嗅ぐ。
「……まずいですね」
「え?」
隣で、ユリアンの表情が変わった。
「《黒禍狼》は、戦いや血の匂いに敏感です」
「血……?」
「古い記録では、争いのある場所へ自ら赴く、と」
黒禍狼の頭が動く。
ゆっくりと。
西へ。
その先から、微かに聞こえてくる。
警鐘。
怒号。
そして、金属と金属がぶつかる音。
「……西門?」
「ええ」
ユリアンが唇を噛んだ。
「もうすぐ、西門付近からエルドリアの兵士が雪崩れ込んできます」
「……え?」
エルンが振り返った。
「エルドリア?」
「はい」
「なんで……」
一瞬。
エルンの顔が強張る。
「なんで教授が、それを知ってるんですか!?」
ユリアンは黙った。
だが。
今更、取り繕う意味などなかった。
「クーデターです」
「……は?」
「今日、この王都で起こす予定でした」
「クーデター……?」
エルンは言葉を失った。
だが、すぐに首を振る。
「待ってください!」
「……」
「クーデターになんで他国が出てくるんですか!?」
「攻めさせるためです」
「何を――」
「エルドリアの兵を、マニールへ攻め込ませる」
ユリアンの視線が黒禍狼へ向いた。
「そして」
一拍。
「召喚した《フェンリル》で撃退する」
「……!」
「それが、グランツ公爵の計画です」
エルンの顔から血の気が引いた。
「わざと……攻めさせる?」
「ええ」
「じゃあ、エルドリア王国とグランツ公爵が……」
「おそらく、違います」
「え?」
「エルドリアという国そのものは、この件を知らないでしょう」
ユリアンは西を見た。
「兵を率いている貴族も、おそらく騙されています」
「騙されて……」
「グランツ公爵が何を吹き込んだのか、そこまでは知りません」
しかし。
結果だけは分かっている。
王都へ攻め込んだ兵士たち。
そこへ。
本来ならば、制御された神獣が現れる。
そして――撃退する。
エルンが、ゆっくりと黒禍狼を見る。
「じゃあ……」
声が震える。
「その貴族も、兵士たちも……」
ユリアンは答えなかった。
その沈黙だけで。
十分だった。
「……そんな」
エルンが呟く。
「そんなことのために……」
「私の目的は、彼とは違いました」
ユリアンが言った。
「違う?」
「グランツ公爵が欲したのは、神獣という力です」
「……」
「私が欲しかったのは――召喚術そのものだった」
エルンの眉が寄る。
「でも、協力した」
「ええ」
「分かってて」
「ええ」
ユリアンは否定しなかった。
「私には、彼に縋るしかなかった」
「縋る……?」
「研究には金が要る」
静かな声だった。
「古い資料へ辿り着くための伝手も必要です。普通ならば閲覧すら許されない記録。触れることのできない魔道具。失われた術式の断片」
「……」
「私には、そのどれもなかった」
ユリアンは自嘲するように笑った。
「ですが、グランツ公爵にはあった」
「だから……」
「資金も、伝手も」
自らの胸に手を置く。
「召喚術を極められるのなら――」
ほんの少し。
目を伏せる。
「こんな小さな魂を差し出すには、十分でした」
「……」
エルンは何も言わなかった。
言えなかった。
ただ。
その言葉を飲み込むには。
あまりにも多くの人間が、今この王都にいた。
その時。
――グルルルル……。
低い唸り。
二人が同時に顔を上げる。
《黒禍狼》が。
西へ向けて、一歩を踏み出した。
石畳が砕ける。
「……さあ」
ユリアンが眼鏡を押し上げる。
もう研究者の目ではない。
魔導士の目だった。
「奴が動き出します」
エルンも前へ出る。
「教授」
「はい」
ほんの少し前まで。
教師と生徒だった。
その教師は、自分を騙した。
それでも。
今は。
「止めますよ」
エルンが息を吐く。
「……はい」
王立歌唱魔導学園。
かつての最強と。
今の最強。
二人の魔導士が。
同時に譜式を展開した。
◇
中央神殿前。
パラディン任命式を終えたばかりの広場は、先ほどまでとはまるで違う場所になっていた。
王の近衛が、アイザックとシノを幾重にも取り囲む。
その最前列。
新調された白銀の鎧を纏ったライアスが、《ディグニティ》の柄に手を置いていた。
「パラディン」
「はっ」
アイザックが横目で見る。
「どうやら、最初の仕事になりそうだな」
ライアスが僅かに笑った。
「任命早々、随分と重い仕事をくださいますね、陛下」
「不満か?」
「まさか」
聖剣を抜く。
刃に刻まれた三神の紋章が、光を受けた。
「このためのパラディンでしょう」
その時だった。
――ズン。
地面が揺れた。
「……何だ?」
騎士たちが一斉に構える。
もう一度。
――ズン。
建物の向こう。
黒い何かが。
ゆっくりと、その巨体を現した。
「な……」
近衛の一人が絶句する。
「何だ、あれは!?」
シノも目を見開いた。
「……おおきい」
「嬢ちゃん、下がれ」
ライアスが即座にシノの前へ出る。
巨大な黒い狼。
その周囲では。
空気そのものが歪んで見えた。
「陛下ぁぁぁ!」
聞き覚えのある声が、神殿前に響く。
「ロイド!」
宮廷魔導士長ロイド・ブレイズが、供を置き去りにする勢いで駆けてくる。
「見えとります!」
息を切らしながらも。
黒い巨狼を見た瞬間。
その顔からいつもの軽さが消えた。
「……ありゃ、やばい」
「何がだ」
ロイドが周囲を見渡す。
目に見えぬものを見るように。
「マナが暴れとる」
「マナが?」
「奴の周りだけじゃない」
ロイドが舌打ちする。
「王都の自然マナそのものが、あれに引っ張られて乱れ始めておる」
「……」
シノが胸元を押さえた。
「シノ?」
「なんか……変」
うまく言葉にできない。
けれど。
いつもなら、自分の歌を聞いてくれる何かが。
ざわざわと。
怯えているような。
苦しんでいるような。
「……苦しそう」
ロイドがシノを見る。
だが。
その横で。
「あ……」
一人。
ライラメス司祭だけが。
全く別の顔をしていた。
「あ……ああ……」
顔面から血の気が引いている。
震える指で。
胸に三本の線を引く。
「神よ……」
「どうした、ライラメス」
アイザックが問う。
ライラメスは黒い巨狼から目を離せない。
「神よ……なぜ、このような……」
「何を知っている」
「陛下……」
震える声。
「あれは」
一度、息を呑む。
「神獣にございます」
「何?」
「正しくは……神獣の表裏」
「表裏?」
ライラメスが頷く。
「神獣の、裏なる姿」
赤い目が。
遠く。
王都を見下ろす。
「《黒禍狼》にございます」
誰も言葉を発しなかった。
「神獣の……裏」
アイザックが呟く。
「はい」
「そんなものが存在するのか」
「神獣には、我々が決して呼んではならぬ側があると」
ライラメスの声が掠れる。
「古い神殿記録にのみ残されております」
アイザックの脳裏に。
幾つもの事実が繋がっていく。
すり替えられた王家の秘宝。
グランツ公爵の逃亡。
召喚譜式。
そして。
今日、突然現れたエルドリア兵。
「……エルドリア兵に」
拳が握られる。
「神獣……」
アイザックの顔に怒りが浮かぶ。
「国を滅ぼす気か、グランツ!」
近衛たちが息を呑む。
「なぜだ……!」
その横で。
シノが、はっと顔を上げた。
「あっち……」
「シノ?」
「商店街」
その顔から血の気が引く。
「あっちに、学園の模擬店がある!」
エルンがいる。
ユリアンがいる。
学園のみんながいる。
「行かなきゃ!」
シノが一歩踏み出す。
「ならん!」
アイザックの声が飛んだ。
「アイク先生!」
「駄目だ」
「でも、エルンが!」
「騎士団を向かわせる」
「わたしも行く!」
「ならんと言っている!」
シノが唇を噛む。
「助けに行くだけだよ!」
「それでもだ!」
アイザックが、シノの前へ立つ。
「其方が誰かを助けたいと思うことは分かる」
「だったら――」
「だからこそ行かせぬ!」
「……!」
「導師として」
真っ直ぐ。
弟子を見る。
「弟子を、あのような場所へ向かわせることはできん」
そして。
今度は王として。
「王としても」
王都を見る。
「其方を失う危険を許すことはできん」
「アイク先生……」
「導師としても、王としても――まかりならん!」
シノは何も言えなかった。
その時。
黒禍狼の周囲に。
黒い靄が滲んだ。
「……?」
一つ。
二つ。
三つ。
地面へ落ちる。
そして。
獣の形を取っていく。
「何、あれ……」
四足。
黒い身体。
鋭い牙。
そして。
三つの頭。
ライラメスが叫んだ。
「しまった!」
「どうした!」
「眷属召喚です!」




