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黒禍狼

 そこに現れたのは――。


 黒い、巨大な狼だった。


 いや。


 狼と呼ぶには、あまりにも大きい。


 広場を囲む建物の屋根に届きそうな巨体。


 夜そのものを固めたような黒い毛並み。


 口元から覗く牙は一本一本が剣のように鋭く、その双眸だけが、禍々しい赤に染まっている。


「……」


 エルンは声を失った。


 王都を守るはずだった。


 今、自分が完成させたのは。


 大規模防御結界だったはずだ。


 なのに。


 結界など、どこにもない。


 黒い巨狼はゆっくりと前脚を石畳へ降ろした。


 ――ズン。


 ただそれだけで、広場が揺れた。


「きゃあ!」


「何だ、あれは!」


「逃げろ!」


 避難していた人々から悲鳴が上がる。


「……教授」


 エルンが振り返った。


 ユリアンは、黒い巨狼を見上げていた。


 恐怖しているようには見えない。


 驚愕。


 そして、それ以上に――落胆。




「……失敗だったみたいですね」




「……え?」


「ああ……嘆かわしい」


 ユリアンが小さく息を吐く。


「あと少しだったはずなのですが……何が駄目だったんでしょう」


「教授?」


 エルンは目の前の巨狼と、空に残る巨大な譜式を交互に見る。


「ちょっと待ってください」


「はい?」


「失敗って……」


 声が震えた。


「失敗って、あまりにも違うじゃないですか!」


「……」


「結界なんて、どこにもない!」


「ええ」


 ユリアンは、あまりにも平然と頷いた。


 そして。


 まるで講義の続きを説明するように言った。




「これ、召喚術です」




「……は?」


 エルンの思考が止まった。


「召喚……?」


「はい」


「じゃあ……」


 もう一度。


 黒い巨狼を見る。


「何を……呼び出したんですか?」


 ユリアンは、しばらく答えなかった。


 黒い巨体を見上げ。


 その姿を確かめるように、赤い双眸へ目を向ける。


「……本来」


 ようやく口を開いた。


「呼び出すはずだったのは、《フェンリル》です」


「フェンリル……?」


「ええ。古い神殿記録に残る神獣です」


 ユリアンは空に残った譜式を見上げる。


「この歌を正しく譜詩として読み解き、最後まで術式を完成させる」


「……」


「そうすれば《フェンリル》が顕現する。そして、召喚が完全に成立したなら――」


 エルンを見る。


「術者との間に繋がりが生まれる」


「繋がり……?」


「ええ」


 一拍。


「制御が可能になるはずでした」


 エルンの顔が強張る。


「制御……?」


「少なくとも、残された記録ではそうなっています」


「だから……」


「はい」


 ユリアンは黒い巨狼を見る。


「成功さえすれば、危険はないと考えていました」


「……」


「神獣《フェンリル》を召喚し、その力を術者の管理下に置く」


 わずかに。


 その声に熱が戻る。


「失われた召喚術の、完全な再現です」


「じゃあ……」


 エルンが黒い巨狼を見る。


「これは何なんです?」


 ユリアンの表情が曇った。


「……違うんです」


「何が」


「これは、《フェンリル》ではありません」


 黒い巨狼が低く唸った。


 びりびりと空気が震える。


「古い記録には、《フェンリル》とは別に、もう一つの名が残されていました」


「別の……?」


「詳細はほとんど失われています」


 ユリアンの目が細くなる。


「ただ一つ」


 記憶を辿るように。


「フェンリルを求める者――決してその歌を、裏へ届かせることなかれ、と」


「裏……?」


「そして、その先にいるものとして記された名が」


 黒い狼が牙を覗かせる。


「《黒禍狼》」


「……こっかろう」


「呼んではならないもの」


 ユリアンが呟く。


「それ以上の記録はありませんでした」


「知ってたんですか!?」


「存在だけは」


「だったら!」


「ですが」


 ユリアンの声が強くなる。


「譜式は正しかった」


「……」


「君の魔力操作も完璧でした」


 空中に残る五つの術式。


「第一節から第五節まで。要求される階梯より、正確に一段上」


「……」


「最後も、第六階梯相当で完全に止めた」


 ユリアンは首を振る。


「ならば、現れるのは《フェンリル》のはずだったんです」


「……」


「そしてフェンリルならば、召喚者との繋がりが成立する。制御もできる」


 黒禍狼を見る。


「だからこそ――」


 ユリアンの声が沈む。


「これは、失敗です」


 エルンは何も言えない。


 成功するはずだった。


 制御できるはずだった。


 ユリアンは本気でそう考えていた。


 だから。


 王都の中心で。


 人々が集まるこの場所で。


 こんな術式を完成させようとした。


「……これ」


 エルンの声が掠れる。


「俺が呼んだんですか?」


「ええ」


 答えは早かった。


「君が最後まで譜式を完成させました」


「……」


「私には届かなかった領域へ、君は届いた」


「教授は……」


「はい」


「前にも、やったんですか?」


 ユリアンが少しだけ目を伏せる。


「一度」


「……」


「理論には辿り着いていました。しかし、人間が扱える魔力操作は第五階梯まで」


 小さく笑う。


「ですから、道具の力も借りました」


「道具……?」


「それでも駄目でした」


 あの日。


 秘宝の力を借り。


 最後の一段へ手を伸ばした。


 それでも。


 完全には届かなかった。


「だから……」


「ええ」


 ユリアンがエルンを見る。


「君が必要だったんです」


「……」


「君ならば届くと思った」


 エルンの拳が震える。


「それで……ここ何日も」


「君の魔力操作を見ていました」


「歌唱魔導科に来てたのも……」


「ええ」


 ユリアンは否定しなかった。


「君は単に魔力量が多いわけではない」


「……」


「大量の魔力を維持しながら、必要な階梯へ正確に合わせ、そこに留めることができる」


 僅かに笑う。


「私が探していた術者そのものでした」


「……俺を」


 エルンの声が震える。


「俺を騙したんですか」


「ええ」


 即答。


「結界だって」


「言いました」


「嘘だったんですね」


「はい」


 それだけは。


 誤魔化さなかった。


「……なんで」


 その時だった。


 空中に残っていた譜式が、一度大きく明滅した。


 ユリアンが顔を上げる。


「……まずい」


「え?」


 一つ。


 術式を形作っていた光が消える。


 続いて。


 もう一つ。


「時間がありません」


「何が――」


「譜式が消えます」


 黒禍狼の周囲に残っていた光が、少しずつ崩れていく。


 召喚者と。


 呼び出された存在を繋ぐはずだった譜式。


 だが。


 そこにいるのはフェンリルではない。


 繋がりは。


 最初から成立していなかった。


「エルン君」


 ユリアンの声が変わった。


「逃げてください」


「は?」


「今すぐです」


「教授!」


「こうなったら、もう誰にも止められません」


 エルンがユリアンを睨んだ。


「何で……」


「……」


「何でこんなことをしたんですか!」


 ユリアンが振り返る。


「こんなこと?」


 ほんの一瞬。


 本当に、問いの意味が分からなかったような顔をした。


「こんなことって……!」


 エルンが黒禍狼を指す。


「王都の真ん中で! こんなものを呼び出して!」


「……」


「ここに何人いると思ってるんですか!」


 怯える人々。


 泣いている子供。


 学園の生徒たち。


 商店街の店主たち。


「何のために!」


 ユリアンは、しばらく黙っていた。


 それから。


 ほんの少し。


 寂しそうに笑った。


「私にとっては、夢だったんですよ」


「……夢?」


「召喚士です」


 ユリアンは黒禍狼を見上げる。


「古い書物の中にしか存在しない」


「……」


「神獣を呼び、人ならざるものと繋がり、その力を借りる者」


 その声には。


 確かな憧れがあった。


「子供の頃から、何度も読みました」


「……」


「ですが、誰も使えない。誰も見たことがない。術式さえ失われている」


 自嘲するように笑う。


「手に届かないものほど、人は求めて、手を伸ばす」


「だからって……!」


「ええ」


 ユリアンは、崩れていく譜式を見る。


「どうやら」


 また一つ。


 光が消える。


「手を伸ばしてはいけないものも、あったようです」


 そして。


 静かに。


「これは、愚かな人類への罰ですね」


「違う!」


 エルンの声が広場に響いた。


 ユリアンが振り向く。


「あなたは俺を騙しましたね」


「……ええ」


「だったら!」


 エルンが周囲を指した。


「あなたの罰は、あなたが受けるべきだ!」


「……」


「この場にいる誰にも関係ない!」


 ユリアンの表情が止まる。


「この人たちは、あなたの夢なんて知らない!」


「……」


「俺だって知らなかった!」


 拳を強く握る。


「あなたが手を伸ばした結果なら――」


 黒禍狼が牙を剥く。


「あなたが責任を取ってください!」


 しばらく。


 ユリアンは何も言わなかった。


 逃げ惑う人々を見る。


 泣いている子供を見る。


 そして。


 自ら呼ぼうとした神獣とは似ても似つかぬ、黒き災厄を見る。


「……そうですね」


 静かに眼鏡を押し上げた。


「止めないといけません」


 最後の譜式が。


 消えた。


 ――ゴォォォォォォッ!!


 《黒禍狼》が頭を上げる。


 巨大な口が開く。


 赤い双眸が。


 広場に集まった人々を捉えた。


「教授」


「はい」


 エルンが前へ出る。


 ユリアンも。


 その隣へ並んだ。


 次の瞬間。


 《黒禍狼》の咆哮が――


 王都に響き渡った。


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