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エルンの召喚魔導

 商店街は、つい先ほどまで開国祭の賑わいに満ちていた。


 王立魔導学園の模擬店にも人が押し寄せ、エルンは朝から生徒たちに混じって忙しく動き回っていた。


「ファルク! そっちの箱!」


「はい!」


「教授、これどこに置きます?」


「そのまま奥へお願いします」


 なぜかユリアンまで当然のように店を手伝っている。


 そんな、どこにでもある祭りの一日だった。


 ――鐘が鳴るまでは。


 最初は一度。


 続いて二度、三度。


 祭礼の鐘とは違う。


 短く、激しく。


 王都に危険を知らせる警鐘だった。


「……何だ?」


 エルンが顔を上げる。


 通りの向こうから騎士が駆けてきた。


「避難しろ! 全員、広場へ!」


「何があったんです!?」


「敵襲だ!」


 辺りが静まり返る。


 ほんの一瞬。


 次の瞬間には悲鳴が上がった。


「敵襲!?」


「王都に!?」


「開国祭だぞ!」


「走るな! 押すな! 子供を先に!」


 騎士たちの怒号が飛び交う。


 店主たちは慌てて店を閉め、生徒たちも客を誘導し始めた。


「皆さん、広場へ!」


 ユリアンが声を張る。


「荷物は置いてください! 今は避難を優先して!」


「教授!」


「エルン君、こちらを!」


 二人も生徒たちとともに人の流れへ入った。


 商店街からほど近い広場には、次々と市民が集められていく。


 泣き出す子供。


 家族を探して名前を叫ぶ者。


 何が起きているのか分からず、ただ不安そうに空を見上げる老人。


 遠くから。


 また鐘が鳴った。


 その向こうでは、兵士たちが慌ただしく走っている。


「……教授」


 エルンが広場を見渡した。


「はい」


「俺たちも、何かしましょう」


 ユリアンがエルンを見る。


「騎士団の戦いに割って入れるとは思いません。でも――」


 エルンの視線が、避難してきた人々へ向く。


「少なくとも、ここにいる人たちを守るくらいは」


「……そうですね」


 ユリアンは静かに答えた。


「我々も戦いましょう」


 そして。


「少なくとも――守りましょう」


「はい」


 エルンが頷く。


 ユリアンはその横顔を、しばらく見つめていた。


「エルン君」


「はい?」


「君にしかできない歌唱魔導をお願いします」


 エルンが振り向いた。


「……俺にしか?」


「ええ」


 ユリアンは周囲を確認すると、一歩近づく。


「今から私が教える歌を、歌唱魔導として歌ってください」


「歌?」


「ただ歌うのではありません」


 ユリアンの声が低くなる。


「譜式を意識して、この歌を歌ってください」


「……何の歌です?」


 ユリアンは答えた。


「『大きな大きなお犬さん』です」


「……」


 エルンが固まった。


「教授」


「はい」


「それ、童謡ですよね」


「ええ」


「子供が歌うやつですよね」


「そうですね」


 エルンの眉間に皺が寄る。


「今、ふざけてる場合じゃないでしょう!」


「ふざけてなどいません」


 ユリアンの声は変わらなかった。


「……え?」


「あれは、大魔法の譜式です」


 エルンの表情から怒りが消える。


「……何ですって?」


「私は、ようやく辿り着きました」


 ユリアンは続ける。


「古くから神殿に残されている童謡。その一部には、歌唱魔導の譜詩そのものが童謡として残されている」


 エルンが息を呑む。


 思い出した。


 神殿で見た、古い絵本。


 最後のページに書かれていた童謡。


 あの時、自分自身が感じたこと。


 ――これ、もしかしたら。


 歌唱魔導の譜詩として読めるのではないか。


「……本当に、あったんですか」


「ええ」


「童謡の中に……」


「ただし」


 ユリアンが指を一本立てる。


「普通に歌っても何も起こりません」


「……」


「その歌を歌唱魔導であると認識し、譜式を意識して歌う。それが最初の鍵です」


 エルンの目が変わった。


 もう疑ってはいない。


 魔導士の目だった。


「術式は?」


「五節」


 ユリアンが答える。


「第一節には第一階梯の譜式」


「第一階梯」


「ですが、第一階梯相当の魔力では完成しません」


「……どういうことです?」


「一段階上です」


 ユリアンがエルンを見る。


「譜式が示す階梯より、正確に一段階上で止めてください」


「止める……?」


「はい。それ以上は上げないでください」


 ユリアンが指を折る。


「第一節。第一階梯の譜式を、第二階梯相当の魔力操作で完成させる」


 二本目。


「第二節は第二階梯の譜式を、第三階梯で」


 三本目。


「第三節は第四階梯」


 四本目。


「第四節は第五階梯」


 そして。


 最後の一本。


「第五節」


 エルンの顔が強張った。


「……第六階梯」


「そうです」


「教授」


 エルンが即座に首を振る。


「無理ですよ」


「……」


「第五階梯が人間の最高到達点です。第六階梯なんて古代魔導の領域だ」


「承知しています」


「だったら――」


「だから、君に頼んでいるんです」


 エルンが黙った。


 ユリアンは穏やかだった。


「私はここ数日、君の魔力操作を見てきました」


「……それで歌唱魔導科に?」


「研究者ですから」


 僅かに笑う。


「君は単に魔力量が多いだけではない」


 エルンの目をまっすぐ見る。


「大量の魔力を扱いながら、術式を壊さず、必要な位置で留めることができる」


「でも、第六は……」


「完全な第六階梯の魔導を使えと言っているわけではありません」


 ユリアンは静かに言った。


「最後の譜式を閉じるために、ほんの一瞬だけ」


 一拍。


「人間の限界を、一段だけ越えてください」


 遠くで。


 何かが爆ぜる音がした。


 広場の人々がざわめく。


 子供が母親へしがみついた。


 エルンはそちらを見た。


「……この魔導」


 しばらくして、尋ねる。


「何なんです?」


 ユリアンは答える。


「大規模防御結界です」


「結界?」


「ええ」


 ユリアンが広場を見渡す。


「古代に使われた、広範囲を覆う防御魔導」


「……」


「今から通常の術式を組み、十分な強度と範囲を持つ結界を構築するには時間がありません」


「でも、この歌なら?」


「譜式そのものが完成されています」


 ユリアンは言う。


「君ならば、発動できる」


 エルンは周囲を見た。


 学園の仲間たち。


 商店街の人々。


 避難してきた子供たち。


「……どこまで」


「はい?」


「どこまで守れます?」


 ユリアンは少しだけ間を置いた。


「君次第です」


 そして。


「少なくとも、この広場だけではない」


 エルンが息を吐いた。


「……」


 もう一度、遠くを見る。


「教授」


「はい」


「本当に、守れるんですね?」


 ほんの僅か。


 ユリアンの返事が遅れた。


「……ええ」


 エルンは気づかなかった。


 騒音に紛れてしまうほどの、小さな間だった。


「分かりました」


 エルンが前へ出る。


「やります」


「お願いします」


 広場の中央。


 エルンが目を閉じた。


 息を整える。


 ただの童謡としてではない。


 歌唱魔導。


 譜詩。


 譜式。


 意識を切り替える。


 そして。


 歌い始めた。


 誰もが知っている。


 幼い頃に、一度は耳にしたことのある歌。


 大きな。


 大きな。


 お犬さん。


 その第一節を歌った瞬間。


「……!」


 エルンの周囲に光が走った。


 空中に。


 幾何学的な譜式が浮かび上がる。


「本当に……!」


「エルン君」


 ユリアンの声が飛ぶ。


「第二階梯相当まで」


「はい!」


 魔力を上げる。


 第一階梯。


 そして。


 第二階梯。


「そこで止めて!」


「っ!」


 エルンが魔力を固定する。


 譜式が。


 閉じた。


「……完成した」


「次です」


 第二節。


 歌が続く。


 新たな譜式が生まれる。


「第三階梯!」


「はい!」


 上げる。


 止める。


 完成。


 第三節。


「第四階梯!」


 さらに。


 第四節。


「第五階梯!」


「っ……!」


 エルンの額に汗が滲む。


 だが。


 崩れない。


 大量の魔力が暴れようとするたび、押さえ込み。


 必要な場所へ流し。


 寸分違わず。


 止める。


 ユリアンが息を呑む。


「……やはり」


「教授!」


「そのままです!」


 最後。


 第五節。


 空気が変わった。


「……っ!」


 エルンの顔が歪む。


「来ます……!」


「第六階梯相当!」


「分かってます……!」


 五。


 その先。


 これまで感じたことのない壁。


 魔力が拒む。


 身体が拒む。


「くっ……!」


「エルン君!」


「っ、あああ……!」


 一歩。


 ただ一歩。


 踏み越える。


「……!」


 世界が。


 一瞬、静かになった。


「第六……!」


「そこで止めてください!」


 エルンが歯を食いしばる。


 上げない。


 落とさない。


 ただ。


 その一点へ。


「止まれ……!」


 譜式が完成した。


 五つの術式が連なり。


 一つの巨大な紋様となって、広場上空へ広がっていく。


「できた……!」


 エルンが空を見上げる。


「これで、結界が――」


 言葉が止まった。


「……?」


 おかしい。


 広がっていた譜式が。


 止まらない。


 いや。


 違う。


「教授……?」


 収束している。


 王都を包むはずの光が。


 一点へ。


 中心へ。


 吸い込まれていく。


「これ……結界じゃ――」


 空間が。


 軋んだ。


 低い音が響く。


 地面が震えた。


 避難していた人々から悲鳴が上がる。


「何だ!?」


「空が……!」


 譜式の中心が黒く染まる。


 光を呑み込み。


 巨大な亀裂のように開いた。


「教授!」


 エルンが振り返る。


 ユリアンは。


 答えなかった。


 そして。


 黒い亀裂の向こうから。


 何かが。


 ゆっくりと。


 こちらを覗いた。


 赤い。


 二つの眼。


「……」


 巨大な前脚が地面へ降りる。


 石畳が砕ける。


 次いで。


 黒い毛並み。


 鋭い牙。


 異様なほど巨大な身体が、歪んだ空間から這い出してくる。


 それは。


 結界などではなかった。


 広場に現れたのは――


黒い巨大な狼のような魔獣だった。


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