誤召喚
王都郊外。
街道からも大きく外れた、深い森の奥。
本来ならば、人が立ち入る理由などほとんどない場所に、数人の男たちが集まっていた。
「周辺に人影はありません」
「街道側も問題なし。退路の確保も完了しています」
短い報告が続く。
その中央に立つ男は、何も答えなかった。
深い外套に身を包み。
手には、一冊の古びた童話を持っている。
傍らの男が、何枚もの資料へ目を通した。
「これまでに得られた魔力傾向のデータ。神獣顕現時における自然マナの変動。古式譜式との照合も完了しています」
「童話の内容と古い神殿記録にも、複数の一致が確認されています」
別の男が、開かれた本を指した。
描かれているのは、大柄な男。
窮地に立つ人々を励まし。
その背を押し。
再び立ち上がらせる。
そんな物語だった。
「この“大男”が示しているものが、我々の推測通り《アルテマ》であるならば――」
ページがめくられる。
最後の一頁。
そこには、子供でもすぐに覚えられそうな短い童謡が記されていた。
「この歌が、顕現に関わる譜詩である可能性は高いかと」
「……」
「始めますか?」
中央の男が。
小さく頷いた。
「始めましょう」
周囲の者たちが一斉に距離を取る。
「観測開始」
「周辺自然マナ、平常値」
「第一節から。予定通り、譜式が示す階梯より一段上を維持してください」
「分かっています」
男が童話を開いた。
息を吸う。
そして。
「がんばれ――がんばれ――」
低い歌声が。
森へ流れていく。
「反応あり」
「第一節、第二階梯相当で安定」
「あきらめたら――おわりだよ――」
風が。
止まった。
木々の葉が。
ぴたりと動かなくなる。
「第二節へ移行」
「自然マナ、上昇」
男の足元に。
淡い光が広がり始める。
「がんばれ――がんばれ――」
「第三節、正常」
「一段上を維持」
「そのまま続けます」
額に。
僅かに汗が滲む。
「あしたまた――わらうために――」
光が男の周囲を巡る。
「第四節」
「第四階梯域――安定」
観測していた男が、すぐに隣へ手を伸ばした。
「次から補助を入れます」
「お願いします」
一人が。
布に包まれた小さな箱を差し出す。
男はそれを受け取った。
黒い金属で作られた、掌ほどの魔道具。
表面には。
古い形式の紋様が幾重にも刻まれている。
親指を。
その中央へ置く。
――カチリ。
低い音。
魔道具から淡い光が漏れ出した。
「補助具、起動」
「術者との接続を確認」
「次、第五階梯域へ入ります」
「補助出力は最低限でお願いします」
「了解」
「押し上げる必要はありません。届かせるだけでいい」
「はい」
歌が続く。
だが。
先ほどまでとは違う。
男の呼吸が。
明らかに重くなっていく。
「……っ」
「第五節へ」
「譜式、第五階梯!」
魔道具が。
高い音を立てた。
「一段上へ移行します!」
「補助出力、上昇!」
足元に広がっていた光が。
一気に密度を増す。
「第五を越えます!」
「そのままで」
「第六階梯域――接触!」
「……っ!」
男の指が。
魔道具へ食い込む。
「到達!」
「第六階梯域、到達しました!」
一瞬。
周囲から。
歓喜にも似た息が漏れる。
だが。
「……待ってください」
一人の表情が変わった。
「出力が揺れています」
「第六で維持してください」
「補助具との同期に乱れ!」
「出力を下げてください」
「下がりません!」
「では補助を切ってください」
「切れば階梯が落ちます!」
「構いません。上げないでください」
「ですが――」
「第六で止める必要があります」
男が。
歯を食いしばる。
「……まだです」
「制御が乱れています!」
「第六には届いています」
「ですが安定していません!」
「あと少しです」
「第六階梯域から逸脱します!」
魔道具から。
甲高い悲鳴のような音が鳴った。
――ピシッ。
表面に。
細い亀裂が走る。
「補助具、限界です!」
「切ってください!」
「……」
それでも。
男は歌を止めなかった。
最後の一節。
最後の音。
そして。
譜式が閉じた。
――静寂。
「……」
誰も。
すぐには声を出さなかった。
「自然マナ、低下」
「第六階梯域から離脱」
「反応……停止しました」
一人が。
ゆっくりと息を吐く。
「……失敗、でしょうか」
男は答えない。
手の中を見る。
魔道具には。
大きな亀裂が走っていた。
「……届きました」
「え?」
「第六階梯には」
静かな声。
「確かに、届いています」
「ですが、維持できませんでした」
「……」
「制御も」
男の手が。
僅かに握られる。
その時。
――ゴゴ……。
「……?」
地面が。
震えた。
「待ってください」
もう一度。
今度は。
森全体を揺らすほど大きく。
「反応!」
「自然マナ、急上昇!」
「何だ!?」
「一点へ集中しています!」
木々に止まっていた鳥たちが。
一斉に飛び立つ。
獣たちの気配が。
遠ざかる。
空間が。
歪んだ。
「……来ます」
男が呟く。
何もなかった場所に。
巨大な影が。
ゆっくりと形を取り始める。
「成功……?」
「顕現反応です!」
「来た……!」
誰かが。
声を上げた。
「《アルテマ》――!」
巨大な四肢。
力そのものを形にしたような異形の巨体。
古い記録に残る神獣。
確かに。
似ている。
だが。
「……黒い?」
誰かが呟いた。
影ではない。
その身体そのものが。
禍々しい黒に染まっていた。
「記録と違う……」
「魔力反応、異常!」
赤い瞳が。
開く。
瞬間。
空気が変わった。
押し潰すような威圧。
怒り。
悪意。
剥き出しの殺意。
「……っ!」
「これは……」
中央の男が。
初めて。
はっきりと表情を変えた。
「……違いますね」
黒い巨体が。
低く唸る。
「こちらを認識!」
「接続は!?」
「ありません!」
「制御術式が成立していません!」
「そんな……第六には届いたはずだ!」
「ですが、止められなかった!」
「退避を!」
――咆哮。
森が。
震えた。
木々が大きくしなる。
男は。
目の前の黒い神獣を見つめていた。
やがて。
ひび割れた魔道具へ。
一度だけ。
視線を落とす。
「……第六階梯に届くだけでは」
誰にも聞こえないほど。
小さく。
「駄目なのですね」
黒い巨体が。
一歩。
踏み出した。
男は顔を上げた。
「退きましょう」
静かな声だった。
「はい!」
全員が。
一斉に森の中へ散った。
その背後で。
もう一度。
黒い神獣の咆哮が響いた。
◇
同じ頃。
そこから少し離れた森では、王立魔導学園の野外実習が行われていた。
「焦るな! 獣の動きを見てから歌え!」
教師の声が飛ぶ。
この日の課題は、低位の獣を相手にした実戦訓練だった。
王都近郊に生息する獣は比較的弱く、教師が同行していれば、学生が実際に魔導を使う相手としてはちょうどいい。
ただし。
今日はいつもと違う。
学生たちの視線は、時折、一人の老人へ向けられていた。
古びた法衣。
白い髭。
一本の杖。
そして、使い込まれたとんがり帽子。
宮廷魔導士長。
ロイド・ブレイズ。
「次!」
一匹の獣が茂みから飛び出した。
学生が慌てて歌い始める。
「遅いぞい! 実戦で相手が歌い終わるまで待ってくれると思うな!」
「は、はい!」
学生がどうにか術を完成させる。
獣が倒れた。
「ふむ。まあ、こんなものかの」
ロイドは髭を撫でる。
この日は特別講師として、野外実習へ同行している。
――ということになっていた。
「ロイド様、いかがでしょう」
担当教師が尋ねる。
「まだまだじゃ」
「やはり……」
「学生なんぞ、まだまだで当たり前じゃろ」
そう言いながら。
ロイドの視線は、一人の少年を追っていた。
エルン・ファルク。
王立魔導学園、歴代最高総合得点。
先日、王宮で初めて会った少年。
知識はある。
受け答えも悪くない。
だが。
宮廷魔導士に必要なのは、それだけではない。
「ファルク!」
「はい!」
呼ばれたエルンが前へ出る。
茂みから獣が飛び出した。
エルンは動かない。
ぎりぎりまで引きつけ。
一歩だけ位置を変える。
短い歌。
術式発動。
獣の脚が絡め取られ、そのまま地面へ転がった。
「……ほう」
殺してはいない。
必要な分だけ。
魔力にも、動きにも無駄がなかった。
ロイドの口元が僅かに上がる。
「点数だけでは分からんからのう」
「何か仰いましたか?」
「独り言じゃ」
その時だった。
エルンが。
不意に森の奥へ顔を向けた。
ほぼ同時。
ロイドも杖を止める。
「……」
鳥が飛んでいる。
森の奥から。
逃げるように。
次々と。
地面が僅かに震えた。
「ファルクよ」
「はい」
ロイドは森の奥を見たまま言う。
「何やら――」
エルンも同じ方向を見ていた。
「はい、ロイド師」
一拍。
「来ますね」
「何がです?」
担当教師が尋ねた。
直後。
轟音。
遠くで木々が吹き飛んだ。
「全員、下がれ!」
ロイドの声が響く。
学生たちが一斉に後退する。
そして。
木々の向こうから。
巨大な黒いものが現れた。
「な……」
「なんだ、あれ……!」
黒い巨体。
赤い瞳。
周囲の木々を薙ぎ倒しながら、まっすぐこちらへ向かってくる。
ロイドが目を細める。
「神獣……かの?」
杖を構えた。
「いや」
僅かに首を振る。
「悪意に満ちておる」
黒い巨体から漂う気配を読む。
「これは違うな」
「違う?」
エルンが聞き返す。
「神獣とは呼べん。少なくとも、儂の知る神獣ではない」
黒い存在が吠えた。
音だけで空気が震える。
ロイドの顔から笑みが消えた。
「ならば、滅ぼさねばな」




