ヴェルク教授の研究室
王立魔導士学園の研究棟は、講義棟とは空気が違っていた。
講義棟には、学生たちの声がある。
足音。
笑い声。
授業の開始を告げる鐘。
廊下を走って教師に叱られる者の声。
けれど研究棟は、静かだった。
壁には古い譜式図が掛けられ、廊下の端には封印箱が積まれている。
扉の向こうから、ときおり低い歌声や、魔導具の小さな駆動音が聞こえた。
エルンは、指定された部屋の前で足を止めた。
扉の横には、金属板が掛けられている。
――召喚譜式学研究室。
担当教授 ユリアン・ヴェルク。
エルンは軽く息を整え、扉を叩いた。
「どうぞ。鍵は開いています」
中から、低く柔らかな声がした。
「失礼します」
扉を開けた瞬間、紙の匂いがした。
部屋の中には、書物と譜面と魔導具が並んでいた。
机の上にも、棚の上にも、床の一角にも、資料の束が積まれている。
散らかっている。
そう思った。
だが、よく見ると、どの束にも小さな札が挟まれている。
召喚陣基礎。
外部マナ反応記録。
古式歌唱譜。
獣型顕現例。
未分類。
整理されているのか、されていないのか、判断に困る部屋だった。
窓辺の机に、ユリアン・ヴェルク教授が座っていた。
灰色を帯びた長い髪を緩く後ろで束ね、銀縁の眼鏡をかけている。
手元にはエルンの試験記録らしき紙があり、隣には紅茶のカップが置かれていた。
「時間ぴったりですね。良いことです」
ユリアンは顔を上げ、微笑んだ。
「おはようございます、エルン君」
「おはようございます。ヴェルク教授」
「どうぞ、座ってください」
エルンは勧められた椅子に腰かけた。
背筋が自然と伸びる。
試験会場とは違う緊張だった。
値踏みされている感じではない。
むしろ、自分の中にあるものを、丁寧に見られているような緊張だった。
「本日より、ご指導よろしくお願いいたします」
エルンは頭を下げた。
ユリアンは少し首を傾げた。
「指導、ですか」
「はい」
「正確には、共同研究ですね」
「共同研究」
「ええ」
ユリアンは机の引き出しを開け、小さな鍵を取り出した。
そして、それをエルンの前に置く。
「これは?」
「研究室の予備鍵です」
「なぜ私に?」
「共同研究者が、毎回廊下で待っていては非効率でしょう」
「共同研究者……」
エルンは鍵を見つめた。
「私は学生ですが」
「ええ。私は教師です」
「では、指導では?」
「形式上は」
「弟子、ということでしょうか」
「違います」
ユリアンは即答した。
「共同研究者です」
「ですが、研究室の鍵を渡されています」
「共同研究者ですから」
「掃除などは」
「あります」
「弟子では?」
「違います」
ユリアンは、穏やかな顔のまま言った。
「言葉の定義は慎重に扱うべきですね」
エルンは、少しだけ返答に困った。
王都の教授というものは、みなこうなのだろうか。
いや、おそらく違う。
ユリアン教授がこうなのだ。
***
「さて」
ユリアンは机の上を少し空けた。
「記録帳を見せてもらっても?」
「はい」
エルンは鞄から一冊の記録帳を取り出した。
王都に持ってきた三冊のうち、最初の一冊。
シノの個人情報に触れる部分は少なく、主に自分の発声変換と失敗記録をまとめたものだ。
それでも、渡す時には少し手が止まった。
シノと二人で積み重ねた記録。
リザの薬湯の匂いまで染みついているような気がする。
ユリアンは、それに気づいたのか、両手で記録帳を受け取った。
軽く扱うことはしなかった。
「大切なものですね」
「……はい」
「では、君の前で読みます。無断で写しは取りません」
その言葉に、エルンは少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらです。貴重な記録を見せてもらうのですから」
ユリアンは記録帳を開いた。
最初の数頁を読み、目を細める。
しばらく、紙をめくる音だけが研究室に響いた。
エルンは緊張しながら待った。
自分では必死に書いた。
だが、王都の教授から見れば、拙い記録かもしれない。
地方の少年が、見よう見まねでまとめたものにすぎないのかもしれない。
ユリアンは、ある頁で手を止めた。
「失敗記録が多い」
エルンは身構えた。
「未熟でしょうか」
「逆です」
ユリアンは即座に言った。
「成功例だけの記録は美しい。ですが、再現性に乏しい。失敗を隠していない記録は、研究として信頼できます」
「失敗が、ですか」
「ええ。失敗は、現象の輪郭を教えてくれます。どこまでは成立し、どこから崩れるのか。そこにこそ、技術の境界がある」
ユリアンは、記録帳の一文を指でなぞった。
「一音目で喉に焼ける痛み。胸部魔力回路の痙攣。外部マナ接続時、体内魔力核が肥大化し衝突。シノ式模倣不可。魔力持ち用変換を試行」
読み上げられると、少し恥ずかしかった。
そこには、自分が何度も倒れた記録がある。
格好の良い成功譚ではない。
床に膝をつき、喉を押さえ、シノに怒られた日々の記録だ。
ユリアンは静かに微笑んだ。
「これは、普通なら三日で諦めます」
「二日目で一度諦めかけました」
「それでも続けた」
「悔しかったので」
「良い理由です」
ユリアンは、少しだけ楽しそうに言った。
「学問は、時に悔しさで進みます」
エルンは、思わず息を止めた。
この教授は、笑わない。
無茶だとも、浅はかだとも言わない。
倒れた記録を、失敗の山を、努力として見てくれる。
***
「この“シノ師”は、かなり特殊な歌唱師ですね」
「シノ師……」
エルンは妙な響きに少し戸惑った。
ユリアンは記録から目を離さない。
「本人は、普通に歌っているだけだと言っていました」
「一流ほど、そう言うものです」
「たぶん、そういう感じでは……」
「地方には、王都の記録に残らない歌唱の系譜があります。隠者、口伝、神殿外の古い祈り、家名を捨てた流派。実に興味深い」
「あの、教授」
「この発声体系を見る限り、意図的に魔力核を排除している。いや、排除というより、最初から魔力核の存在を前提にしていない。だとすると、発祥は魔力を持たない祈祷歌か、あるいは神獣顕現儀礼に近い可能性も……」
ユリアンはもう、ほとんど一人で考え始めていた。
エルンは口を閉じる。
シノは孤児院の少女だ。
魔導書も読めない。
歌も、本人に言わせれば普通に歌っているだけ。
だが、ユリアンの中では、どこかの老練な歌唱師か、隠れた古流派の継承者のような姿になっているらしい。
訂正すべきか迷った。
しかし、シノのことを詳しく話すのは、まだ少し怖かった。
だからエルンは、ひとまず黙っていることにした。
「エルン君」
「はい」
「次回までに、君の三層結界を一層ずつ分解して譜面化してください」
「譜面化、ですか」
「君は感覚と記録でここまで来ました。ですが、学園ではそれを他者に伝えられる形にする必要があります」
ユリアンは記録帳をそっと閉じた。
「君の歌は、君だけのものにしておくには惜しい。ですが、急いで広げてはいけない。まずは正確に理解しましょう」
その言葉は、エルンにとってとても自然に響いた。
シノの歌を、ただ奇跡として扱いたくない。
けれど、乱暴に暴きたくもない。
正確に理解する。
それは、エルンが二年間続けてきたことでもある。
「分かりました」
「良い返事です」
ユリアンは満足そうに頷いた。
「それと、もうひとつ」
「はい」
「来週、新入生歓迎魔導大会があります」
「魔導大会?」
「ええ。新入生同士の模擬競技です。攻撃、防御、制御、自由歌唱。形式は年によって多少変わりますが、今年は自由歌唱部門が設けられるそうです」
エルンは眉を寄せた。
「自由歌唱……」
「君には向いています」
「ですが、私はまだ王都式の歌を十分に学んでいません」
「だからこそです」
ユリアンは穏やかに言った。
「王都式に合わせる必要はありません。君が二年間積み上げてきた歌を、どこまで制御できるのか。それを確かめる良い機会です」
エルンは、鞄の中の記録帳に触れた。
二年間積み上げてきた歌。
それは、王都式ではない。
シノの歌から生まれた、自分の歌だ。
「派手に見せる必要はありません」
ユリアンは続けた。
「ただし、隠す必要もありません」
エルンは顔を上げた。
「君の努力は、恥じるものではありませんよ」
その言葉に、エルンの胸が少しだけ熱くなった。
「……はい」
短く答えた声は、自分でも思ったよりまっすぐだった。
***
研究室を出る頃には、外の光が少し傾いていた。
エルンは廊下を歩きながら、渡された鍵を手の中で転がした。
共同研究者。
弟子ではない。
掃除当番はある。
王都の教授というものは、やはり少し分からない。
だが、不思議と嫌ではなかった。
王都は大きい。
学園は広い。
家柄で見る者もいる。
地方出身だと笑う者もいる。
けれど、自分の歌を見てくれる人がいる。
努力を、失敗の跡ごと認めてくれる人がいる。
エルンは、窓の外に見える青い塔を見上げた。
新入生歓迎魔導大会。
自由歌唱。
試すべき歌はいくつかある。
火唱は、まだ危うい。
結界は地味だ。
水唱は安定しているが、決定力には欠ける。
そして、ひとつだけ。
シノから聞いた、童謡の旋律があった。
遊び歌のように単純で。
けれど、外のマナが妙に強く震える歌。
エルンは、そっと息を吐いた。
「……まだ早いか」
そう呟きながらも、心のどこかで分かっていた。
いつか、あの歌を歌うことになる。
王都の空の下で。
シノの歌が、本当にどこまで届くのか。
それを確かめる日が、近づいていた。




