召喚術
シノは、演習場の中央に立っていた。
手には、一冊の古びた絵本。
『綺麗な水辺のお友達』
最後のページを開く。
そこに記されているのは、五つの短い節。
どれも、子供なら一度聞けば覚えてしまいそうな童謡だった。
「嬢ちゃん」
少し後ろから、ライアスの声が飛ぶ。
「何かあったら俺が止める。好きに歌え」
「うん」
シノが頷く。
ロイドは、すでに杖を構えていた。
「《オープンコード》は儂が維持する。お主は余計なことを考えず、絵本に書かれておる通り歌えばよい」
「はーい」
「……本当に分かっておるんじゃろうな」
「歌えばいいんでしょ?」
「まあ、そうなんじゃが」
シノは絵本へ目を落とす。
小さく息を吸った。
そして。
「きれいな水よ――さらさら流れ」
第一節。
ただの、短い童謡。
だが。
「来た!」
ロイドが杖を振る。
「隠れし理を顕現せよ――《オープンコード》!」
淡い光が広がった。
シノの周囲。
本来ならば誰の目にも映らないものが、細い光の線となって浮かび上がる。
一本。
また一本。
それらが互いに結ばれ。
一つの構造を描いた。
「第一階梯譜式」
ユリアンが即座に告げる。
その直後。
空気が動いた。
シノを中心に。
周囲の自然マナが集まり始める。
「第二階梯相当へ上昇しています」
ユリアンの声に、宰相が眉を動かす。
「歌ったのは、今の一節だけだな?」
「その通りじゃ」
ロイドが答えた。
自然マナが、さらに譜式へ流れ込む。
そして。
第二階梯相当へ達した瞬間。
光の構造が――閉じた。
「成立じゃ」
ロイドの声が低くなる。
シノは、そんな周囲の緊張など気にも留めず。
絵本の次の行へ目を移した。
「次ね」
息を吸う。
「にごりもよごれも――つれてって」
第二節。
空中の線が増える。
「第二階梯譜式」
ユリアンが告げる。
さらに、自然マナが集まった。
「第三階梯域へ」
譜式が強く輝く。
――成立。
「間違いありません」
ユリアンが呟いた。
「第二階梯の譜式に、第三階梯相当の処理」
その目は、食い入るように光の構造を追っている。
シノは続けた。
「いたい毒まで――洗っておくれ」
第三節。
「第三階梯譜式!」
周囲の自然マナが大きく揺れる。
「第四階梯相当へ到達!」
風が、演習場の中を渦巻き始めた。
宰相が周囲を見渡す。
「……まだ三節目なのか」
「はい」
ユリアンは譜式から視線を離さない。
「まだ三節目です」
声の奥に。
隠しきれない熱があった。
「悪いまじない――ほどいておくれ」
第四節。
「第四階梯!」
「第五階梯域へ入ります!」
演習場を覆う防護術式が、低く震えた。
ライラメスと高位神官たちの表情も変わる。
現代の人間が実用できる。
魔導の最高到達点。
第五階梯。
そこへ。
少女が童謡を一節歌っただけで、自然マナが到達している。
「……シノさん自身には」
ユリアンが目を細めた。
「やはり、負荷らしい負荷が見えません」
「そこじゃ」
ロイドが答える。
「普通なら、ここまでの操作を続けて平然としておれるはずがない」
だが。
シノは、ただ絵本を読んでいるだけだった。
「あ、最後」
その一言に。
周囲の大人たちが一斉に緊張した。
シノだけが、いつも通り。
最後の行を見つめる。
「おいで水辺の――お友達」
第五節。
歌声が、遮音結界に閉ざされた演習場へ響く。
その瞬間。
空中へ。
これまでとは比べものにならないほど複雑な光の線が走った。
「第五階梯!」
ユリアンが声を上げる。
「譜式形成を確認!」
「ここからじゃ!」
ロイドが杖を握り直す。
自然マナが、さらに集まり始めた。
第五階梯。
その先へ。
「……まだ上がる」
ユリアンの声が震えた。
「第五階梯域を越えます!」
風が、大きな輪となってシノの周囲を回る。
光が、空へ向かって立ち上がった。
「第六――」
ユリアンが息を呑む。
「第六階梯域へ到達!」
演習場が、静まり返った。
現在。
人には届かないとされる領域。
それが、目の前で成立している。
だが。
「……おかしい」
ロイドが呟いた。
「ブレイズ師?」
「シノが押し上げておるのではない」
ロイドの目が、シノの周囲を巡る自然マナを追う。
「自然マナの方が――」
一つ。
また一つ。
必要な場所へ流れ込む。
「譜式が求めるところまで、自ら満たしておる」
ユリアンの目が細くなる。
そして。
シノの最後の音が消えた。
譜式が、完全に閉じる。
――静寂。
「……終わった?」
「待て」
ロイドが即座に答えた。
「まだ何かある」
一秒。
二秒。
何も起こらない。
その時。
――ぽちゃん。
水音。
「……?」
シノが周囲を見る。
演習場に、水場などない。
もう一度。
――ぽちゃん。
何もない空間から。
一滴。
水が落ちた。
さらに。
一滴。
また一滴。
無数の水滴が、宙へ浮かび始める。
「顕現反応……!」
ユリアンが一歩前へ出た。
水が渦を巻く。
その中心。
淡い光が形を持ち始める。
四肢。
長い尾。
美しい角。
やがて。
一頭の獣の姿へ。
高位神官の一人が、思わず膝をついた。
「……麒麟」
ライラメスも、胸へ三本の線を引く。
「三神よ……」
光が弾けた。
一頭の麒麟が、演習場へ降り立つ。
絵本に描かれた姿と、あまりにもよく似ていた。
シノが、その姿をじっと見る。
「……リンちゃん?」
麒麟は、静かに立っている。
返事はない。
それ自体は、別におかしなことではなかった。
リンちゃんも、もともと口数の多い神獣ではない。
だが。
「……」
シノの表情が、少しずつ変わっていく。
「リンちゃん?」
もう一度、呼ぶ。
麒麟はこちらを見ない。
無視しているわけではない。
怒っているわけでもない。
そもそも。
最初から。
シノという人間を認識していないような。
そこにいるのに。
誰も、そこにはいないような。
「……違う」
シノが小さく呟いた。
「何がです?」
ユリアンが尋ねる。
「分かんない」
シノは麒麟を見つめたまま。
「でも、この子……リンちゃんじゃない」
ロイドがシノを見る。
「同じ麒麟ではないのか?」
「麒麟だと思う」
「ならば何が違う」
「うーん……」
シノ自身にも、うまく言葉にできない。
その時。
ロイドが片手を上げた。
「試すぞ」
演習場の端に。
事前に用意されていた二つの容器が置かれている。
一つは、強い毒性を持つ薬液。
もう一つは、神殿より持ち込まれた呪いを帯びた古い装身具。
どちらも。
何重もの封印を施した上で用意されたものだった。
麒麟の頭が動いた。
初めて。
迷いなく。
毒と。
呪物へ。
「……あ」
シノが声を漏らす。
角の先に、白い光が集まり始める。
「待て」
ロイドの目が、大きく開いた。
「この構造……」
麒麟は何も言わない。
詠唱もしない。
ただ。
白い光が空へ昇った。
そして。
静かな雨となって降り注ぐ。
「……まさか」
ユリアンが呟く。
ロイドの声が飛んだ。
「《ホーリードロップ》!」
アイザックが見る。
「知っている術か?」
「古い魔導記録にのみ残る術じゃ!」
ロイドは、白い雨から目を離さない。
「人の魔導体系に当てはめれば――第八階梯!」
「第八……」
宰相が息を呑む。
白い雫が、毒液へ落ちた。
一瞬。
液体の色が消える。
毒性を示していた反応も、跡形もなく消失した。
続いて、呪物。
古い装身具から。
黒い靄のようなものが噴き出す。
だが。
白い雨へ触れた瞬間。
溶けるように消えていった。
あとに残ったのは。
何の力も持たない。
ただの古い装身具。
「……完全に消えています」
ライラメスが呟いた。
高位神官が、慎重に確認する。
「呪いの痕跡もありません」
「第八階梯を……」
ユリアンは、麒麟を見つめていた。
「詠唱も、譜式の展開すら見せずに」
「神獣じゃぞ」
ロイドが答える。
「人の尺度で考える方が間違っておるのかもしれん」
しかし。
シノだけは。
別のところを見ていた。
浄化を終えた麒麟。
動かない。
何も探さない。
誰も見ない。
ただ。
役割を終え。
そこに立っている。
「……やっぱり」
シノが言った。
「リンちゃんじゃない」
ロイドが振り返る。
「まだそう言うか」
「うん」
ライアスも、静かに麒麟を見ていた。
「ブレイズ師」
「なんじゃ」
「私は以前、シノ嬢と共に……リンちゃん殿にはお会いしております」
ロイドが眉を上げる。
「本人に?」
「はい。ただし」
ライアスは、少し言葉を選んだ。
「その時は、人の姿を取っておられました」
「人化までできるのか……」
ロイドの目が一瞬だけ輝く。
「ですので、今の姿そのものを比べることはできません」
「では何が違う」
「明確な意思がありました」
ライアスは、先ほど麒麟が見せた動きを思い返す。
「こちらを見て、考えて、自ら行動していた」
シノが頷く。
「うん」
「対して、今の麒麟様は」
ライアスが静かに続ける。
「与えられた役割だけを遂行しているように見えます」
ロイドの顔から、僅かに笑みが消えた。
「意思……」
シノが、もう一度麒麟へ声をかける。
「ねえ」
反応はない。
「……ほら」
「何がじゃ」
「リンちゃんだったら」
少し考えて。
「別に喋らなくても、ちゃんとリンちゃんなんだよ」
「まったく説明になっとらん!」
「でもそうなの!」
シノは、少し困った顔で麒麟を見る。
「この子は……」
毒。
呪物。
そして。
絵本の歌。
しばらく考えて。
ぽつりと。
「歌ったことだけ、やったんだと思う」
「……」
ユリアンの目が動いた。
「歌ったことだけ……」
繰り返す。
第一節。
水。
第二節。
汚れ。
第三節。
毒。
第四節。
呪い。
そして第五節。
水辺の友を呼ぶ。
現れた麒麟は。
その通り。
毒と呪いを浄化した。
ただ、それだけ。
ロイドが、空中に残る譜式へ目を向ける。
「……なるほど」
麒麟の身体が、淡い光へ変わり始めた。
「消える」
宰相が呟く。
シノが一歩前へ出る。
「待って」
麒麟は、振り向かない。
「……ありがとう」
返事はない。
光が、水滴となって弾ける。
そのまま。
一頭の麒麟は、跡形もなく消えた。
演習場に。
長い沈黙が落ちる。
「……召喚」
ユリアンが呟いた。
いつもの穏やかな声へ戻っている。
「成功、と見てよいのでしょうか」
「現象だけを見れば」
ロイドが答える。
「そう呼んで差し支えはないじゃろう」
古びた絵本を手に取る。
「第五階梯の召喚譜式」
「成立には第六階梯域」
ユリアンが続けた。
「そして顕現した神獣は、自ら第八階梯相当の権能を行使した」
「うむ」
「……制御可能な状態で」
ユリアンが、小さく付け加えた。
ロイドが、ほんの僅かに顔を向ける。
「制御?」
「絵本に記された目的から、一度も逸脱していません」
ユリアンは淡々と答えた。
「浄化を行い、役目を終えれば消えた」
「……確かにな」
ロイドは、麒麟が消えた場所を見る。
一方。
シノは、少しだけ寂しそうだった。
「ロイドさん」
「なんじゃ」
「本当に、あれが召喚なの?」
「……」
ロイドは、すぐには答えなかった。
「分からん」
「分かんないの?」
「今日、初めてまともな召喚譜式を最後まで見たのじゃぞ」
「そっか」
「ただ」
ロイドは、シノを見る。
「一つだけ、妙ではある」
「何が?」
「お主が以前会った麒麟と」
消えた場所。
そして。
古びた絵本。
「今、召喚された麒麟」
一拍。
「本当に同じものなのか」
シノが、すぐに首を振った。
「違うよ」
「ずいぶん言い切るの」
「だって」
少し考えて。
笑う。
「リンちゃんは、ちゃんとリンちゃんだもん」
「だから説明になっとらん!」
「分かるもん!」
ロイドが、大きく息を吐く。
だが。
その顔は笑っていなかった。
ただの召喚成功ではない。
古代の譜式。
第六階梯。
神獣の権能。
そして。
意思を持たず。
与えられた役割だけを遂行した麒麟。
ロイドは、古びた絵本を閉じる。
「……どうやら」
静かに。
「今日分かったことより」
一度。
麒麟が消えた場所へ目を向ける。
「新しく分からなくなったことの方が、多そうじゃな」
誰も。
否定しなかった。




