ブラックレター
王宮から、少し離れた場所。
王都を囲む城壁の内側でありながら、宮廷の主要区画からは大きく距離を置いた一角に、王家直属の魔導演習場がある。
高位魔導の検証。
危険な術式の実験。
万が一、暴発が起きたとしても王宮へ被害が及ばぬよう、周囲には幾重もの防護術式が施されていた。
そして今日は。
その演習場全体が、さらに巨大な遮音結界によって覆われている。
外から中の音は聞こえず。
中から外へも、一切の声が漏れることはない。
「……なんか、今日はすごいね」
シノが小さく呟いた。
「ああ」
すぐ隣に立つライアスが答える。
「嬢ちゃん、今日は俺から離れんなよ」
「うん」
「何が起きるか、俺も全部聞かされてるわけじゃねえからな」
そう言いながら。
ライアスの右手は、いつでも聖剣へ届く位置にあった。
演習場に集められた人数は、多くない。
アイザック。
その傍らには、王国政務を統べる宰相。
少し離れて、宮廷魔導士長ロイド・ブレイズ。
神殿側からはライラメス司祭と、数名の高位神官。
そして。
「あ!」
シノの顔が明るくなった。
「ユリアン先生!」
「おや」
少し離れた位置にいたユリアンが振り返る。
「シノさん」
「先生も呼ばれたの?」
「ええ」
いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「召喚譜式について、意見を求められまして」
「よかったぁ」
「何がです?」
「知ってる人いた」
「陛下も、ブレイズ師も、ライアス殿もいらっしゃるでしょう」
「そういう知ってるじゃないの」
「なるほど」
ユリアンが小さく笑う。
「では今日は、少し安心していただけそうですね」
「うん」
「嬢ちゃん」
ライアスが横から口を挟んだ。
「俺も知ってる人に入れとけよ」
「入ってるよ」
「ならいい」
その時。
「始めよう」
アイザックの声が響いた。
一瞬で。
場の空気が変わる。
「ロイド」
「うむ」
ロイドが前へ出た。
その手には。
一冊の古びた絵本。
『綺麗な水辺のお友達』
中央神殿から借り出された、あの本だった。
だが。
ロイドはすぐに説明を始めなかった。
「陛下」
「なんだ」
「その前に、一つ」
ロイドが、その場にいる全員を見回した。
「本件を――《ブラックレター》へ指定することを進言いたします」
シノが首を傾げる。
「ブラックレター?」
だが。
宰相。
ライラメス。
高位神官たち。
そしてライアスの表情が変わった。
ユリアンも。
僅かに目を細める。
「……そこまでの案件か」
宰相が尋ねる。
「まだ分からん」
ロイドが答えた。
「ならば、なぜ」
「分からんからじゃ」
ロイドは。
古びた絵本を持ち上げた。
「儂の推測が正しければ」
一拍。
「我々は今日――失われた召喚術の秘密、その一端を解き明かすことになるかもしれん」
誰も。
声を出さなかった。
「《ブラックレター》が陛下によって認められれば、この場で見聞きした一切は王国最高機密となる」
ロイドの声が低くなる。
「許可なく口外した者は、身分、所属、爵位を問わず――死罪じゃ」
「……死刑?」
シノが小さく呟く。
「ああ」
答えたのはアイザックだった。
その顔に。
いつものアイク先生はいない。
「仮に、神獣を人為的に呼び出す術が復活するのであれば」
宰相が続ける。
「これは単なる魔導研究ではありません。軍事、外交、神殿――国家そのものに影響を及ぼす技術となります」
シノは。
手元の絵本を見る。
子供向けの。
可愛らしい表紙。
それが今。
口外すれば命を失うほどの秘密になろうとしていた。
「宰相」
アイザックが問う。
「異論は」
「ございません」
「ライラメス司祭」
「神殿としても、異存ございません」
アイザックは頷いた。
そして。
全員を見回す。
「本件を《ブラックレター》に指定する」
静かな声だった。
だが。
その瞬間。
この遮音結界の中で交わされるすべての言葉が。
王国最高機密となった。
◇
「では」
ロイドが改めて絵本を開く。
「ここからが本題じゃ」
巻末。
そこには短い童謡が記されている。
「この本は、中央神殿に長く保管されていた児童向けの童話じゃ」
ライラメスが頷く。
「同系統と思われる絵本は、中央神殿のほか、古い地方神殿にも僅かながら残されています」
「これまでは?」
宰相が尋ねる。
「神獣を思わせる動物が人々を助ける、古い教訓童話。そのように認識されておりました」
「じゃが」
ロイドが。
巻末の歌を指した。
「こやつは、ただの童謡ではなかった」
杖を上げる。
「先日、シノが第一節を歌った際」
ロイドの杖先から。
淡い光が広がった。
「隠れし理を顕現せよ――《オープンコード》」
何もなかった空間へ。
一本。
細い光の線が浮かぶ。
また一本。
さらに一本。
無数の線が互いに結び付き。
一つの構造を描き出した。
ユリアンが。
すぐに口を開いた。
「……第一階梯」
「ほう」
ロイドが横目で見る。
「分かるか」
「ええ」
ユリアンは。
空中の譜式から目を離さない。
「構造自体は単純です。第一階梯の歌唱譜式として見れば、特異なものではありません」
「その通りじゃ」
ロイドが杖を振る。
譜式の周囲へ。
さらに別の光が浮かび上がる。
「こちらは、シノが歌った際に観測した自然マナの流れと魔力操作の推移じゃ」
光が。
譜式へ向かって流れ込んでいく。
「譜式そのものは第一階梯」
ロイドが言う。
「じゃが」
流れが。
ある地点へ到達した瞬間。
空中の譜式が強く輝いた。
「完全に成立したのは――第二階梯相当へ達した時じゃった」
「……第二」
ユリアンが呟いた。
その声が。
ほんの僅かに変わる。
「一段……上」
「うむ」
「譜式と、成立に必要な操作階梯が一致していない」
「そういうことじゃ」
宰相が腕を組む。
「偶然という可能性は?」
「当然、儂もそう考えた」
ロイドが。
次の構造を開いた。
「第二節じゃ」
第一節より。
明らかに複雑な譜式。
ユリアンの目が。
一瞬でその構造を追う。
「第二階梯」
「そして成立点は――」
「第三階梯」
ロイドが言うより。
ほんの僅かに早かった。
杖が止まる。
「……ほう?」
ロイドがユリアンを見る。
ユリアンは。
光の構造を見つめたままだった。
「第三階梯、なのですね?」
「その通りじゃ」
「……」
ユリアンが黙る。
第一節。
第一階梯の譜式。
第二階梯で成立。
第二節。
第二階梯の譜式。
第三階梯で成立。
「……そういうことですか」
小さな声だった。
いつもの。
穏やかな教師の声ではない。
長い間。
解けなかった何かが。
今。
目の前で繋がった。
そんな声。
「ヴェルク教授?」
宰相が見る。
「いえ」
ユリアンは。
すぐに微笑みを戻した。
「失礼しました」
だが。
視線は譜式から離れない。
「だから……完成しなかった」
ほんの小さな。
独り言。
ロイドの眉が動く。
「何か言ったか?」
「召喚譜式の研究で、似た現象を見たことがありまして」
「似た現象?」
「ええ」
ユリアンはさらりと答える。
「譜式そのものは成立しているはずなのに、現象へ移行しない。古い召喚譜式の断片では、時折そのような記録があります」
嘘ではない。
だが。
すべてでもない。
ロイドは。
少しだけユリアンを見つめた。
やがて。
「ならば、ここから先も読めるか?」
「……おそらく」
ユリアンが。
第一節と第二節を見比べる。
「一階梯上の力が必要、というだけではないのでしょう」
「ほう」
「通常の魔導ならば」
第一階梯の譜式を指す。
「術の成立に必要な処理は、基本的にこの中で完結します」
「うむ」
「ですが、これは違う」
譜式の外側。
そこへ流れ続ける魔力操作。
「譜式を成立させた後にも、別の処理を要求している」
宰相が尋ねる。
「別の処理?」
「何かまでは分かりません」
ユリアンは即答した。
「ですが」
視線が。
絵本に描かれた、麒麟に似た動物へ向く。
「もし、この譜詩が本当に召喚術へ繋がるものであるならば」
一拍。
「術を成立させることとは別に」
ユリアンの声が。
僅かに熱を帯びた。
「何かを――こちら側へ留めておくための処理ではないでしょうか」
ロイドが。
にやりと笑った。
「さすがじゃな」
「……では」
「儂も、同じところを疑っておる」
ユリアンの目が。
ロイドを見る。
「ただし」
ロイドが続ける。
「その“何か”の正体までは、儂にも分からん」
「ええ」
「一階梯上の処理が何を担うのか。それを説明する完全な記録は、今のところ見つかっておらん」
「私も」
ユリアンが答える。
「そこまでは」
ほんの一瞬。
胸元へ指が触れた。
だが。
すぐに離れる。
ロイドは第三節を示した。
「規則だけは明確じゃ」
第三節。
第三階梯の譜式。
成立には。
第四階梯相当。
第四節。
第四階梯の譜式。
成立には。
第五階梯相当。
そして。
第五節。
ユリアンが。
先に息を吐いた。
「……第五階梯」
「そうじゃ」
ロイドが答える。
「ならば」
ユリアンの目が細くなる。
「最終節の成立に必要なのは――」
一瞬。
言葉が止まる。
「第六階梯」




