剣を抜かない王
王宮の一角。
政務を行う執務区画から少し離れた、王族の私的な居住区。
その一室に。
アイザックはいた。
「珍しいですわね」
向かいに座る王妃が、紅茶のカップを置く。
「陛下が、この時間にこちらへいらっしゃるなんて」
「私とて、たまには戻る」
「たまには、では困ります」
「……善処しよう」
「その言葉、今月三度目です」
「覚えていたのか」
「忘れると思います?」
アイザックが黙る。
その様子を見て。
隣に座っていた少女が、小さく笑った。
「父上、お母様には勝てませんね」
「エレノア。お前はどちらの味方だ」
「正しい方です」
「ならば私ではないか」
「それを父上ご自身がお決めになるのですか?」
「……」
王妃が口元を隠した。
「ふふ」
「二対一では勝ち目がないな」
アイザックが諦めたように茶を飲む。
ここには。
王はいなかった。
王妃と。
娘と。
その夫であり、父親である男がいるだけだった。
「そういえば」
王妃が言う。
「最近、よくお話しになる女の子」
「女の子?」
「ほら」
少し考えて。
「ルミナリア孤児院の」
「ああ。シノか」
「やっぱり」
エレノアが笑った。
「すぐ名前が出るんですね」
「弟子だからな」
「弟子?」
王妃が首を傾げる。
「いつの間に、そのようなことに?」
「……色々あった」
「その説明で済ませるのですね」
「話せば長い」
「その長い話を、毎日のようになさっているではありませんか」
「毎日ではない」
「かなりの頻度です」
エレノアが横から付け加えた。
「私も名前だけなら、すっかり覚えてしまいました」
「そうか」
「歌で神獣を呼ぶ子でしょう?」
「呼ぶ、という言い方が正しいかは分からんがな」
「それから」
王妃が指を折る。
「祈りを極めると言い出して」
「ああ」
「神獣に妙に馴れ馴れしくて」
「ああ」
「護衛の騎士を困らせて」
「……まあ」
「陛下をアイク先生と呼ぶ」
「そこまで話したか?」
「ええ」
王妃は楽しそうだった。
「随分と気に入っていらっしゃるのね」
「導師として気に掛けているだけだ」
「はいはい」
「お前までその返しをするな」
エレノアが吹き出す。
しばらく。
穏やかな笑い声が続いた。
やがて。
王妃が、ふと窓の外へ視線を向けた。
「でも」
「?」
「そのシノという子のお話を聞くたびに」
ほんの少し。
声が柔らかくなる。
「思うのです」
アイザックは。
何も言わなかった。
王妃が続ける。
「リリアに、よく似た子なのだろうな、と」
エレノアの笑みが。
少しだけ静かになる。
「……私も思っていました」
アイザックが二人を見る。
「会ったこともないだろう」
「ええ」
王妃は頷いた。
「ですから、性格のお話です」
「父上のお話を聞いている限りでは、ですけど」
エレノアが指を折った。
「人の話を最後まで聞かない」
「そこまでではない」
「興味を持ったら一直線」
「……まあ」
「困っている人を見つけると、自分まで巻き込まれる」
「それはある」
「妙なところで頑固」
「あるな」
「父上にも遠慮がない」
アイザックが止まった。
王妃とエレノアが。
同時に見る。
「……なんだ」
「似ていますね」
「似ています」
「お前たちな」
アイザックが小さくため息をつく。
だが。
否定はしなかった。
「陛下も」
王妃が尋ねる。
「そう思われたことは?」
少し。
間があった。
「ああ」
短い答え。
「時々な」
それだけだった。
王妃は何も言わない。
エレノアも。
しばらく。
三人の間に、静かな時間が流れた。
「リリアなら」
エレノアがぽつりと言う。
「その子と、きっと仲良くなったでしょうね」
「どうだろうな」
「絶対です」
「なぜ言い切れる」
「似た者同士だから」
「喧嘩する可能性もあるぞ」
「それも仲がいいということです」
王妃が微笑む。
「二人で陛下を困らせていたかもしれませんね」
「勘弁してくれ」
アイザックは即答した。
だが。
その表情は。
どこか懐かしそうだった。
リリア・キア・マニール。
かつて。
この部屋には、もう一人の娘がいた。
エレノアよりも。
少しばかり自由で。
よく笑い。
よく怒り。
父親が王であることなど。
都合の悪い時には忘れてしまうような娘だった。
「……あの子が亡くなって」
王妃が静かに言った。
「もう随分になりますね」
「ああ」
アイザックが答える。
「ミーシアも」
その名に。
ほんの少し。
空気が重くなる。
グランツ公爵の姪。
リリアと幼い頃から親しく。
あの日も。
二人は一緒にいた。
「二人とも、まだ若かった」
エレノアが俯く。
王妃が娘の手へ。
そっと自分の手を重ねた。
「……私の判断が遅れた」
アイザックが言った。
「陛下」
「事実だ」
声は。
王のものではなかった。
「小さな争いだった」
最初は。
話し合いで収まる。
そう考えた。
「兵を動かせば、かえって混乱を広げる可能性があった」
「父上だけの判断ではありません」
「最後に決めたのは私だ」
アイザックは。
そこだけは譲らなかった。
「結果として、間に合わなかった」
リリア。
そして。
ミーシア。
二人の命は。
帰ってこなかった。
「グランツ卿は」
王妃が言う。
「あの日から、変わられましたね」
「……ああ」
「以前は、今ほど」
言葉を選ぶ。
「強硬なお方ではありませんでした」
「知っている」
アイザックが答える。
「彼もまた、失った」
自分と同じように。
大切な家族を。
「だからこそ、彼の言いたいことも分かる」
エレノアが父を見る。
「では、なぜ」
静かに。
「父上は、グランツ卿と同じ考えにはならなかったのですか?」
アイザックは。
すぐには答えなかった。
窓の外。
王都が見える。
無数の家。
無数の灯り。
そこに暮らす。
数え切れない人々。
「……失ったからだ」
やがて。
そう答えた。
「リリアを失ったからこそ」
一度。
目を閉じる。
「怒りで剣を抜くことが、どれほど簡単かを知った」
「……」
「そして」
目を開く。
「その剣の先にも、誰かのリリアがいる」
王妃が。
静かに夫を見つめた。
「だから私は、迷う」
王として。
「遅いと言われようとも」
「臆病と呼ばれようとも」
「剣を抜く前に、考える」
エレノアは。
何も言わなかった。
「グランツ卿は、それを弱さと考えているのでしょうか」
「おそらくな」
「父上は?」
「分からん」
アイザックは苦笑した。
「王になってから、分からんことばかりだ」
「珍しく素直ですね」
「エレノア」
「はい?」
「お前は母親に似てきたな」
「光栄です」
「そこは否定してくれ」
王妃が笑う。
「私は嬉しいですよ」
「私だけ味方がいないな」
「リリアがいたら、父上の味方をしたかもしれませんよ」
エレノアが言う。
「……あれが?」
「最初だけ」
「それは味方とは言わん」
三人が。
少しだけ笑った。
失ったものは。
戻らない。
それでも。
残った者たちは。
生きていく。
「そのシノという子」
王妃が話を戻した。
「いつか、お会いしてみたいです」
「ああ」
「私も」
エレノアが言う。
「そんなに妹に似ているなら、少し興味があります」
「期待するな」
アイザックが即答する。
「なぜです?」
「お前たちの想像以上に騒がしい」
「まあ」
「ますます会いたくなりました」
「……そう言うと思った」
その時。
扉が。
控えめに叩かれた。
「陛下」
外から。
侍従の声。
アイザックが顔を上げる。
「入れ」
扉が開き。
侍従が深く頭を下げた。
「お寛ぎのところ、失礼いたします」
「構わん。何だ」
「宮廷魔導士長ロイド・ブレイズ様より、伝言がございます」
その名に。
アイザックの表情が変わった。
「ロイドから?」
「はい」
「内容は」
侍従は。
一度。
言葉を確認するように間を置いた。
「陛下に、直接お話ししたいことがある、と」
「直接?」
「はい」
そして。
「極めて重要な話であるため、可能な限り早くお時間を頂きたいとのことです」
アイザックが立ち上がる。
数瞬前までの。
父親の表情が消えていく。
王の顔へ。
戻る。
「分かった」
王妃が夫を見る。
「お仕事ですか」
「ああ」
「今夜は戻られます?」
アイザックが。
一瞬だけ詰まる。
「……善処する」
「四度目ですね」
エレノアが笑った。
「父上。数えられていますよ」
「分かっている」
アイザックは苦笑し。
扉へ向かう。
その途中で。
一度だけ。
二人を振り返った。
「行ってくる」
「はい」
王妃が答える。
「いってらっしゃいませ」
エレノアも。
小さく笑った。
「いってらっしゃい、父上」
扉が閉じる。
廊下を歩く足音が。
少しずつ遠ざかっていく。
その先で。
ロイド・ブレイズが待っていた。
古びた童話に隠された。
誰も知らなかった秘密とともに。




