シノの好きな歌
私は、死んだんだ。
そう気づくまでに。
それほど時間はかからなかった。
◇
あの日。
ルミナリア孤児院は、朝からひどい雨だった。
いつもの雨漏りなんてものじゃない。
廊下に置いた桶は、すぐにいっぱいになった。
食堂の隅からも。
ぽた。
ぽた。
水が落ちていた。
院長先生も。
みんなも。
困っていた。
だから。
私は、屋根に登った。
別に。
自分で直そうなんて思っていたわけじゃない。
どこから水が入っているのか。
見るだけのつもりだった。
場所さえ分かれば。
院長先生に教えられる。
少しくらいなら。
私にだってできると思った。
雨に濡れた屋根を。
這うようにして進んで。
瓦の間に。
小さな隙間を見つけた。
「あ」
そこから。
水が流れ込んでいた。
「ここだ」
覚えているのは。
そこまでだった。
足を滑らせた記憶はない。
落ちた記憶も。
痛かった記憶も。
何もない。
次に目を開けた時。
私は。
知らない場所にいた。
白い石でできた床。
見上げても。
どこまであるのか分からないほど高い天井。
ずっと向こうまで続く。
白い柱。
神殿みたいだった。
でも。
私が知っている神殿じゃない。
扉もない。
窓もない。
なのに。
どこからか、柔らかな光が差している。
「……院長先生?」
呼んでみた。
返事はない。
「みんな?」
自分の声だけが。
静かな空間へ響いた。
誰もいない。
それなのに。
不思議と。
怖くはなかった。
しばらく歩いて。
私は床へ座り込んだ。
「……そっか」
屋根から降りた記憶がない。
こんな場所も知らない。
それに。
院長先生が。
私を探しに来ない。
「私、死んだんだ」
口にすると。
少しだけ。
胸が寂しくなった。
「院長先生、怒ってるかな」
勝手に屋根へ登ったから。
たぶん。
ものすごく怒られる。
でも。
「雨漏り……直ったかな」
せっかく。
場所を見つけたのに。
伝えられなかった。
その時だった。
――運命は、変えられません。
「……?」
顔を上げる。
誰もいない。
耳には。
何の音も聞こえていない。
それなのに。
声だけが。
直接、心の中へ届いていた。
とても優しくて。
温かくて。
なぜか。
少しだけ懐かしい声。
「……だれ?」
――人は、いつか命を終えます。
――早いか、遅いか。
――穏やかであるか、そうでないか。
――その違いはあっても。
声は。
静かに続く。
――あなたは。
――ほんの少しの優しさから、誰かのために動いた。
――そして。
――その先で、命を落としました。
やっぱり。
私は。
屋根から落ちたんだ。
「そっか……」
――大丈夫ですよ。
その一言は。
不思議なくらい優しかった。
――次の人生では。
――ちゃんと、お父さんも、お母さんもいます。
――きっと。
――たくさん愛してもらえる人生です。
「……違うよ」
気づけば。
私はそう答えていた。
少し。
むっとしていた。
「確かに、私は孤児だけど」
お父さんの顔は知らない。
お母さんの顔も知らない。
どうして孤児院へ来たのかだって。
よく知らない。
でも。
「院長先生がいた」
熱を出せば。
夜中までそばにいてくれた。
悪いことをしたら。
本気で怒られた。
悲しい時には。
ぎゅっと抱きしめてくれた。
「みんなもいた」
一緒にご飯を食べた。
喧嘩もした。
お菓子を取り合った。
夜。
同じ部屋でくだらない話をして。
院長先生に怒られるまで笑った。
「だから」
胸を張る。
「私、不幸じゃなかったよ」
むしろ。
ちゃんと言わなくちゃいけない気がした。
「いっぱい愛してもらった」
少しの間。
声は何も言わなかった。
やがて。
――そうでしたね。
優しく。
そう答えた。
なんとなく。
笑っているような気がした。
「……あなた、神様?」
今度は。
少しだけ間があった。
――そう呼ぶ人もいます。
「変なの」
――そうですか?
「神様なら、もっと偉そうに喋ると思ってた」
今度こそ。
声が笑った気がした。
そして。
白い空間の光が。
ゆっくり揺らめいた。
――シノさん。
「なに?」
――今。
――あなたと同じように。
――一人の少女が、命を終えようとしています。
「……私と同じ?」
光の向こうに。
景色が現れた。
白い部屋。
見たことのない道具。
透明な細い管。
数字や光が並ぶ、不思議な箱。
その中央。
一つのベッドに。
小さな女の子がいた。
細い身体。
細い腕。
窓の外を見ながら。
小さな声で。
何かを口ずさんでいる。
「この子……?」
――もし。
――あなたがよければ。
声が響いた。
――あなたが生きられなかった時間を。
――この子へ、譲ってもらえませんか。
「私の……時間?」
光景が。
ゆっくり変わっていく。
そして。
その女の子のことが。
少しずつ。
心の中へ流れ込んできた。
名前。
月森詩乃。
「……しの?」
目をぱちぱちさせる。
「私と同じだ」
月森。
詩乃。
「じゃあ……ツキシノちゃんだね」
なんとなく。
そう呼ぶことにした。
ツキシノちゃんは。
たくさんの歌を知っていた。
子供たちが遊びながら歌う歌。
眠る時に聞く歌。
遠い国のお祭りの歌。
祈りの歌。
昔から。
誰かから誰かへ。
ずっと歌い継がれてきた歌。
そして。
その歌の多くを。
一人の男が。
彼女へ届けていた。
「……パパ?」
ツキシノちゃんのお父さん。
月森奏一郎。
世界中を旅して。
たくさんの景色を見て。
そこに暮らす人の声を聞いて。
そこで歌われる歌を集めて。
娘のもとへ持ち帰っていた。
ツキシノちゃんは。
いつも嬉しそうに、それを見ていた。
画面の向こうの景色。
知らない国。
知らない人。
知らない歌。
けれど。
自分で。
そこへ行くことはできなかった。
走ることも。
遠くへ旅することも。
好きなだけ歌うことさえ。
身体が許してくれなかった。
「……この子も」
私は。
小さく聞いた。
「死んじゃうの?」
――はい。
「私と同じ?」
――少し違います。
――けれど。
――もっと生きたかったという願いは。
――きっと、同じです。
私は。
ツキシノちゃんを見た。
この子も。
愛されている。
すごく。
お父さんにも。
お母さんにも。
でも。
この子の身体だけが。
その願いに応えてくれなかった。
そして。
声が聞こえた。
ツキシノちゃんのお父さんの声。
――生まれ変わったら。
――好きなだけ、いっぱい歌いなさい。
ベッドの上で。
ツキシノちゃんが笑う。
泣きそうな顔で。
それでも。
とても嬉しそうに。
「……歌が好きなんだね」
私は。
少しだけ笑った。
「この子が、私になるの?」
――いいえ。
「え?」
少し意外な答えだった。
――あなたは、あなたです。
――詩乃さんも、詩乃さんです。
声は。
優しく続けた。
――ただ。
――あなたが残した身体で。
――彼女が、あなたの人生の続きを生きます。
「私の身体で?」
――はい。
私は。
少しだけ考えた。
本当に。
ほんの少しだけ。
寂しかった。
院長先生に。
もう会えない。
みんなとも。
もっと一緒にいたかった。
もっとご飯を食べたかった。
もっと喧嘩したかった。
もっと笑いたかった。
雨漏りだって。
ちゃんと直したかった。
でも。
私の時間は。
もう。
終わった。
だったら。
「……いいよ」
心の声が。
静かになる。
「ツキシノちゃんに、あげる」
私の。
残っていた時間を。
「院長先生、優しいから」
「みんなも、いい子だから」
「きっと」
ツキシノちゃんを見る。
「この子のことも、好きになってくれるよ」
――ありがとう。
「うん」
それで。
一つだけ。
気になった。
「私はどうなるの?」
――あなたは。
――どうしたいですか?
「どうしたい?」
――望むなら。
――すぐに次の人生へ進むこともできます。
「次の人生……」
――別の場所で。
――新しい生を始めることができますよ。
少し。
考えた。
でも。
答えは。
すぐに決まった。
「ううん」
――いいのですか?
「だって」
私は。
ツキシノちゃんを見る。
「この子が、私の続きを生きるんでしょ?」
――はい。
「しかも、同じシノだし」
なんだか。
それがおかしくて。
少し笑った。
「私」
一度。
その名前を口にする。
「月森詩乃――」
ちょっと長い。
「やっぱりツキシノちゃんでいいや」
――好きに呼んであげてください。
「うん」
私は。
ベッドの上の少女を見る。
「ツキシノちゃんが幸せになるところを、見たい」
――幸せに?
「ちゃんと笑ってるか」
「いっぱい歌えてるか」
「院長先生や、みんなと仲良くできてるか」
それから。
少しだけ。
胸を張る。
「私の続きをあげたんだもん」
「ちゃんと幸せになったところを見てから」
笑う。
「次に行く」
しばらく。
神様は。
何も言わなかった。
やがて。
とても優しく。
――分かりました。
そう答えた。
――では。
――あなたはしばらく。
――彼女を見守ることにしましょう。
「うん」
――それから。
「なに?」
――一つ。
――あなたにも知っておいてほしいことがあります。
少しだけ。
声の調子が変わった。
怖くはない。
でも。
大切な話なのだと分かった。
――詩乃さんが、あなたの身体で生きていくために。
――あなたがこの世界で重ねた記憶も、彼女へ受け継いでもらいます。
「私の記憶?」
――はい。
――院長先生のこと。
――孤児院のみんなのこと。
――一緒に食べたもの。
――笑ったこと。
――怒られたこと。
――あなたが、この世界で生きた時間。
「全部?」
――すべてです。
「ツキシノちゃん、困らない?」
――最初は。
――少し戸惑うこともあるかもしれません。
――自分が経験したはずのないことを、なぜ知っているのか。
――初めて会うはずの人を、なぜ懐かしく感じるのか。
私は。
少し心配になった。
「大丈夫かな」
――大丈夫です。
――二つの記憶が、争わないようにしておきます。
光が。
柔らかく揺れる。
――詩乃さんが。
――あなたの記憶を「他人のもの」として、常に切り分けなくてもよいように。
――彼女自身の思い出と。
――あなたから受け継いだ思い出が。
――自然に馴染んでいくように。
「……じゃあ」
私は考える。
「院長先生のことも」
――はい。
「自分のことみたいに覚えてる?」
――そうなるでしょう。
「そっか」
それなら。
少し嬉しかった。
――ただし。
神様の声が。
静かに続いた。
――記憶が馴染んでも。
――あなたと、詩乃さんの魂が一つになるわけではありません。
「……うん」
――彼女は、彼女です。
――あなたは。
――あなたです。
私は。
小さく頷いた。
――だから。
――シノさん。
「なに?」
――一つだけ。
――必ず覚えておいてください。
今度は。
さっきよりも。
少しだけ真剣な声。
――あなたは。
――彼女を見守ることができます。
「うん」
――ですが。
――見守ることと。
――彼女の人生へ手を伸ばすことは。
――同じではありません。
「……?」
――あなたが。
――あまりにも強い想いを抱いた時。
喜び。
悲しみ。
恐怖。
そして。
怒り。
――その想いが。
――二人の境界を越えてしまうことがあります。
「越えると……どうなるの?」
少しの沈黙。
――あなたの感情が。
――彼女の心へ重なるかもしれません。
――時には。
――彼女自身の意思よりも先に。
――あなたの想いが、彼女の身体へ届いてしまうことさえあります。
私は。
自分の胸へ手を当てた。
「……それ、ダメ?」
――望ましいことではありません。
声は。
優しいままだった。
――これから。
――その身体で生きるのは、詩乃さんです。
――彼女には。
――彼女自身の人生を歩む権利があります。
「……うん」
――あなたが。
――本当に彼女の幸せを願うのなら。
――どうか。
――見守ることを、選んであげてください。
私は。
しばらく考えた。
それから。
ちゃんと頷いた。
「分かった」
そして。
少し笑う。
「私、ちゃんと見てる」
――ええ。
「困ってても、すぐ助けない」
――ええ。
「喧嘩してても?」
――見守りましょう。
「転びそうでも?」
――……それは、少し難しいですね。
「神様でも?」
今度こそ。
笑った声が聞こえた気がした。
――ええ。
――神にも難しいことはあります。
「そっか」
私も。
笑った。
◇
しばらくして。
神様が聞いた。
――では。
――最後に。
――詩乃さんへ、何か贈り物をしますか?
「贈り物?」
――はい。
――望むのであれば。
――力を授けることもできます。
「力?」
――あなたたちが。
――加護と呼ぶものです。
私は。
少しだけ考えて。
「いらない」
すぐに答えた。
――何も?
「うん」
だって。
「ツキシノちゃんの人生だもん」
私が。
勝手にすごい力をつけたら。
なんだか。
それは違う気がした。
「ツキシノちゃんが、自分で好きなもの見つければいいよ」
――そうですか。
「うん」
でも。
「あ」
一つだけ。
思い出した。
「待って」
――はい。
「一個だけ、お願いしていい?」
――もちろん。
私は。
もう一度。
月森詩乃を見る。
ベッドの上の。
小さな女の子。
そして。
その子のお父さんの言葉を思い出す。
――生まれ変わったら。
――好きなだけ、いっぱい歌いなさい。
「ツキシノちゃんのパパのお願い」
私は言った。
「叶えてあげたい」
――……。
「今度は」
少し。
力を込める。
「いっぱい歌えるようにしてあげて」
「歌いたい時に」
「好きなだけ」
「元気いっぱい」
そして。
「幸せいっぱいに」
神様は。
少しの間。
何も言わなかった。
やがて。
――それが。
――あなたの願い?
「うん」
迷わず。
頷いた。
「いっぱい歌って」
「いっぱい笑って」
「いっぱい幸せになってほしい」
それから。
もう一つ。
「あとね」
――はい。
「私からも」
少しだけ。
恥ずかしくなった。
「一個だけ、あげたい」
――何を?
「歌」
――歌?
「うん」
力じゃない。
すごい魔法でもない。
加護でもない。
ただ。
私が。
一番好きだった歌。
「いつか」
私は。
笑った。
「ツキシノちゃんに歌ってほしい」
――それだけでいいのですか?
「それがいい」
即答した。
「だって」
歌は。
誰かにもらって。
また誰かへ渡して。
そうやって。
ずっと残るものだから。
「私がいなくなっても」
「この歌を好きになってくれたら」
少し。
考えて。
「なんか嬉しい」
白い世界に。
柔らかな光が満ちていく。
――分かりました。
「ほんと?」
――ええ。
――あなたの願い。
――確かに、預かりました。
「ありがとう」
私は。
笑った。
「私の好きな歌はね――」
◇
遠くで。
誰かが歌っていた。
知らない歌。
聞いたことなんて。
一度もないはずの歌。
なのに。
なぜか。
とても懐かしい。
月森詩乃は。
薄れていく意識の中で。
その歌を聞いていた。
怖くはなかった。
不思議と。
少しだけ。
眠る前のような気持ちだった。
そして。
歌が始まる。
その。
ほんの少し前。
知らない女の子の声がした。
明るく。
楽しそうな。
小さな声。
「――さん、はい」




