王都
王都は、思っていたよりも大きかった。
高い城壁。
石造りの大通り。
途切れることのない馬車の列。
昼間だというのに、通りに並ぶ魔導灯は淡く光を宿している。
エルンは、宿の窓からそれを見下ろしていた。
試験日は、王都に着いた二日後だった。
その二日は、試験よりも先に、王都そのものに試される時間だった。
ハルム村とは何もかもが違う。
ファルク家の小さな屋敷とは、比べものにならない。
王立魔導士学園の白い石壁と青い塔を見た時、エルンは足が止まった。
大きい。
正しく、揺るぎなく、そこにある。
自分が何年間こもっていた書庫が、急に小さく思えた。
鞄の中には、三冊の記録帳が入っている。
シノ式発声。
外部マナ直接共鳴。
魔力持ち用変換。
エルン式仮説。
喉を焼いた日も、倒れた日も、シノに怒られた日も、リザに薬湯を飲まされた日も、そこには残っている。
けれど王都には、もっと優れた教師がいる。
もっと古い家の子弟がいる。
もっと幼い頃から本物の教育を受けてきた者たちがいる。
自分は、地方の没落貴族だ。
小さな屋敷で、孤児院の少女に歌を聞かせてもらいながら、何度も倒れていただけの少年だ。
その記録は、本当に王都で通用するのか。
エルンは、記録帳を開いた。
端に小さく書かれた一文が目に入る。
――苦しそうではない歌。
最初に、シノが言った言葉だった。
『エルンなら大丈夫だよ』
『だって、いっぱい歌ったもん』
単純すぎる言葉。
けれど、それだけは本当だった。
王都の誰も知らない。
自分が何度倒れたか。
何度、喉を焼いたか。
何度、悔しさを飲み込んだか。
でも、自分は知っている。
「……歌った」
エルンは記録帳を閉じた。
なら、明日はそれを出すだけだ。
***
試験当日。
王立魔導士学園の門前には、朝から受験生たちが集まっていた。
家紋入りの馬車。
仕立てのよい上着。
付き添いの従者。
高価な杖。
エルンは、リザが整えてくれた服を見下ろした。
古いが、清潔で、破れもない。
けれど、王都の貴族子弟たちの中に立つと、どうしても質素に見えた。
受付を済ませ、控室へ向かう。
中にはすでに多くの受験生がいた。
「今年は王都南区のアレイア家から二人受けるらしい」
「西方侯の三男もいるとか」
「自由歌唱があるなら、うちは水唱でいくかな」
「地方枠には厳しいだろうね」
エルンは空いている椅子に座った。
すると、近くにいた金髪の少年がこちらを見た。
「君、地方枠?」
「ああ」
「家名は?」
「ファルク」
「ファルク?」
少年は、隣の友人と顔を見合わせた。
「聞いたことあるか?」
「いや」
「どこの家?」
「ハルム村近くの小領だ」
「ああ」
少年は、分かったように頷いた。
「没落家か」
周囲の数人が小さく笑った。
エルンは黙った。
事実だった。
ファルク家は、かつてはそれなりの家だった。
今は使用人もリザ一人。
庭の噴水も止まり、使っていない部屋は閉じたままだ。
「その服で王立を受けるの?」
別の少女が言う。
「やめなさいよ。地方では、それが正装なのかもしれないでしょう」
やめなさいと言いながら、笑っている。
エルンは拳を握った。
言い返すことはできる。
だが、ここで言い争って何になる。
試験前に、無駄な力を使うだけだ。
「受験生は第二講義室へ移動してください」
教師の声が響く。
エルンは立ち上がった。
足は重い。
けれど、進むしかなかった。
***
筆記試験の問題用紙が配られた。
「始め」
紙をめくった瞬間、エルンは目を細めた。
基礎魔導理論。
詠唱魔導における魔力圧縮式。
歌唱魔導における呼吸位相と属性変換。
第二階梯火唱における譜式安定条件。
外部マナとの共鳴における過干渉例。
難しい。
だが、知らないものではない。
ファルク家の書庫で読んだ。
シノの歌を記録するために調べた。
自分の魔力がなぜ衝突するのか、何度も書き直した。
最後の記述問題で、エルンの手が止まった。
設問。
魔力反応の乏しい対象が、外部マナに強い干渉を起こした場合、考えられる理論的説明を述べよ。
エルンは、少しだけ笑いそうになった。
これは、自分が二年間考え続けたことだ。
もちろん、シノのことをそのまま書くわけにはいかない。
だが、理論としてなら書ける。
術者本人の魔力反応が乏しい場合でも、声帯振動、呼吸位相、発声音列が外部マナの自然振動と一致した場合、一時的な共鳴現象が発生しうる。
ただし、通常は持続せず、制御も不可能である。
これを制御可能な技術へ変換するには、術者本人の魔力による最小限の核を設け、外部マナとの直接衝突を避ける必要がある。
エルンは書き終えた。
周囲では、何人かが額に汗を浮かべている。
エルンはペンを置いた。
少しだけ、呼吸が楽になった。
***
次は魔力制御試験だった。
火を灯す。
水面を揺らす。
羽根を浮かせる。
小さな石を動かす。
派手な魔法ではない。
基礎制御を見る試験だ。
金髪の少年が、炎を高く上げた。
周囲から感嘆の声が上がる。
次の少女は、水を螺旋状に持ち上げた。
美しく、華やかだった。
エルンはそれを見て、また少し不安になる。
自分は、あれほど派手にはできない。
だが、今の課題で見るべきものは、派手さではない。
「次、エルン・ファルク」
「はい」
小さな燭台の前に立つ。
「第一課題。火を灯し、十呼吸の間、揺らさず維持してください」
エルンは息を吸った。
二年前。
小さな火が灯った日。
自分の魔法ではなかった火。
あの日から、すべてが始まった。
火を大きくする必要はない。
ただ、揺らさない。
芯を細く。
魔力を押しすぎず。
外のマナを乱さず。
息を止めない。
小さな火が灯った。
炎は、針のようにまっすぐ立っていた。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
十呼吸。
炎は、一度も揺れなかった。
周囲の反応は薄い。
地味だからだ。
けれど、試験官の眉がわずかに動いた。
水面に三つの波紋を作る課題でも、羽根を浮かせる課題でも、エルンは同じようにした。
大きく見せない。
乱さない。
崩さない。
風で浮いた羽根は、指定線までまっすぐ進んだ。
落ちない。
回らない。
揺れない。
「地味だな」
誰かが小さく呟いた。
エルンにも聞こえた。
だが、今度は揺れなかった。
試験官のペン先が止まっている。
それだけで十分だった。
***
午後。
歌唱魔導実技試験。
「課題は自由歌唱とする」
試験官の一人が告げた。
「ただし、攻撃魔導の場合は指定標的へ向けること。結界を超える威力は禁止。評価は出力ではなく、制御、安定性、譜式理解、魔力とマナの共鳴精度で行う」
自由歌唱。
得意なものを見せられる。
だが、選び方を間違えれば未熟さも露呈する。
金髪の少年は第二階梯火唱を選んだ。
火球は大きく、標的を焦がした。
周囲から声が上がる。
エルンの番が近づく。
何を歌うかは決めていた。
第二階梯火唱は使わない。
あれは、シノとの始まりの歌だ。
試験で派手に見せるために使いたくなかった。
選んだのは、三層結界だった。
見た目は地味だ。
だが、二年間の成果を見せるには、一番いい。
「次、エルン・ファルク」
エルンは中央へ進んだ。
「地方枠の」
「さっきの地味なやつ」
囁きが聞こえる。
エルンは目を閉じた。
ファルク家の小さな書庫。
机の上の記録帳。
割れた測定石。
リザの薬湯。
シノの歌。
歌は、苦しそうじゃない方がいい。
エルンは息を吸った。
「ひとつ、息を守る壁」
足元に、薄い光が円を描いた。
「ふたつ、音を受ける壁」
一枚目の外側に、二枚目の膜が重なる。
「みっつ、心を返す壁」
三枚目の結界が、空気の揺れを受け止めるように広がった。
「重なれ、ほどけず、争わず」
三層の結界が、薄く光る。
「静かに、ここに、輪を結べ」
透明な結界が完成した。
見た目には、ほとんど分からない。
薄い光が揺れているだけだ。
「何だ、結界か」
「しかも小さい」
「派手さがないな」
受験生の声が聞こえた。
しかし、試験官席は静まり返っていた。
「三層が干渉していない」
「内側の魔力核が細い。だが崩れない」
「外部マナの流れが、結界表面で均一に回っている」
「歌声も透き通るように甘美だ」
エルンは最後の音を置いた。
三層の結界が、静かに消える。
派手な光も爆発もない。
ただ、空気だけが少し震えた。
「終了」
「はい」
エルンは頭を下げた。




