童謡娘の歌唱指導
最初の一音で、エルンは膝をついた。
「――っ!」
声にならない声が喉の奥で潰れた。
喉が焼ける。
胸の奥で、魔力回路が引きつった。
息を吸ったはずなのに、肺の中の空気を無理やり引き抜かれるような感覚がある。
視界が白く滲んだ。
「エルン!?」
シノが駆け寄る。
エルンは机に手をつき、どうにか倒れずに耐えた。
「……今のが」
声がかすれていた。
「君の、普通か」
「普通だよ。全然苦しくないよ」
「そうか」
エルンは、痛みに震えながら笑った。
「なら、やっぱり君はおかしい」
「ひどい」
「褒めている」
「褒めてないよ」
リザがすぐに薬湯を持ってきた。
「若様」
「まだいい」
「飲みなさいませ」
「……はい」
エルンは薬湯を受け取った。
苦い。
しかし、喉の熱が少しだけ引いた。
シノは心配そうに見ている。
「もうやめようよ」
「なぜだ」
「今、一音で倒れそうになったよ?」
「倒れそうになったから分かった」
「何が!?」
「俺の魔力が邪魔をしている」
エルンは記録帳に震える手で書き込んだ。
シノ式発声。
体内魔力を芯にしない。
外部マナへ直接接続。
魔力持ちが模倣すると、体内魔力と外部マナの流れが衝突。
喉、胸部、魔力回路に強烈な負荷。
「もう一度だ」
「だめ!」
シノが叫んだ。
エルンは目を瞬かせる。
シノは泣きそうな顔をしていた。
「エルンが怪我するなら、私、歌わない」
その言葉に、エルンはペンを止めた。
自分はまた間違えかけていたのかもしれない。
シノの歌を知りたいあまり、シノに無理をさせようとしていた。
いや、無理をしているのは自分だ。
だが、それを見せられるシノも苦しい。
エルンは、少しだけ息を整えた。
「分かった」
「ほんと?」
「今日は、あと一度だけにする」
「全然分かってない!」
リザが静かに咳払いをした。
「若様」
「……分かった。今日は終わりにする」
シノはようやく息をついた。
エルンは記録帳を閉じる。
だが、その目は諦めていなかった。
「そのまま真似るのは無理だ」
「うん。やめた方がいいよ」
「だから、削る」
「削る?」
「君の発声を、そのまま使うのではない。俺の魔力で支えられる形に変える」
エルンは割れた測定石を見た。
「君は自然界のマナを全部借りている。俺は魔力を持っている。なら、俺の魔力で形を決め、外のマナを響かせる形にすればいい」
シノはよく分からないという顔をした。
「それって、できるの?」
「分からない」
「またそれ」
「分からないなら、試す」
エルンは記録帳の表紙を撫でた。
「これは君の歌を写す記録じゃない。俺が、俺の歌にするための記録だ」
***
その日から、ファルク家の小さな屋敷には、毎日のように歌が響くようになった。
シノは歌った。
エルンは記録した。
そして、真似ようとして倒れた。
「若様、薬湯です」
「まだ倒れていない」
「膝が床についております」
「これは考えているだけだ」
「床で考える必要はございません」
リザは淡々と薬湯を置いた。
シノは横で頬を膨らませる。
「今日はもう終わり」
「まだ一節目だ」
「一節目で三回倒れた」
「三回目は倒れていない。片膝をついただけだ」
「それを倒れたって言うんだよ」
エルンは反論しようとして、咳き込んだ。
シノが慌てて水を渡す。
「ほら!」
「……少し休む」
「最初からそうして」
最初の一月、エルンはほとんど歌えなかった。
シノの真似をすると、喉が焼ける。
胸が裂けるように痛む。
魔力回路が痙攣し、指先が震える。
普通の歌唱魔導ではあり得ない負荷だった。
魔力持ちであることが、逆に邪魔をしていた。
それでも、エルンはやめなかった。
シノの歌をそのまま写すのではなく、分解した。
息の入り方。
言葉の置き方。
音を押さない感覚。
喉ではなく、身体全体で響かせる感覚。
そして、自分の魔力が暴れないように、ほんの少しだけ芯を作る。
芯を作りすぎると、いつもの歌唱魔導になる。
芯を消しすぎると、シノ式に近づきすぎて身体が壊れる。
その間を探した。
何度も失敗した。
何度も倒れた。
何度も、シノに怒られた。
「エルン!」
「……今のは悪くない」
「悪いよ! 血の味がするって言ってた!」
「だが、響きは安定した」
「安定より喉!」
リザも厳しかった。
「若様。本日はここまでです」
「あと半音だけ」
「半音で倒れた方を、私は何度も存じております」
「……」
「ここまでです」
エルンは従うしかなかった。
けれど翌日には、また記録帳を開いた。
シノは呆れた顔をしながらも、歌ってくれた。
最初は、エルンに頼まれたからだった。
けれど、少しずつ変わっていった。
シノも、自分の歌を知るようになった。
「今、息が早かった?」
「ああ。だからマナの反応が浅かった」
「まなはんのう」
「外の力があまり揺れなかったということだ」
「じゃあ、もう少しゆっくり?」
「そうだ」
シノはもう一度歌った。
エルンは記録する。
歌う少女と、記録する少年。
ファルク家の小さな屋敷で、二人は少しずつ、自分たちだけの形を作っていった。
***
季節が巡った。
春の庭に小さな白い花が咲き、夏の書庫には湿った紙の匂いがこもった。
秋になると、窓の外で赤い葉が落ちた。
冬には、暖炉の前でシノが手をこすりながら歌った。
エルンの記録帳は、一冊から二冊へ。
二冊から五冊へ。
五冊から、さらに増えた。
シノ式発声。
外部マナ直接共鳴。
体内魔力との衝突。
魔力持ち用変換。
エルン式仮説。
最初は紙の上だけの言葉だったものが、少しずつ形を持ち始めた。
エルンはもう、一音で倒れなくなった。
それでも苦しい。
喉は熱を持つ。
胸は痛む。
魔力回路は、時々焼けるように軋む。
だが、制御できる瞬間があった。
自分の魔力で形を作り、シノの歌のように外のマナを鳴らす。
その一瞬、火唱は別物になった。
小さな火は、揺らがなくなった。
火球は、まっすぐ飛ぶようになった。
風唱の小さな旋律は、葉を裂かずに一枚だけ持ち上げた。
水唱の基礎歌は、器の水面に綺麗な輪を作った。
リザはそれを見て、静かに言った。
「若様。少し、歌が柔らかくなりましたね」
エルンは驚いた顔をした。
「分かるのか」
「長くお仕えしておりますので」
「魔導のことは知らないだろう」
「魔導は存じません。ですが、苦しそうな歌と、そうでない歌の違いくらいは分かります」
エルンは、少しだけ黙った。
それから小さく頷いた。
「そうか」
その日、記録帳の端にこう書いた。
――苦しそうではない歌。
最初にシノが言った言葉だった。
***
二年が経った。
ファルク家の小さな屋敷で積み重ねられた記録は、十二冊になっていた。
喉を焼いた日もある。
倒れて、リザに叱られた日もある。
シノに本気で怒られた日もある。
それでも、エルンは歌い続けた。
シノの歌を、そのまま真似ることはできなかった。
だから削った。
書き直した。
自分の魔力で支えられる形に変えた。
シノ式ではない。
けれど、シノの歌から生まれた、エルンの歌だった。
その朝、ファルク家の屋敷の前に一台の馬車が止まっていた。
王都へ向かう乗合馬車である。
エルンは鞄の中を確認した。
魔導書。
着替え。
少しの金。
そして、十二冊のうち三冊だけ選んだ記録帳。
本当は全部持っていきたかった。
だが重すぎる。
リザに止められた。
「若様、王都へお屋敷ごと持っていくおつもりですか」
「可能なら」
「不可能でございます」
「分かっている」
リザは襟元を整えた。
「ご立派になられました」
「まだ何も始まっていない」
「始まる場所まで、ご自分の足で歩かれたではありませんか」
エルンは少し照れたように視線を逸らした。
そこへ、シノが走ってきた。
「エルン!」
息を切らしている。
手には小さな布包みを持っていた。
「遅い」
「走ってきたもん」
「なら仕方ない」
「これ」
シノは布包みを差し出した。
中には、乾かした薬草と、小さな焼き菓子が入っていた。
「院長先生とリザさんに教わって作ったの。薬草は喉にいいやつ」
「助かる」
「無茶したら飲んで」
「無茶はしない」
シノはじっとエルンを見た。
「本当に?」
「……なるべく」
「絶対するやつだ」
リザが静かに頷いた。
「私もそう思います」
「リザまで」
エルンはため息をついた。
だが、その顔は以前より少し柔らかかった。
シノは馬車を見上げる。
「王都、遠いんだよね」
「ああ」
「王立魔導士学園、すごいところなんだよね」
「そのはずだ」
「エルンなら大丈夫だよ」
エルンはシノを見た。
「どうしてそう思う」
「だって、いっぱい歌ったもん」
あまりに単純な答えだった。
けれど、エルンは笑わなかった。
二年間。
何度も倒れた。
何度も喉を焼いた。
何度も悔しさを飲み込んだ。
その全部を、シノは見ていた。
だから、その言葉は軽くなかった。
「……そうだな」
エルンは鞄の中の記録帳に触れた。
王立魔導士学園。
ファルク家再興のために、必ず越えなければならない場所。
王都には、自分より優れた者がいるかもしれない。
自分より強い魔力を持つ者も。
自分より美しく歌う者も。
いくらでもいるだろう。
それでも。
エルンは振り返った。
古い屋敷。
小さな書庫。
割れた測定石。
何度も膝をついた床。
薬湯の苦味。
リザのため息。
そして、そこで歌っていた少女。
ここで積み上げたものは、誰にも奪えない。
馬車の御者が声をかけた。
「そろそろ出ますよ」
エルンは頷いた。
そして、シノに向き直る。
「シノ」
「うん」
「戻ったら、続きをやる」
「まだやるの?」
「当然だ」
シノは少し呆れた顔をして、それから笑った。
「じゃあ、ちゃんと帰ってきてね」
「ああ」
エルンは馬車へ足をかけた。
最後に一度だけ、記録帳を握りしめる。
「行ってくる」




