ファルク家の小さな屋敷
「俺に歌を教えてくれないか?」
森の中に、エルンの声だけが残った。
焦げた草の匂いがする。
火の鳥が消えた空には、もう赤い羽も、熱も残っていない。
ただ、地面には羽の形をした焦げ跡だけがあった。
シノは、その跡とエルンの顔を交互に見た。
「……私が?」
「ああ」
「でも、私、魔法なんて分からないよ」
エルンは少しだけ息を吐いた。
腕の傷が痛む。
背中も痛い。
けれど、そんなことはもうどうでもよかった。
「魔法じゃない」
「え?」
「歌だ」
エルンは、はっきりと言った。
「俺に、君の歌を教えてほしい」
シノは困ったように眉を下げた。
「歌って……普通に歌ってるだけだよ?」
「その普通が、俺にはできない」
その言葉を口にした瞬間、エルンの胸がきしんだ。
悔しかった。
自分で認めたくなどなかった。
けれど、もう認めるしかない。
シノの歌は、自分の知らない場所にある。
王立魔導士学園を目指して積み上げてきた知識も、譜式も、魔力制御も、そこには届いていなかった。
だから知りたい。
あの火の鳥が、どこから来たのか。
魔力ゼロの少女が、なぜ世界を鳴らせるのか。
そして、自分の歌は、どこまで変われるのか。
「でも……」
シノは、エルンの腕を見た。
血が滲んでいる。
「その前に、手当てしないと」
「これは」
「だめ」
シノはきっぱり言った。
「歌を教えるかどうかは分からないけど、怪我してる人をそのままにはできないよ」
エルンは言い返そうとした。
だが、足に力が入らなかった。
ふらついた体を、シノが慌てて支える。
「ほら!」
「……すまない」
「孤児院に戻ろう。院長先生に薬を――」
「待て」
「なに?」
「孤児院に戻ったら、院長に叱られる」
シノは目を丸くした。
それから、少し呆れた顔をする。
「叱られるのは、怪我したからでしょ」
「それはそうだが」
「じゃあ叱られた方がいいよ」
正論だった。
エルンは黙った。
***
マルナ院長は、当然のようにエルンを叱った。
「森の奥で攻撃魔導の練習ですか」
「奥ではありません」
「魔獣が出たのでしょう?」
「……出ました」
「では、奥かどうかは関係ありません」
エルンは椅子に座らされ、腕に薬草を当てられていた。
薬草を潰して布で巻く手つきは慣れている。
シノは隣で、しょんぼりしていた。
「私も、勝手に森に入ったから……」
「シノは浅い場所で薬草を取っていただけでしょう」
「でも、奥の方に行きかけたかも」
「それも後で話します」
「はい……」
マルナ院長の声は静かだった。
静かなのに、逆らえない。
エルンは少しだけ背筋を伸ばした。
「院長先生」
「はい」
「シノを、ファルク家の屋敷に招きたいのです」
マルナ院長の手が止まった。
シノも目を瞬かせる。
「屋敷に?」
「はい」
「なぜです」
「彼女の歌を調べたい」
言った瞬間、マルナ院長の目が鋭くなった。
エルンはすぐに言い直す。
「いえ、違います。実験ではありません」
「では、何ですか」
「記録です」
エルンは、膝の上で拳を握った。
「俺は、彼女の歌を理解したいのです。危険なことはしません。無理に魔法を使わせるつもりもありません。ただ、俺が知りたい」
マルナ院長は、しばらくエルンを見ていた。
「若様」
「はい」
「シノは、あなたの疑問を解くための道具ではありません」
「分かっています」
「本当に?」
エルンは言葉に詰まった。
昨日、同じことを言われた。
その時、自分は本当に分かっていなかった。
シノを不思議な現象として見ていた。
魔力ゼロなのに火を灯した、理解不能な存在として。
けれど今は、少し違う。
シノは魔法の謎である前に、歌う少女だった。
そして自分は、その歌に命を救われた。
「……昨日は、分かっていませんでした」
エルンは正直に言った。
「でも今は、違います。俺は彼女を利用したいのではありません。彼女の歌に、学びたいのです」
シノがエルンを見た。
マルナ院長は、深く息をついた。
「シノ」
「はい」
「あなたはどうしたいですか」
「私?」
「ええ」
シノは困った顔をした。
「私は、魔法のことは分からないよ」
「はい」
「でも、エルンはすごく真剣で……それに、今日、助けられたのは私も同じだから」
「あなたが助けたのでしょう」
「エルンが歌えって言ってくれなかったら、私、動けなかった」
シノは、自分の手を見た。
「だから、少しだけなら」
マルナ院長は頷いた。
「分かりました。ただし条件があります」
エルンは顔を上げた。
「危険なことはしないこと。シノが嫌がったらすぐにやめること。遅くなる前に必ず孤児院へ帰すこと」
「守ります」
「それから」
マルナ院長は、包帯を結びながら言った。
「若様も、無茶をしないこと」
エルンは一瞬黙った。
「……努力します」
「守ると言いなさい」
「守ります」
シノが小さく笑った。
***
ファルク家の屋敷は、村の外れにあった。
大きい。
けれど、華やかではない。
門は古く、庭の噴水は水を失い、石畳の隙間から草が伸びている。
それでも、荒れてはいなかった。
窓は磨かれ、玄関の金具も錆びていない。
古びているが、手入れされている屋敷だった。
「広いね」
シノが見上げて言う。
「昔は、もっと人がいた」
「今は?」
「リザがいる」
「リザ?」
その時、玄関の扉が開いた。
白髪をきっちりまとめた老女が立っていた。
黒い服に白い前掛け。
背筋はまっすぐで、目は少し厳しい。
「若様」
「リザ」
「また無茶をなさいましたね」
「転んだだけだ」
リザは、エルンの包帯を見た。
「爪の跡がある転び方は、珍しゅうございますね」
エルンは黙った。
シノが思わず吹き出しそうになり、慌てて口を押さえる。
リザはシノを見ると、静かに頭を下げた。
「ようこそ、ファルク家へ。シノ様」
「さ、様はいらないです」
「では、シノさん」
「はい」
「若様がご迷惑をおかけしたようで」
「いえ、迷惑というか……」
「迷惑でなければ何よりです」
リザはそう言うと、エルンに視線を戻した。
「お茶と薬湯を用意しております」
「薬湯はいい」
「用意しております」
「……分かった」
エルンは諦めた。
***
屋敷の書庫は、埃と紙の匂いがした。
壁一面に本棚があり、古い魔導書や譜面が詰め込まれている。
シノは目を輝かせた。
「すごい。本がいっぱい」
「ほとんど古いものだ」
「読めるの?」
「読めるものもある」
「読めないものもあるんだ」
「古い譜式や、崩れた文字のものは難しい」
エルンは机の上に数冊の本を置いた。
「この世界の魔導には、大きく分けて二つある。詠唱魔導と歌唱魔導だ」
「えいしょう、かしょう」
「詠唱魔導は、言葉や短い呪文で魔力を整えて発動する。速くて実用的だ。歌唱魔導は、旋律と呼吸で魔力を整え、自然界のマナと共鳴させる」
「マナ?」
「世界に満ちている力だ。火にも、水にも、風にも、大地にもある」
シノは難しい顔をした。
「つまり……空気みたいなもの?」
「近い。だが、ただの空気ではない」
「難しい」
「だろうな」
エルンは本を開いた。
「普通の魔導士は、自分の魔力を芯にする。それを詠唱や歌で整えて、外のマナを呼び込む。だから本人の魔力が必要だ」
「でも私はゼロなんだよね」
「ああ」
「じゃあ、だめなんじゃないの?」
「普通なら、だめだ」
エルンは机の上に、丸い測定石を置いた。
昨日使った魔力判定機よりも古いが、精度は高い。
「もう一度測る」
「また?」
「確認だ」
シノは言われた通り、石に手を置いた。
何も起きない。
透明な石は透明なままだった。
「やはり、魔力はない」
「うん」
「次に、昨日の火唱の出だしを少しだけ歌ってくれ」
「火よ、丸く、赤く、走れ、のやつ?」
「そうだ。ただし小さく。火を出そうとしなくていい」
「うん」
シノは測定石に手を置いたまま、小さく息を吸った。
「火よ、丸く、赤く、走れ」
その瞬間、測定石が白く光った。
青でも赤でもない。
魔力属性の色ではなかった。
白い光が、石の内側から溢れる。
エルンが身を乗り出した。
「これは――」
ぱきん。
測定石に亀裂が入った。
さらに、ぱきぱきと細かな音を立てて、石は二つに割れた。
沈黙。
シノは恐る恐る手を離した。
「……ごめんなさい」
エルンは割れた測定石を見つめたまま動かない。
扉のそばで様子を見ていたリザが、静かに言った。
「若様。今月、割った魔導具はこれで三つ目でございます」
「今回は俺じゃない」
「存じております」
シノはますます小さくなった。
「弁償、できないかも」
「いい」
エルンは割れた測定石を手に取った。
目が輝いている。
「今ので分かった」
「割れたのに?」
「割れたから分かった」
「ええ……?」
エルンは記録帳を開いた。
「君は、自分の魔力で魔法を使っているんじゃない」
「うん。魔力ないもんね」
「君の歌は、外のマナをそのまま鳴らしている」
「外のマナを?」
「そうだ。普通は自分の魔力を芯にして、外のマナを呼び込む。だが君には芯がない。ないはずなのに、外のマナだけが反応している」
エルンは割れた石を机に置いた。
「全部、借りているんだ」
「借り物ってこと?」
「ああ。自然界のマナを、君の歌が全部借りている」
「それって、いいの?」
「分からない」
エルンは即答した。
「分からないから調べる」
シノは、少し困ったように笑った。
「エルンって、分からないことがあると元気になるね」
「当然だ。分からないものは、分かるようにすればいい」
「私は分からないものは、分からないままにしちゃうけど」
「それでは困る」
「誰が?」
「俺が」
シノはまた笑った。
エルンはペンを取った。
「まず、君の発声を真似る」
「真似る?」
「君がどう歌っているのか、俺の身体で確かめる」
「普通に歌ってるだけだよ」
「だから、その普通を知る」
シノは不安そうに首を傾げた。
「でも、私、先生なんてできないよ?」
「先生でなくていい」
エルンは白い紙を一枚広げた。
「君は歌え。俺は記録する」




