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火の鳥

翌日、エルンは森にいた。


 ファルク家の北に広がる小さな森。


 普段は村人が薪や薬草を取りに入る場所だが、奥へ行くと人通りは少ない。


 攻撃魔導の練習には都合がよかった。


 エルンは一本の枯れ木を標的に決め、譜面を広げる。


 第二階梯火唱ファイアボール


 第一階梯火唱ライトが火を灯す基礎魔法なら、こちらは初歩的な攻撃魔法である。


 火球を作り、標的へ飛ばす。


 王立魔導士学園を目指すなら、受験前に安定させておきたい魔法だった。


 エルンは息を吸った。


「火よ、丸く、赤く、走れ――」


 旋律に魔力を乗せる。


 指先に熱が集まる。


 小さな火球が生まれ、標的へ飛んだ。


 だが、枯れ木に届く前に弾けて消えた。


「……またか」


 昨日から調子が悪い。


 いや、違う。


 昨日からではない。


 シノの歌を聞いてからだ。


 自分の声の硬さが、分かってしまう。


 息を吸うたび、喉が詰まる。


 音を正しく置こうとすると、歌が固まる。


 シノのように流れない。


「くそっ」


 エルンは譜面を握りしめた。


 魔力ゼロ。


 あの歌。


 小さな火。


 全部が頭から離れない。


 もう一度歌う。


「火よ、丸く、赤く、走れ――」


 火球は出た。


 今度は標的に当たった。


 だが、焦げ跡は浅い。


 第二階梯火唱ファイアボールとしては不十分だった。


     ***


 少し離れた草むらで、シノは薬草を摘んでいた。


 孤児院で使う薬草である。


 虫刺されに効く葉。

 熱が出た時に煎じる草。

 擦り傷に塗る根。


 森の浅い場所なら、子どもだけでも入っていいと言われている。


 もちろん、奥へは行ってはいけない。


 だからシノは、籠を持って森の端を歩いていた。


 そこで、またエルンの歌を聞いた。


「火よ、丸く、赤く、走れ――」


 昨日より、もっと苦しそうだった。


 シノは草を摘む手を止める。


 姿は見えない。


 けれど、声は聞こえる。


 何度も同じ歌を繰り返している。


 火の歌。


 昨日の小さな火とは違う。


 今度は、もっと強く火を飛ばそうとしている歌だと、なんとなく分かった。


 でも、やっぱり息が詰まっている。


 音が固い。


 シノは思わず、口の中で小さく真似をした。


「火よ、丸く、赤く、走れ……」


 歌っただけだ。


 魔法を使うつもりなんてない。


 そもそも、シノには魔力がない。


 昨日、エルンの判定機でそう分かった。


 だから、これはただの真似。


 シノはそう思って、また薬草を摘み始めた。


 その時、森の奥で草が大きく揺れた。


     ***


 エルンが最初にそれを見た時、鹿かと思った。


 だが、違った。


 背の低い獣。


 灰色の毛。


 濁った赤い目。


 口の端から黒い唾液が垂れている。


 魔獣だった。


 小型とはいえ、子ども一人で相手にするには危険な相手である。


 エルンは一歩下がった。


「なぜ、こんな浅い森に……」


 魔獣が唸る。


 エルンは譜面を捨て、杖を構えた。


 逃げるか。


 いや、背を向けた瞬間に飛びかかられる。


 なら、撃つしかない。


「火よ、丸く、赤く、走れ!」


 火球が飛ぶ。


 魔獣の肩に当たった。


 獣は一瞬怯んだが、倒れない。


 怒りの声を上げ、地面を蹴った。


 速い。


 エルンは横に跳んだ。


 爪が腕をかすめる。


 痛みが走った。


「っ……!」


 続けて歌おうとする。


 だが、呼吸が乱れている。


 歌唱魔導は、呼吸が崩れると制御が落ちる。


 エルンの指先に集まった火は、形になる前に散った。


 魔獣がまた飛びかかる。


 エルンは杖で受け止めようとした。


 衝撃。


 体が後ろへ吹き飛ばされる。


 背中を木の根に打ちつけた。


「ぐっ……」


 視界が揺れる。


 魔獣が低く唸りながら近づいてくる。


 エルンは喉を押さえた。


 歌え。


 歌え。


 今歌えなければ、何のために学んできた。


「火よ……」


 声が震える。


 魔獣が身を低くする。


 その先に、シノがいた。


 籠を抱えたまま、森の小道に立ち尽くしている。


 薬草が足元に散らばっていた。


「シノ!」


 エルンは叫んだ。


 魔獣がシノの方へ首を向ける。


 まずい。


 エルンは起き上がろうとしたが、足に力が入らない。


「逃げろ!」


 叫んだつもりだった。


 けれど、シノは動けなかった。


 怖いのだ。


 当たり前だ。


 魔獣を前にして、孤児院の子どもが動けるはずがない。


 魔獣が低く唸り、シノへ向けて身を沈めた。


 エルンの喉が、勝手に叫んでいた。


「歌え!」


 シノがびくりと肩を震わせた。


「え……?」


「歌え、シノ!」


「な、なにを……?」


「さっきのだ!」


 エルンは、血の滲む腕で杖を握りしめた。


「僕が歌っていた旋律! どうせ、どこかで聴いていたんだろ!」


 シノは目を見開いた。


「でも、私、魔法なんて分からないよ!」


「魔法じゃなくていい!」


 魔獣がシノへ向かって跳んだ。


 エルンは叫んだ。


「歌え!」


 シノは息を吸った。


 怖かった。


 足も震えていた。


 けれど、エルンの声が耳に残っていた。


 歌え。


 シノは、聞き覚えのある旋律を探した。


 さっき薬草を摘みながら聞いていた、エルンの火の歌。


 何度も何度も、苦しそうに繰り返していた歌。


「火よ、丸く、赤く、走れ」


 その一音が、森に落ちた。


 森の空気が変わった。


 木々の葉が鳴る。


 地面の草がざわめく。


 エルンは、魔力の流れを探った。


 シノからは、何も出ていない。


 魔力はない。


 昨日の判定通り、ゼロ。


 なのに、周囲のマナが一斉に震えた。


 火球が生まれる。


 そう思った。


 だが、それは球ではなかった。


 赤い火が、翼を広げた。


 金色の尾を引き、炎が鳥の形を取る。


 小さな火球ではない。


 第二階梯火唱ファイアボールではない。


 炎の鳥。


 第五階梯火唱イフリート相当の、高位火炎現象。


 それが、シノの歌から生まれた。


 火の鳥は一声も鳴かなかった。


 ただ翼を広げ、魔獣へ向かって舞い降りる。


 魔獣が悲鳴を上げた。


 炎が獣を包む。


 焼き尽くすというより、悪いものだけを払い落とすような火だった。


 魔獣は地面を転がり、黒い煙を上げながら森の奥へ逃げていく。


 火の鳥は追わなかった。


 シノとエルンの頭上を一度だけ旋回し、赤い羽を散らして消えた。


 森に静けさが戻る。


 焦げた草の匂い。


 揺れる木漏れ日。


 シノはその場に座り込んだ。


「……びっくりした」


 エルンは言葉を失っていた。


 びっくりした。


 それだけか。


 第二階梯の旋律で、第五階梯相当の火唱現象を起こしておいて。


 魔力ゼロで。


 譜式も知らず。


 ただ歌っただけで。


 エルンは、焦げた地面を見つめた。


 そこには、火の鳥の羽のような形をした跡が残っていた。


 悔しかった。


 羨ましかった。


 情けなかった。


 そして、どうしようもなく知りたかった。


 自分が何年もかけて届かない場所に、この少女の歌は何気なく触れている。


 それを否定したい。


 偶然だと言いたい。


 けれど、もう無理だった。


 昨日の小さな火も。


 孤児院で聞いた歌も。


 今の火の鳥も。


 全部、シノの歌だ。


 エルンは杖を支えに立ち上がった。


 腕の傷が痛む。


 背中も痛い。


 それでも、シノの前へ歩いた。


 シノが不安そうに見上げる。


「エルン、大丈夫?」


 エルンは拳を握った。


 嫉妬も、悔しさも、プライドも、全部喉の奥に押し込める。


 そして、言った。


「俺に歌を教えてくれないか!」

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