魔力ゼロ
その火は、いつまでも消えなかった。
いや、正確には、ただのろうそくの火である。
風を吹きかければ消える。
水をかければ消える。
火そのものに、特別な力があるわけではない。
それでも、エルン・ファルクは燭台の前から動けなかった。
小さな火が、静かに揺れている。
第一階梯火唱。
火を灯すだけの、基礎中の基礎。
何度も失敗した魔法だった。
けれど、それが灯った。
エルンの指先からは、ほとんど魔力が流れていない。
歌唱も途切れていた。
譜式も完成していない。
なのに、火はついた。
しかも、あの少女の歌声が聞こえた直後に。
「……偶然だ」
エルンは呟いた。
遅延発動。
未熟な歌唱魔導では、ごく稀に起こる。
歌唱によって整えた魔力が、少し遅れて自然界のマナと結びつき、現象化する。
理論上は説明できる。
そうだ。
説明できるはずだ。
エルンは自分に言い聞かせるように、机の上の魔導書を開いた。
しかし、文字が頭に入ってこない。
思い出すのは、あの声だった。
灯れ、灯れ、小さき火。
何の力みもない声。
喉を押し込めず、息を止めず、まるで水が流れるような歌。
あの少女は、魔導書を読めなかった。
譜式も知らなかった。
孤児院の子だと言っていた。
魔力回路を持つ家の者でもないはずだ。
なのに。
「……苦しそうだった、か」
エルンは、シノの言葉を思い出した。
歌が苦しそうだった。
初めて言われた。
エルンの歌は、王立魔導士学園の受験を目指すために鍛えてきたものだ。
音程を外さないように。
魔力を乱さないように。
譜式の一節一節を正確に置くように。
そのために何度も練習してきた。
それを、苦しそうだと言われた。
ただの孤児院の子に。
エルンは魔導書を閉じた。
胸の奥が、落ち着かない。
悔しい。
腹が立つ。
けれど、それだけではなかった。
あの歌を、もう一度聞きたい。
そう思ってしまった自分に、エルンはさらに苛立った。
***
翌朝。
エルンは、古い革袋を抱えてルミナリア孤児院の門の前に立っていた。
門の向こうから、子どもたちの声が聞こえる。
洗濯物が干され、庭の畑では小さな子どもが水やりをしていた。
屋敷とはまるで違う。
古いが、息をしている場所だ。
「何してんの?」
横から声がして、エルンは肩を跳ねさせた。
振り向くと、昨日の少女が立っていた。
黒い髪。
小さな体。
手には野菜の入った籠を持っている。
シノだった。
「き、昨日の届け物の礼だ」
「礼?」
「そうだ」
エルンは革袋を持ち上げた。
「少しばかりだが、干し肉と豆を持ってきた。孤児院で使うといい」
「いいの?」
「ファルク家は、礼を欠かない」
言ってから、エルンは少しだけ恥ずかしくなった。
今のファルク家は、礼を欠かないと言えるほど裕福ではない。
それでも、何か名目がなければここへ来られなかった。
「ありがとう。院長先生に渡してくるね」
シノは素直に受け取った。
そのまま走り出そうとして、ふと振り返る。
「エルンも来る?」
「え?」
「院長先生に挨拶するんでしょ?」
「あ、ああ」
エルンは咳払いをした。
「もちろんだ」
孤児院の中へ入ると、焼いたパンの匂いがした。
大きな鍋から湯気が立ち、子どもたちが木の器を並べている。
マルナ院長という女性は、エルンを見ると少し驚いた顔をしたが、すぐに丁寧に頭を下げた。
「ファルク家の若様ですね。昨日はシノがお世話になりました」
「いえ。こちらこそ届け物を」
エルンは礼を返した。
院長は革袋を受け取り、中身を見ると目を細めた。
「ありがとうございます。子どもたちに食べさせます」
「たいしたものではありません」
「いいえ。たいしたものです」
マルナ院長はきっぱり言った。
その言い方に、エルンは少しだけ背筋を伸ばした。
孤児院の子どもたちが、ちらちらとエルンを見ている。
「貴族?」
「たぶん」
「魔法使えるのかな」
「髪さらさら」
ひそひそ声が聞こえる。
エルンはどう反応すべきか分からず、黙っていた。
その時、シノが奥の部屋から小さな子を連れてきた。
泣きべそをかいている女の子だった。
「ミミ、ほら。朝ごはん食べよう」
「やだ。ねむい」
「じゃあ、ちょっとだけ歌う?」
「うん」
シノは小さな椅子に腰かけ、ミミを膝の横に座らせた。
そして、何気なく歌い始めた。
それは魔導書に載っている歌ではなかった。
火唱でも、水唱でも、風唱でもない。
たぶん、ただの子守歌。
言葉も単純だ。
眠い子を起こし、朝が来たことを教えるような歌。
けれど。
エルンは息を忘れた。
上手い。
ただ上手い、という言葉では足りない。
音程が正確なのではない。
息が長いのでもない。
声が綺麗なのでもない。
全部そうなのに、それだけではない。
歌が、苦しそうではない。
音が、無理に押し出されていない。
言葉が、呼吸に乗っている。
小さな子どもが安心して目を細めるのが、当然のように思える歌だった。
エルンは拳を握った。
胸の奥に、嫌な熱が生まれる。
悔しい。
なぜだ。
なぜ、この子が。
王都の魔導書も読んでいない。
譜式の意味も知らない。
魔力回路の訓練も受けていない。
なのに、なぜ、こんなに自然に歌える。
エルンは喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
自分は何年も練習してきた。
ファルク家を再興するために。
王立魔導士学園に入るために。
何度も何度も同じ旋律を繰り返してきた。
それなのに、自分の歌は苦しそうだと言われた。
シノの歌は、ただそこに流れている。
嫉妬だった。
はっきりと、そう分かった。
歌が終わると、ミミは少しだけ機嫌を直し、木の器を持って食卓へ行った。
シノは笑って立ち上がる。
その顔には、自分が何をしたのかという自覚がない。
それがまた、エルンの胸をざわつかせた。
「シノ」
「なに?」
「少し、試したいことがある」
「試したいこと?」
エルンは革袋の奥から、小さな箱を取り出した。
古い木箱だ。
蓋を開けると、中には透明な石がはめ込まれた金属板が入っている。
マルナ院長の表情が少し険しくなった。
「それは?」
「魔力判定機です。ファルク家に残っていた古いものですが、危険はありません。手を置けば、魔力回路の有無と大まかな魔力量が分かります」
「シノに使うのですか」
「はい」
エルンは真っ直ぐに答えた。
「昨日、少し気になることがありました。確認したいのです」
マルナ院長はシノを見た。
「シノ。嫌なら断っていいのですよ」
「痛くない?」
「痛くない」
エルンはすぐ答えた。
「魔力が流れれば石が光るだけだ」
「ならいいよ」
シノはあっさり頷いた。
エルンは机の上に判定機を置いた。
「ここに手を」
「うん」
シノが透明な石に手を置く。
エルンは息を詰めた。
石は光らなかった。
青にも、赤にも、白にも。
何の反応もない。
「……もう置いてるよ?」
「分かっている」
「壊れてる?」
「壊れていない」
エルンは自分の手を置いた。
透明な石が淡く青白く光る。
子どもたちが「おお」と声を上げた。
次に、シノがもう一度手を置く。
何も起きない。
完全な沈黙。
エルンは顔を強張らせた。
「魔力……ゼロ」
「ゼロ?」
シノが首を傾げる。
「測れないってこと?」
「違う。測定不能なら石が濁る。魔力の質が特殊なら色が乱れる。これは……何もない」
「じゃあ、やっぱり私、魔法使えないんだね」
シノは納得したように言った。
エルンは思わず声を荒げた。
「だからおかしいんだ!」
食堂が静かになった。
子どもたちがびくっとする。
エルンはすぐに唇を噛んだ。
「……すまない」
マルナ院長が静かに言う。
「若様」
「危険はありません。本当に、それだけは」
「それは信じます。ですが、シノはあなたの疑問を解くための道具ではありません」
エルンは言葉を失った。
その通りだった。
シノは判定機から手を離し、困ったように笑った。
「私もよく分からないけど、火がついたのはエルンの魔法だったんじゃないの?」
「僕の魔力は動いていなかった」
「でも、私はゼロなんでしょ?」
「だから分からない」
エルンは判定機を見つめた。
魔力ゼロ。
昨日の火。
今朝の歌。
全部が噛み合わない。
シノは魔法を使えないはずだ。
だが、昨日の火は確かに灯った。
エルンは判定機を木箱に戻した。
「邪魔をした」
「もう帰るの?」
「ああ」
これ以上ここにいても、何も分からない。
分からないまま、シノの歌を聞き続けるのも嫌だった。
悔しさが、喉の奥に残る。
エルンは孤児院を出た。
門をくぐる時、背後からシノの声がした。
「エルン」
振り返る。
「またね」
シノは普通に手を振っていた。
エルンはどう返していいか分からず、少しだけ頷いた。




