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村娘は魔法を使えない

「シノ!」


 最初に見えたのは、知らない天井だった。


 木の梁。


 粗い白壁。


 窓から差し込む陽の光。


 病室ではなかった。


 消毒液の匂いもしない。


 機械の音もしない。


 代わりに、土と草と、焼いたパンのような匂いがした。


「シノ! 聞こえる!?」


 知らない女の人が泣いていた。


 その人は、詩乃の手を握っている。


 父ではない。


 けれど、その手は温かかった。


「よかった……っ」


 女の人が、崩れるように泣いた。


 詩乃は口を開こうとした。


 けれど、出てきた声は、自分の知っている声より少し幼かった。


「……ここ、どこ?」


 女の人が息を呑む。


 部屋の隅で、誰かが叫んだ。


「院長先生! シノがしゃべった!」


 シノ。


 その名前が胸に落ちた瞬間、頭の奥で何かがほどけた。


 屋根。


 雨漏り。


 滑った足。


 落ちていく空。


 マルナ院長の叫び声。


 知らない少女の記憶が、詩乃の中に流れ込んでくる。


 この身体の名前は、シノ。


 ルミナリア孤児院の子。


 そして、たぶん一度、死にかけた少女。


 詩乃は、震える手で自分の喉に触れた。


 息ができる。


 胸が苦しくない。


 声が出る。


 歌える。


 でもあの美しい旋律は、もう聞こえなかった。


 けれど、最後に聞こえた声だけは、耳の奥に残っていた。


「さん、はい」


 まるで、誰かが合図を出したみたいに。


     ***


 ファルク家の屋敷は、村の北の小さな森を抜けた先にあった。


 門は、たしかに錆びていた。


 けれど、倒れてはいない。


 村長の言った通りだったので、シノは少し笑った。


 屋敷は古かった。


 昔は立派だったのだろう。


 石壁には蔦が絡み、庭の一部は草に覆われている。


 ただ、荒れ果てているわけではない。


 玄関前だけは掃き清められていたし、窓ガラスも割れていない。


 誰かが少ない手で、懸命に屋敷を保っている。


 そんな場所だった。


「こんにちはー」


 シノは門の前から声をかけた。


 返事はない。


 もう一度、少し大きな声で言う。


「村長さんから届け物です。魔導書だって」


 やはり返事はない。


 仕方なく、シノは門を押した。


 ぎぎ、と音を立てて開く。


 重い荷物を抱えて玄関まで歩き、扉の横の呼び鈴を引いた。


 古い鈴が、からん、と鳴る。


 しばらくして、屋敷の奥から物音がした。


 どたん。


 がしゃん。


 そして、少年の声。


「くそっ、また違う!」


 シノは目を瞬かせた。


 今のは、返事ではなさそうだった。


 扉は少し開いていた。


 不用心だと思ったが、荷物は重い。


「あのー、入っていいですかー?」


 返事はない。


 代わりに、屋敷の奥からまた声がした。


初級火唱ライト程度で、なぜ安定しないんだ……!」


 シノは首を傾げた。


 ライト。


 火の魔法だろうか。


 少し迷った末、シノは扉を押して中へ入った。


 屋敷の中は静かだった。


 広い玄関。


 古い絨毯。


 壁にかかった色褪せた肖像画。


 そして廊下の奥、開いた扉の向こうに、明かりが見えた。


 シノは荷物を抱え直し、そちらへ歩いた。


 部屋の中にいたのは、少年だった。


 年はシノより少し上だろう。


 栗色の髪。


 整った顔立ち。


 けれど眉間には深いしわが寄っている。


 机には魔導書が何冊も開かれ、床には譜面らしき紙が散らばっていた。


 少年は燭台の前に立ち、片手をかざしている。


 ろうそくには火がついていない。


「初級火唱、第一節」


 少年は息を吸った。


「灯れ、灯れ、小さき火――」


 声は綺麗だった。


 けれど、硬い。


 音が喉の奥でつまずいているように、シノには聞こえた。


 少年の指先に赤い光が集まる。


 しかし次の瞬間、ぱちん、と弾けて消えた。


「……くそっ!」


 少年は机を叩いた。


 シノは思わず言った。


「あの」


「うわっ!」


 少年が飛び上がった。


 散らばっていた紙がさらに舞う。


「誰だ!」


「ご、ごめんなさい。村長さんから届け物です」


「届け物?」


「魔導書って聞いたけど」


 シノが包みを掲げると、少年の表情が変わった。


「王都からの本か」


「たぶん」


 少年は慌てて近づいてきたが、途中で自分の散らかした紙を踏みかけ、よろめいた。


 シノは少し心配になった。


「大丈夫?」


「問題ない」


「今、すごく問題ありそうだったけど」


「問題ない」


 少年は真顔で繰り返した。


 頑固そうだ。


 シノはそう思った。


 荷物を机の上に置くと、少年は包みを開いた。


 中から分厚い本が現れる。


 表紙には、シノには読めない文字が刻まれていた。


「初級歌唱魔導理論、改訂第三版……ようやく届いた」


 少年の目が輝く。


 シノはそれを見て、少しだけ嬉しくなった。


 本が好きな人の顔だ。


「あなたがエルン?」


 少年は顔を上げた。


「エルン・ファルクだ」


「私はシノ。ルミナリア孤児院から来たの」


「孤児院の子か」


 その言い方に、嫌な感じはなかった。


 ただ事実を確認しただけの声だった。


 シノは部屋を見回す。


「さっきの、魔法?」


「ああ」


「火をつけるやつ?」


初級火唱ライトだ。歌唱魔法の基礎中の基礎だ」


「歌うと魔法になるの?」


 シノが尋ねると、エルンは少しだけ誇らしげに胸を張った。


「正確には、本人の魔力を歌唱によって整え、自然界のマナで増幅し、現象として発動させる」


「うん?」


「……歌うと魔法になる」


「最初からそう言ってくれた方が分かりやすい」


 エルンは少し悔しそうに黙った。


 それでも、説明は続けてくれた。


「普通の詠唱魔法も、仕組みは似ている。自分の魔力を言葉で形にして、自然界のマナを呼び込む。だが歌唱魔法は、旋律と呼吸で魔力を長く伸ばせる分、制御が難しい」


「へえ……」


「ただし、誰にでもできるわけじゃない。魔力回路がなければ、歌っても魔法にはならない」


「魔力回路?」


「魔力を通す道だ。貴族の血筋や、魔導士の家系に多い。だから、王立魔導士学園を目指す者は、まず測定を受ける」


「王立魔導士学園」


 シノはその名前を口の中で繰り返した。


 エルンは少しだけ表情を引き締めた。


「王都にある、魔導士の最高学府だ。僕はそこへ行く」


「すごいところ?」


「すごいところだ」


 即答だった。


「ファルク家を再興するには、そこへ入るしかない」


 シノには、半分くらいしか分からなかった。


 けれど、エルンが真剣なのは分かった。


 そして、さっきの歌が下手だから失敗しているわけではないことも、なんとなく分かった。


 エルンの声は綺麗だ。


 ただ、歌なのに息が苦しそうだった。


 音を正しく置こうとしすぎて、喉の奥で固まっている。


 詩乃だった頃、父がよく言っていた。


 歌は、身体を壊すためにあるんじゃない。


 息を止めたら、声は遠くへ行けない。


 でも、シノはそれを口にしなかった。


 届け物をしに来ただけの孤児院の子が、貴族の少年に歌のことを言うのは、少し変な気がしたからだ。


「じゃあ、これで届け物は終わりだね」


「ああ。助かった」


「うん。じゃあ帰るね」


「待て」


 エルンは新しい魔導書を抱えたまま、少し迷った顔をした。


「……君は、歌唱魔法を見ても怖がらないんだな」


「怖いものなの?」


「人によっては。特に、失敗しているところは、下手な歌唱だとなんかこう……気持ち悪いだろう」


 エルンは少しだけ目を逸らした。


 シノは燭台を見た。


 火のついていないろうそく。


 さっきのエルンの歌。


 硬くて、苦しそうで、それでも一生懸命だった声。


「怖くはなかったよ」


 シノはそう言った。


「でも、ちょっと苦しそうだった」


 エルンの目が細くなる。


「苦しそう?」


「うん。歌が」


「歌が?」


「うん」


 シノはそれ以上、うまく説明できなかった。


 エルンは何か言いたそうだったが、結局黙った。


「変なこと言ってごめんね」


「いや……」


 エルンは小さく首を振った。


「気にするな」


「じゃあ、帰るね」


 シノはぺこりと頭を下げて、部屋を出た。


 廊下は薄暗かった。


 古い屋敷の木の匂いがする。


 玄関へ向かいながら、シノはさっきの旋律を思い出していた。


 灯れ、灯れ、小さき火。


 短い歌。


 でも、良い歌だった。


 暗い部屋に、ひとつ火を灯す歌。


 寒い夜に、誰かの手を温める歌。


 エルンの声では少し苦しそうだったけれど、本当はもっとやわらかく歌える気がした。


 シノは、なんとなく口ずさんだ。


「灯れ、灯れ、小さき火」


 喉は軽かった。


 息は自然に流れた。


 歌は、廊下の空気に溶けていった。


 シノはそのまま玄関を出た。


 錆びた門を抜け、森へ続く道へ歩き出す。


 自分が何をしたのかなど、少しも気づかずに。


     ***


 部屋の中で、エルンは新しい魔導書を開こうとしていた。


 その時だった。


 燭台の先に、小さな火が灯った。


「……ついた?」


 エルンは息を呑んだ。


 自分の初級火唱が、遅れて発動したのだと思った。


 遅延発動。


 未熟な歌唱魔法では、ごく稀に起こると本に書いてあった。


 だが、違う。


 火が灯る直前、窓の外から、かすかな歌声が聞こえていた。


 さっきの少女の声。


 ルミナリア孤児院のシノ。


 エルンは、ゆっくりと窓の方を見た。


 森へ続く道を、小さな背中が歩いていく。


 黒い髪が、風に揺れている。


「今のは……」


 燭台の火が、静かに揺れた。


 初級火唱ライト


 基礎中の基礎。


 魔力回路を持つ者が、歌によって自分の魔力を整え、自然界のマナで増幅し、ようやく灯す小さな火。


 そのはずだった。


 エルンは、自分の指先を見た。


 魔力は、ほとんど動いていない。


 ならば、あの火は何だ。


 誰が、灯した。


 窓の外で、シノの姿が森の影に消えていく。


 エルンは魔導書を握りしめた。


 小さな火は、まるで答えを知っているかのように、静かに揺れていた。

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