口の悪いシスターとおとぎ話の聖騎士
――この王国騎士もまた、孤児だった。
ライアスがまだ、自分の姓すら持っていなかった頃。
彼が暮らしていたのは、王都から少し離れた教会の孤児院だった。
裕福な場所ではなかった。
冬には隙間風が入り、食事だって腹いっぱい食べられる日の方が少ない。
それでも、ライアスは自分が不幸だと思ったことはなかった。
そこには、自分を叱ってくれる大人がいた。
怪我をすれば手当てをしてくれる者がいた。
熱を出せば、夜中まで額の布を替えてくれる者がいた。
そして。
「ライアス! あんたまた祈りをサボったね!」
「今やろうと思ってたんだよ!」
「馬鹿お言い。三神様より先に、あたしが見てたよ!」
孤児院には、口の悪いシスターがいた。
名を、ナディアといった。
「ほら、さっさとおし!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい!」
ライアスは渋々胸へ指を当てる。
三本の線を引き。
静かに頭を下げる。
「最初からそうやりゃいいんだよ」
「ナディア、うるさい」
「シスターを呼び捨てにするんじゃないよ!」
「みんなナディアって呼んでるじゃん」
「あんたは特に態度が悪いんだよ!」
そんな声が、いつも孤児院には響いていた。
ナディアは口が悪かった。
子供相手でも容赦がない。
だが。
誰かが腹を空かせていれば、自分のパンを減らした。
誰かが熱を出せば、一晩中そばにいた。
子供たちの服が破れれば、文句を言いながら夜中まで縫っていた。
そして時々。
夜になると子供たちを集め、古い神話や童話を読み聞かせた。
「今日は何の話?」
「昨日の続き!」
「竜のやつ!」
「うるさいね! 一人ずつ喋りな!」
子供たちが笑う。
ナディアは何冊かの古い本を眺めたあと、一冊を手に取った。
「今日はこれさね」
「またそれ?」
ライアスが言う。
「悪いかい」
ナディアは鼻を鳴らした。
「あたしゃ、パラディンの話が好きだねぇ」
「またパラディンかよ」
「嫌なら寝な!」
「聞くよ」
「なら黙ってな」
パラディン。
神話や童話の中に登場する、伝説の聖騎士。
強いから偉いのではない。
三神に仕えるから立派なのでもない。
弱い者の前に立ち。
どれほど強大な敵を前にしても退かず。
最後まで人々を守る騎士。
ナディアは、その物語を何度も読んだ。
「なんでそんなに好きなの?」
ある夜、ライアスが尋ねた。
「ん?」
「パラディン」
ナディアは本から顔を上げた。
「そうさねえ」
少し考えて。
「強いくせに、自分のためには剣を使わないところかね」
「ふうん」
「本当に強い奴ってのはね、ライアス」
ナディアは本を閉じた。
「弱い奴を殴る奴じゃない」
ライアスを見る。
「弱い奴の前に立てる奴さ」
その言葉が。
なぜか、ずっと胸に残った。
十二歳になった頃。
教会を訪れた兵士が、子供たちへ訓練用の木剣を触らせてくれた。
「お前、筋がいいな」
何気なく言われた一言。
「これ、仕事になる?」
「剣がか?」
「うん」
「強くなればな」
「飯食える?」
「兵士なら食える。騎士になれば、もっと食えるぞ」
「じゃあ騎士になる」
「軽いな、お前!」
だがライアスは本気だった。
それから、暇さえあれば木剣を振った。
最初は見様見真似。
だが、上達は早かった。
「ナディア! 見てろ!」
「嫌だね。洗濯物が山ほどあるんだよ!」
「一回だけ!」
「仕方ないねえ!」
文句を言いながら、ナディアは見る。
木剣を振るライアス。
数か月前とは明らかに違う。
「どう?」
「まだまだだね」
「嘘つけ!」
「何が嘘だい!」
「今ちょっと笑ってた!」
「笑ってないよ!」
背を向けたナディアの口元は、確かに少しだけ上がっていた。
ライアスが剣を振るたび。
ナディアは悪態をついた。
「調子に乗るんじゃないよ!」
「剣が強いだけの馬鹿になったら承知しないからね!」
「人を斬れるようになる前に、人を守れるようになんな!」
そしてライアスも、いつしか。
ただ飯を食うためだけではなく。
本気で騎士になりたいと思うようになった。
「なあ、ナディア」
「なんだい」
「俺、騎士になったらさ」
「うん」
「パラディンになる」
ナディアは呆れた顔をした。
「バカだねえ」
「なんだよ」
「あれはおとぎ話だよ」
「分かってるよ」
「分かってない顔だね」
「でもなる」
「はいはい」
「はいは一回だろ」
「うるさい!」
そんなやり取りが、何年も続いた。
十六になったライアスは、王国軍の騎士選抜試験を受けることになった。
その頃には、孤児院の誰もが知っていた。
ライアスは強い。
教会へ訓練に来る兵士たちですら、時々負けるようになっていた。
だが。
試験の日が近づく頃。
ナディアが倒れた。
「風邪だって」
本人はそう言った。
「年寄りになると、ちょっとしたことで寝込むんだよ」
「まだそんな年じゃねえだろ」
「うるさいね」
だが。
ライアスにも分かっていた。
ただの風邪ではない。
日ごとに、ナディアは痩せていった。
それでも。
「試験、やめようかな」
ライアスが言った時。
ナディアは枕を投げつけた。
「馬鹿!」
「痛っ!」
「何年剣振ってきたと思ってんだい!」
「でも――」
「あたしの病気と、お前の試験に何の関係がある!」
「あるだろ!」
「ない!」
弱っているはずなのに。
声だけは昔と同じだった。
「行ってきな」
「ナディア」
「受からなかったら笑ってやるからね」
「……絶対受かる」
「その口だけは昔から立派だよ」
そして。
試験の日。
ライアスは合格した。
王国騎士候補として採用されることが決まった。
結果を聞いた瞬間。
誰より先に知らせたい顔が浮かんだ。
走った。
王都から孤児院まで。
息が切れても。
足が痛くなっても。
走った。
教会の扉を開ける。
「ナディア!」
返事はない。
寝室へ駆け込む。
ナディアはベッドに横たわっていた。
「……うるさいね」
かすかな声。
「病人の部屋に飛び込んでくるんじゃないよ」
「受かった!」
「……そうかい」
「俺、受かったんだよ!」
ライアスは笑った。
息を切らしながら。
子供のように。
「騎士になれる!」
「そうかい」
ナディアも、少し笑った。
「よかったね」
「だから!」
ライアスはベッドのそばへ膝をつく。
「俺、パラディンになるから!」
「……まだ言ってんのかい」
「言うよ」
「バカだねえ」
ナディアは弱々しく笑った。
「あれは、おとぎ話だって何度言わせるんだい」
「知ってる」
「なら――」
「それでもなる」
ナディアはしばらくライアスを見つめた。
やがて。
小さく息を吐く。
「パラディンってお前、王国騎士じゃ……でもまあ何とかなるか」
「ん?」
「お前なら」
少しだけ。
昔のような意地の悪い笑顔を浮かべる。
「なれるかもしれないね」
ライアスは何も言えなかった。
「ほら」
ナディアが枕元を指差す。
「そこに紙があるだろ」
「これ?」
「持ってきな」
何枚かの書類だった。
「なにこれ」
「読めば分かるよ」
「字いっぱいある」
「騎士になる奴がその程度で泣き言言うんじゃないよ」
「いや、そうじゃなくて」
「嫌なら捨てな」
「は?」
「あたしゃ知らん」
ナディアはそっぽを向いた。
ライアスは書類へ目を落とす。
何度か読み返す。
そして。
「……ナディア」
「なんだい」
「これ」
声が震えた。
養子縁組申請書。
そこには。
ナディア・エンフィレルの名が記されていた。
「……なんで」
「いつまでも名字なしじゃ」
ナディアは目を閉じたまま言った。
「騎士様になった時、格好つかないだろ」
「ナディア……」
「泣くんじゃないよ」
「泣いてねえよ」
「嘘つき」
「ナディアだって――」
「シスターを呼び捨てにするんじゃないよ」
「今さらかよ……」
「今さらさ」
ライアスは笑った。
泣きながら。
「じゃあ」
書類を胸に抱く。
「もらう」
「好きにしな」
「俺」
一度言葉を飲み込む。
「ライアス・エンフィレルになる」
「……そうかい」
ナディアは。
とても嬉しそうに笑った。
「悪くない名前だろ」
「まあまあ」
「この馬鹿」
それが。
二人が交わした最後の会話になった。
その夜。
シスター・ナディア・エンフィレルは静かに息を引き取った。
ライアス・エンフィレル。
それが。
騎士となった彼の名になった。
家柄はない。
血の繋がりもない。
それでも。
その姓は、誰より大切な人から受け取ったものだった。
ライアスは騎士になった。
軍規を覚え。
王国法を覚え。
礼儀作法を覚えた。
神殿法だけは、教会育ちだったせいで最初から妙に詳しかった。
剣の腕はさらに伸びた。
護衛。
盗賊討伐。
国境警備。
暴動の鎮圧。
実戦を重ねた。
泣いている子供を安全な場所へ運び。
怪我をした兵を担ぎ。
困っている者がいれば手を貸した。
そのたびに。
あの物語を思い出した。
弱い者の前に立つ騎士。
パラディン。
「……まあ、おとぎ話なんだけどな」
そう呟きながら。
剣だけは振り続けた。
そして昨年。
王国剣技大会。
決勝戦。
満員の観客が見守る中。
ライアスの剣が、対戦相手の剣を弾き飛ばした。
からん、と。
剣が地面を転がる。
一瞬の静寂。
「勝者――ライアス・エンフィレル!」
歓声が爆発した。
「うおおおお!」
「ライアス!」
「新王者だ!」
ライアスは肩で息をしながら、落ちた剣を見る。
「……勝った?」
審判が呆れた顔をした。
「勝った」
「マジで?」
「お前がやったんだろうが!」
「ああ、そっか」
観客席から笑いが起こった。
表彰台。
勲章。
王国一の剣士という栄誉。
すべてを受け取った後。
ライアスが最初に尋ねたのは。
「これ、給料上がります?」
だった。
戦士長アウダイールは、その話を聞いて額を押さえたという。
それから一年ほど後。
王宮軍務区画。
戦士長アウダイールの執務室には、四人の騎士が集められていた。
王国全兵力の現場指揮を担うアウダイールが、自ら選んだ四人。
いずれも騎士団の中でトップクラスと認められている者たちだった。
実戦経験。
武勇。
判断力。
そして。
何より、口の堅さ。
ライアスも、その中にいた。
「我々四人だけですか」
一人が尋ねた。
「ああ」
アウダイールは答える。
「秘匿性の高い任務だ」
三人の表情が引き締まる。
ライアスは椅子の背にもたれたままだった。
「護衛任務になる」
「護衛?」
「王族ですか?」
「違う」
「外国の要人?」
「それも違う」
アウダイールが四人を見る。
「少女だ」
「少女?」
三人が顔を見合わせる。
一人がすぐに何かを察した。
「……例の?」
「王都で噂になっている、歌の少女ですか」
「神獣に関係しているという?」
三人が興味を示す。
一方。
「へえ」
ライアスは薄い反応だった。
アウダイールが見る。
「興味がないか」
「奇跡とか神獣とか」
ライアスは頭を掻く。
「俺にはよく分かんないんで」
「相変わらずだな」
「剣で斬れる奴の話なら分かりやすいんすけどね」
他の三人が苦笑する。
アウダイールは構わず続けた。
「名はシノ」
ライアスはまだ動かない。
「十二歳ほどの少女だ」
「貴族の娘ですか?」
「違う」
アウダイールが首を振る。
「ルミナリア孤児院で育った孤児だ」
ライアスの目が上がった。
ほんの僅かな変化。
だが。
アウダイールは見逃さなかった。
「孤児?」
「はい」
「それがなぜ、これほどの重要案件に?」
「王も直接会っている」
三人の空気が変わる。
今度はライアスも黙って聞いていた。
「少女には、常識では説明できない力がある。学園も調査を始めている。神殿も関心を持っている」
アウダイールが続ける。
「そして当然、その力を利用しようと考える者が現れる可能性もある」
「だから護衛か」
「ああ」
一人が腕を組んだ。
「本人は、その力をどう考えているんです?」
「自分を魔導士とも召喚士とも思っていないそうだ」
「では?」
「歌うと、なぜか不思議なことが起こる。自分でも、その正体を知りたいと思っている」
騎士たちが顔を見合わせる。
「そして」
アウダイールが言った。
「その力を、何のために使うのかと問われた」
ライアスがアウダイールを見る。
「少女はこう答えたそうだ」
静かな部屋に。
その言葉が落ちた。
「困っている人のために使いたい、と」
ライアスの背中が。
椅子からゆっくり離れた。
「神獣についても、自分に従う存在とは考えていない」
「では?」
「友達だそうだ」
「神獣を?」
「ああ」
アウダイールは続けた。
「困っている人を助けるために、友達が力を貸してくれる。それだけだと」
他の三人は。
神獣という言葉に驚いていた。
奇跡という力に興味を示していた。
だが。
ライアスの耳には。
別の言葉が残っていた。
孤児。
困っている人のため。
ふと。
遠い昔の声が蘇る。
――本当に強い奴ってのはね、ライアス。
口の悪いシスター。
古い絵本。
パラディン。
――弱い奴の前に立てる奴さ。
ライアスは目を伏せた。
その少女は。
守られる側のはずなのに。
自分の力を。
誰かを守るために使いたいと言った。
「以上だ」
アウダイールが四人を見る。
「この中から一人を――」
「戦士長」
ライアスが言った。
三人が振り返る。
「なんだ」
さっきまで椅子にもたれていた男は。
もう、まっすぐ座っていた。
「俺、やります」
「お前が?」
「さっきまで興味なさそうだっただろ」
「気が変わった」
ライアスは短く答えた。
アウダイールがじっと見る。
「理由を聞こう」
「……俺も孤児だったんで」
ライアスは少しだけ笑う。
だが。
すぐに真面目な顔へ戻った。
「それに」
一度、言葉を切る。
「困ってる奴のために力を使うって言える子なら」
昔。
自分も憧れた。
弱い者の前に立つ騎士。
「守ってやりたいと思いました」
アウダイールはしばらくライアスを見つめた。
そして。
小さく頷いた。
「騎士団長には私が話を通しておく」




