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神殿の休憩室

 中央神殿の奥には、礼拝に訪れた者たちが休むための小さな部屋がいくつも設けられていた。


 そのうちの一室。


「院長先生、まだかなあ」


 長椅子に腰掛けたシノは、ぶらぶらと足を揺らしながら呟いた。


 何やら大事な話があるらしく、シノとライアスはここで待つように言われていた。


「まあ、大人の話ってのは長えからな」


 窓際に立っていたライアスが答える。


「嬢ちゃんは大人しく待ってな」


「ライアスさんも大人でしょ?」


「俺はほら、難しい話をしない大人だから」


「それ、威張って言うこと?」


「生きる知恵だよ」


 シノはくすっと笑った。


 神殿の中では、きっちりとした騎士の顔をしていたくせに、二人きりになった途端にこれである。


 シノも、少しずつライアスという人間が分かってきた。


 普段は軽い。


 けれど、いざという時は驚くほど真面目だ。


 そして――。


 神殿のことに、妙に詳しい。


 シノは先ほど見た光景を思い出した。


 三神へ祈るライアスの姿。


 胸元へ三本の線を引き、静かに頭を垂れる一連の所作には、迷いがひとつもなかった。


 マルナの祈りを何度も見てきたシノでも分かるほど、綺麗な祈りだった。


「ねえ、ライアスさん」


「ん?」


「祈るの、すっごく上手だね」


「……祈るのに上手いも下手もねえだろ」


 ほんの少しだけ、返事が遅れた。


「そうかなあ」


「そういうもんだよ」


 それ以上聞くなと言うように、ライアスは軽くシノの頭を撫でた。


「ほら。暇ならなんか読んでろ。神殿なんだから、本くらいあるだろ」


「子供扱いしてる」


「子供だろ」


「むう」


 頬を膨らませながら、シノは部屋の中を見回した。


 壁際には、小さな本棚が置かれている。


 難しそうな聖典や祈祷書ではなく、そこに並んでいるのは色鮮やかな表紙の薄い本ばかりだった。


「あ、絵本」


 シノは椅子から降りると、本棚へ向かった。


 何冊か眺め、その中から一冊を取り出す。


 ずいぶん古い本だった。


 角は丸く擦れ、表紙も少し色褪せている。


 それでも、破れた箇所は丁寧に補修されていた。


 長い間、大切に読み継がれてきたことが分かる。


 表紙には、大きな木と、その周りに集まる何匹もの不思議な動物たちが描かれていた。


「これ、かわいい」


「お。それまだあんのか」


 ライアスが覗き込む。


「知ってるの?」


「知ってるよ。俺もガキの頃に読んでもらった」


「へえー」


「なんだその顔」


「ライアスさんにも、絵本を読んでもらってた頃があったんだなあって」


「俺をなんだと思ってんだ」


 そのとき。


「懐かしい本を選ばれましたね」


 穏やかな男の声がした。


 二人が振り返る。


 扉のそばに、一人の神官が立っていた。


 四十代ほどだろうか。


 細身で、落ち着いた顔立ちの男だった。


 シノには見覚えがない。


 男は二人へ軽く頭を下げた。


「失礼いたしました。神殿記録院副監のオルド・シグリアと申します」


「シノです」


 シノもぺこりと頭を下げる。


「こっちは護衛のライアスさん」


「王国騎士のライアスです」


 神殿の人間を前にした途端、ライアスの口調が一瞬で騎士のものに戻った。


 シノは横で少しだけ笑いそうになる。


 オルドの視線が、シノの持つ絵本へ落ちた。


「その本は、この神殿でも随分長く使われているものですよ」


「そんなに古いんですか?」


「ええ。私が幼い頃には、すでにありました」


「俺の頃にもあったな」


 ライアスも頷く。


「神殿とか教会に行きゃ、大体置いてあるぞ」


「どこの教会にも?」


 シノが目を丸くする。


「王国内の神殿や教会には、ほぼ同じものが置かれているはずです」


 オルドが答えた。


「へえ……」


「ただ、不思議なことに」


 オルドは絵本を眺めながら続ける。


「いつ、何のために各地へ配布されるようになったのか。その理由を示す記録は、今ではほとんど残っておりません」


「記録院なのに?」


「まったく、お恥ずかしい限りです」


 オルドは苦笑する。


「ただ、子供向けの読み物として非常によくできています。理由が分からなくなったあとも、昔からの慣習として残ったのでしょう」


「ふうん」


 シノは本を開いた。


 最初の頁には、小さな村が描かれている。


 村の外には森。


 その向こうには山。


 そして空には、大きな鳥が飛んでいた。


「鳥さん」


 頁をめくる。


 今度は、畑の中に白い狐のような動物がいる。


「あれ?」


 シノの指が止まった。


「どうした?」


「この子……」


 何本もの尾。


 豊かな穂を背負った、小さな狐。


「コンちゃんみたい」


 ライアスも絵を覗き込む。


「コンちゃんってなんだよ。ん、言われてみりゃ、神殿の絵に描かれてる神獣様には似てるな」


「ライアスさん、神獣見たことある?」


「あるわけねえだろ」


 即答だった。


「神獣様なんて、生きてるうちに一度見られりゃ奇跡だよ」


「そっか」


「嬢ちゃんの周りじゃ、その辺の感覚おかしくなってそうだけどな」


「?」


「なんでもねえ」


 ライアスは肩をすくめる。


 さらに頁をめくる。


 炎をまとった鳥。


 大きな獣。


 夢の中を歩くような、不思議な生き物。


「やっぱり、みんな神獣っぽい」


「そう見えますね」


 オルドが静かに頷いた。


「もしかすると、神獣様方を模して描かれた物語なのかもしれません。三神教の絵本ですから、それ自体は不思議ではありません」


 物語は単純だった。


 困っている村を、不思議な動物たちがひとつずつ助けていく。


 水がなくなれば水を運び。


 作物が育たなければ畑を豊かにし。


 暗い夜には火を灯し。


 怖い夢を見た子供のそばでは、朝まで寄り添う。


「みんないい子だね」


「子供向けの絵本だからな」


「神獣様って、ほんとにこんな感じなのかな」


「さあな。俺は見たことねえし」


 ライアスが笑う。


「でも神殿が残してる話なら、なんか元になったものくらいはあるんじゃねえの」


 そして、最後の頁へたどり着いた。


「……あれ?」


 シノが首を傾げる。


 最後だけ、絵がない。


 代わりに、短い言葉が何行も並んでいた。


 一定の長さで区切られ、同じ言葉が繰り返されている。


「これ、歌?」


「ああ」


 ライアスが懐かしそうに頷く。


「最後にそいつを歌って終わり」


「でも、音が書いてないよ?」


「音?」


「楽譜がない」


 ライアスが、きょとんとした顔でシノを見る。


「……嬢ちゃん」


「なに?」


「これ知らねえの?」


「うん」


「マジで?」


「うん」


 ライアスはしばらくシノの顔を見つめた。


「お前、どっか別の国から来たのか?」


「え?」


「だってこれ、マニールじゃ滅茶苦茶有名だぞ」


 ライアスは絵本の最後の頁を指差す。


「貴族様が晩餐会で歌うような難しい歌なんか知らなくたって、こいつはガキでも知ってる。俺だって歌える」


「そんなに有名なの?」


「そんなに」


 ライアスはオルドを見る。


「ですよね?」


「ええ」


 オルドも頷いた。


「地域によって細かな歌い方に違いはありますが、王国内で育った方なら、一度くらいは耳にしていると思います」


「私、知らない……」


「変だなあ」


 ライアスが首を傾げる。


「まあ、孤児院にも色々事情はあるか」


 そう言って、絵本を覗き込んだ。


「ほら。こんな歌だよ」


 軽く咳払いをする。


 そして、一節を歌い始めた。


 飾り気のない、簡単な旋律だった。


 子供でもすぐに覚えられそうな歌。


 明るく、どこか懐かしい響き。


 シノは静かに耳を傾ける。


 知らない。


 月森詩乃が知っていた世界の歌ではない。


 父から教えてもらった歌でもない。


 当然、歌った記憶など――。


「……あれ?」


 胸の奥が、かすかに疼いた。


 次の音が分かる。


 ライアスが歌っている、その先。


 何も知らないはずなのに。


 知っている。


「ほら、次」


 ライアスが笑う。


「ここから一緒に歌うんだよ」


「でも、私……」


 知らない。


 そう言おうとした。


 そのはずだった。


 けれど。


 ライアスが次の一節へ入った瞬間。


 シノの口が、自然に動いた。


 声が重なる。


「……!」


 自分でも驚きながら、それでも旋律は止まらない。


 ひとつ。


 またひとつ。


 音が繋がっていく。


 そして最後の一節まで。


 シノは、一度も迷うことなく歌い切った。


 歌が終わった。


 静寂が落ちる。


「なんだ」


 ライアスが笑う。


「知ってんじゃん」


「……違う」


「ん?」


 シノは、自分の口元へ手を当てた。


「知らないの」


「は?」


「この歌、知らない」


 ライアスが眉を寄せる。


「いや、今歌ったろ」


「なのに……歌えたの」


 自分でも分からない。


 知らないはずなのに、知っていた。


 月森詩乃ではない誰かが。


 ずっと昔から、この旋律を覚えていたような――。


 ほんの一瞬。


 頭の奥に、小さな子供の声が響いた気がした。


 誰かと一緒に歌っている。


 知らない場所。


 知らない景色。


 それなのに。


 ひどく懐かしい。


「……シノ殿?」


 オルドの声で、シノは我に返った。


「あ……」


 慌てて絵本を閉じる。


 ぱたん。


 その瞬間。


 ――ふわり。


 部屋の空気が揺れた。


「ん?」


 ライアスが顔を上げる。


 窓は閉じている。


 それなのに、どこからか流れ込んでくるように、微かなマナが室内を通り抜けた。


 机の上に置かれていた紙が、小さく震える。


 ほんの一瞬。


 それだけだった。


「今の……」


 シノが周囲を見回した、そのとき。


 扉が開いた。


「シノ」


「院長先生!」


 マルナだった。


「お待たせしました。帰りましょうか」


「うん!」


 シノは絵本を本棚へ戻す。


「オルドさん、ありがとうございました」


「いえ。こちらこそ」


 オルドは穏やかな笑みを浮かべた。


「また神殿へいらした際には、どうぞごゆっくり」


「はい!」


「ほら、嬢ちゃん。行くぞ」


「はーい」


 シノとライアスが部屋を出る。


 マルナもオルドへ一礼した。


「お世話になりました」


「お気をつけて」


 扉が閉じた。


 三人の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 オルドは笑顔のまま、それを見送っていた。


 やがて。


 その表情から、すっと笑みが消えた。


 ゆっくりと本棚へ近づく。


 シノが戻した絵本を取り出した。


 最後の頁を開く。


 そこに並ぶ、昔から読み継がれてきた童謡の歌詞。


 先ほどの歌声。


 そして――。


 あのマナ。


「……まさか」


 オルドは絵本を閉じた。


 次の瞬間、踵を返す。


 神官服の裾を翻し、足早に廊下を進んでいく。


 向かったのは、シノたちが帰っていった方向ではない。


 中央神殿の、さらに奥。


 普段、一般の神官たちがほとんど立ち入ることのない区画へ。


 その歩みは、次第に駆け足へと変わっていった。


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