聖人マルナ・アルシア
「こちらも、また会ったな。マルナ院長」
「……陛下?」
マルナの足が止まった。
そこにいたのは、国王――アイザック・キア・マニールだった。
ライラメス司祭の執務室。
中央の卓上には、何枚かの書類が広げられている。
アイザック王は、そのうち一枚へ指先を置いた。
「驚かせたか」
「……少々」
「すまんな。だが、確認しておきたいことがあってな」
マルナは胸元へ三本の指を添え、深く頭を下げる。
「陛下が自ら神殿までお越しになるほどのことでしょうか」
「私も、最初はそう思った」
アイザック王が苦笑する。
「レスト侯から届いた報告書を読むまではな」
「レスト侯爵様の?」
「ああ」
アイザック王は書類を持ち上げた。
「ここにある」
そして、一節を読む。
「――ルミナリア孤児院院長マルナ・アルシア。神獣マリアベル様より、加護を授かる」
マルナが小さく息を呑んだ。
「……そのことですか」
「そのこと、で済ませるのか」
「私自身、いまだ実感がございませんので」
ライラメスが静かに口を開く。
「マルナ院長。神殿としては、到底その程度では済ませられません」
「ライラメス司祭?」
「過去百年」
その声音は重かった。
「明確に神獣様より加護を授かった神官は、一人もおりません」
「……一人も?」
「はい」
マルナの表情が変わる。
ライラメスは続けた。
「さらに古い記録まで遡りますと、加護を授かったと確認できる者はおります」
「ほう」
アイザック王が身を乗り出した。
「どのような者だ?」
「いずれも、後世に聖人と呼ばれた者たちでございます」
室内が静かになった。
「聖人……」
マルナが小さく呟く。
「過去の聖人は、その加護を何に使った?」
アイザック王が尋ねる。
「記録に残るものでは、疫病の鎮静。干ばつに苦しむ土地の回復。大飢饉における救護などがございます」
「ふむ」
アイザック王は顎に手を添えた。
「どれも歴史的偉業だな」
「はい」
「私も知っている。いや、国の歴史を学んだ者なら誰でも知っている話だ」
ライラメスが頷く。
「いずれも王国史、神殿史の双方に記録されております」
マルナの表情が少し強張った。
「陛下」
「なんだ?」
「私は、そのような者ではございません」
アイザック王が目を細める。
「まだ何も言っておらん」
「ですが……」
「私は過去の例を確認しているだけだ」
アイザック王は淡々と答えた。
「加護を受けたからといって、その瞬間から聖人になるわけでもあるまい」
「もちろんにございます」
ライラメスが答える。
「後世に何を為したか。その功績によって聖人と認められた者たちです」
「ならば話は単純だ」
アイザック王はマルナを見る。
「其方は其方のままでいればよい」
「……」
「ただし、神獣様より加護を賜ったという事実は、軽く扱うべきではない」
「それは承知しております」
「その加護とは、どのようなものなのだ?」
マルナは少し考えた。
「私の加護は……小さなものです」
「小さい?」
「はい」
それでも、マルナの表情は柔らかかった。
「ですが、とてもありがたいものです」
「具体的には?」
「体調を崩した者の回復を、わずかに助けてくださるようです。特に子供たちには」
「子供に?」
「熱を出した時。疲れが取れない時。食事をうまく取れない時など……」
マルナは胸元へ手を添えた。
「大きな奇跡ではありません。ですが、孤児院では本当にありがたい加護なのです」
「なるほど」
アイザック王が頷く。
「派手ではないが、毎日役に立つ力か」
「はい」
その時だった。
「まあ、授けたワタクシも鼻が高いザマス」
「――!」
室内の空気が変わった。
淡い光が、何もない空間へ集まっていく。
「まさか……」
ライラメスが椅子を引くように立ち上がった。
光の中から、ゆっくりと一つの姿が浮かび上がる。
神獣――マリアベル。
だが、その姿はいつもと違っていた。
輪郭は淡く、向こう側の壁が透けて見えるほどに色が薄い。
「……薄い?」
アイザック王が思わず呟いた。
輪郭は確かに見える。
しかし、いつもの顕現よりも明らかに色が薄い。
向こう側の壁が、うっすら透けて見えるほどだった。
「仕方ないザマス!」
マリアベルが尻尾を揺らす。
「シノちゃんが遠いザマスから!」
「マリアベル様……!」
ライラメスの声が震えた。
次の瞬間には、三本の指を胸へ引き、その場へ膝をついている。
「この目で御姿を拝することが叶うとは……!」
完全に感極まっていた。
アイザック王もすぐに立ち上がる。
三本の指を胸へ。
そして、王であることなど関係なく膝をついた。
「マリアベル様。御前を拝し、光栄にございます」
「まあまあ、堅いザマスねえ」
マリアベルは満更でもなさそうだった。
「しかし、見事な差配だったザマスよ」
「……私ですか?」
「そうザマス」
マリアベルはアイザック王を見る。
そして。
「アーク」
アイザックの肩が、わずかに揺れた。
「……」
マルナもライラメスも、その変化に気づいた。
「お前は坊やの頃から、優しくて強い子だったザマス」
「……その名を」
アイザックの声が少し掠れた。
「私の幼少期をご存じなのですか?」
「もちろんザマス」
マリアベルの声は、いつもの気取った調子のまま。
だが、不思議と柔らかかった。
「ソフィリシアが、そう呼んでいたザマスね」
「母上を……」
アイザックは顔を上げられなかった。
一筋。
頬を伝って、涙が落ちた。
「アーク」
マリアベルが静かに告げる。
「シノを守りなさい」
「……はい」
返事が、わずかに震える。
「王だからではないザマス」
「……」
「あの子を守りたいと思った、お前自身の心を忘れないことザマス」
「はい」
マリアベルは次に、マルナへ視線を向けた。
「マルナ」
「はい」
「引き継ぎザマスよ」
「……引き継ぎ?」
「シノちゃんを頼むザマス」
マルナの表情が変わった。
「もちろんです」
「知ってるザマス」
マリアベルは満足そうに頷く。
「だからこそ、ワタクシはあなたに加護を授けたザマス」
最後に、ライラメスを見る。
「ライラメス」
「はっ!」
ライラメスは深く頭を下げる。
「いまこの時、奇跡と縁を持った人間がいることを、三神に感謝するザマス」
「はい……!」
「奇跡を恐れて遠ざけるために、神殿と教会があるのではないザマス」
マリアベルの姿が、さらに薄くなる。
「奇跡と人を、正しく結ぶためにあるザマス」
「……」
「そのための神殿と教会ザマス」
ライラメスの目から、涙がこぼれた。
「しかと……胸に刻みます」
「頼んだザマスよ」
マリアベルは小さく笑った。
「そろそろ限界ザマス。シノちゃん、遠すぎザマス」
最後までいつもの調子だった。
淡い光がほどけていく。
やがて。
マリアベルの姿は完全に消えた。
しばらく。
誰も声を出さなかった。
「……これは」
最初に口を開いたのはライラメスだった。
「神託ですね」
アイザックが目元を拭いながら頷く。
「そうだな」
「ええ」
ライラメスは深く息を吐いた。
「明確な神託にございます」
アイザックは立ち上がる。
そしてマルナへ向き直った。
「そういうわけだ、マルナ」
「はい」
「其方さえ良ければ――名誉司祭の位を受けてもらいたい」
「……私が?」
「神殿へ常勤せよという話ではない」
アイザックはすぐに続ける。
「孤児院長はそのままだ。むしろ辞めてもらっては困る」
「……」
「シノの帰る場所を守っているのは其方だ」
マルナは黙って聞いていた。
「ただ、今後シノが神殿と関わる機会は間違いなく増える」
「はい」
「その時、其方がただの付き添いでは困る」
ライラメスも頷く。
「名誉司祭の位をお持ちであれば、中央神殿においても正式な発言権を持つことになります」
「発言権……」
「はい」
「シノについても?」
「もちろんです」
マルナの目が鋭くなる。
「もし神殿が、シノを王都へ置くべきだと判断した場合でも?」
「意見を述べられます」
「何かを研究のためにさせたいと言われた場合も?」
「止めることができます」
マルナは、少しだけ俯いた。
その時。
「陛下」
ライラメスが口を開く。
「神殿としては、さらに申し上げたいことがございます」
「なんだ?」
「マルナ殿を――聖人として認定する手続きを開始したく存じます」
「……」
マルナが顔を上げた。
「やめてください」
即答だった。
「マルナ殿?」
「本当に、やめてください」
「しかし」
「私には孤児院があります」
マルナの声は静かだった。
「子供たちにとって、私は院長です」
「……」
「朝になれば起こし、食事をさせ、喧嘩を止めて、病気になれば看病する」
少しだけ笑う。
「それが私の仕事です」
「聖人に認定されたからといって、直ちに孤児院を――」
「そういう問題ではないのです」
マルナは首を振る。
「歴史書に載るような者になるつもりはありません」
アイザックが、わずかに笑った。
「マリアベル様が其方を選んだ理由が、少し分かった気がする」
「陛下?」
「大きな奇跡より、目の前の子供を選ぶか」
「……はい」
「ならば聖人認定は、ひとまず保留だ」
「陛下」
ライラメスは少し残念そうだった。
「本人がここまで嫌がっているのだ。無理に押しつけても仕方あるまい」
「……承知いたしました」
アイザックは改めてマルナを見る。
「名誉司祭ならどうだ?」
「……」
マルナはまだ迷っていた。
「その位を持てば、本当にシノを守れるのですね」
「ああ」
「神殿の中でも、私の言葉が届く」
「届く」
「シノが望まぬことを強いられそうになった時、止めることも」
「できる」
マルナは目を閉じた。
ほんの少しだけ。
考える。
そして、顔を上げた。
「……でしたら」
「うむ」
「お受けいたします」
迷いはなかった。
「それでシノを守れるのであれば」
その時だった。
――チリン。
澄んだ鈴の音が、部屋の中へ響いた。
「……」
三人が同時に、先ほどマリアベルが立っていた場所を見る。
そこにはもう、何もない。
けれど。
ほんの一瞬だけ。
淡い光が揺れたように見えた。
「……マリアベル様」
ライラメスが小さく呟く。
アイザックも静かに笑った。
「どうやら」
マルナを見る。
「御本人からも了承をいただいたらしいな」
マルナは胸元へ三本の指を添えた。
そして、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
もう一度。
鈴が鳴ることはなかった。




