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牢屋にぶち込む権限

「おい!」


 低い声が飛んだ。


 シノが振り返る。


 そこにいたのは――。


 もう、笑っていないライアスだった。


 男も振り返る。


「あぁ? なんだテメェ」


 ライアスは何も答えず、その男の肩へ手を置いた。


「触んなよ!」


 男が肩を振る。


 だが。


「……?」


 動かない。


 もう一度、今度は身体ごと振りほどこうとする。


 それでも、ライアスの手はびくともしなかった。


「おい、離せって!」


 男が苛立った声を上げる。


 ライアスは顔を近づけた。


 そして。


「……殺すぞ、テメェ」


 聞こえるか聞こえないか。


 そんな小さな声で呟いた。


「天誅くれてやる」


「……は?」


 男の顔が引きつる。


 次の瞬間。


 ライアスは、いつもの軽い調子へ戻っていた。


「いやー、災難でしたねえ」


「……何がだよ」


「さっきの話ですよ」


 にこにこと笑っている。


「偽善者でしたっけ? その方にぶつかられて」


「……ああ」


「そちらに正当性があるっていうなら、騎士の詰め所へ行けばいいですよ」


「詰め所?」


「ええ」


 ライアスは親切そうに頷いた。


「事情を話して、うまく認められりゃ賠償金くらい取れるかもしれませんよ」


「……ほう」


 男の表情が変わった。


「悪くねえな」


「でしょ?」


「じゃあ行ってやっても――」


「ただ」


 ライアスの手に、少しだけ力が入った。


「いっ!」


 男の顔が歪む。


「おい! 離せよ!」


「ああ、そうでした」


 ライアスは気にした様子もない。


「もう一個、確認したいことがあって」


「なんだよ!」


「あなたが今ぶつかったこの方」


 ライアスがマルナを見る。


「神殿に縁のある孤児院の院長さんなんですよ」


「だからなんだよ」


「神殿法をご存じない?」


 ライアスは笑ったまま首を傾げた。


「孤児院の院長ともなれば、ハイシスターの位を持つ神殿関係者です」


 そこで声が少しだけ低くなる。


「んで、俺の聞き間違いじゃなきゃさ――」


「あなた今、この方に『偽善者』って言いましたよね?」


「だから何だ!?」


「そうですか」


 ライアスが頷く。


「あと、さっき腕も掴みましたよね?」


「は?」


「マルナさん」


「はい?」


「失礼しますね」


 ライアスは男を掴んだまま、マルナの腕へ目を向けた。


 袖口から覗いた肌に、薄く赤い跡が残っている。


「ほら」


 シノも気づいた。


「院長先生、赤くなってる!」


「これくらい大丈夫ですよ」


「駄目ですって」


 ライアスが軽く首を振る。


 そして男を見る。


「跡になってるじゃないですか」


「だから何だよ!」


「いけないなー」


「何がいけねえんだよ!」


 その瞬間。


 ライアスの声から、軽さが消えた。


「神殿関係者への侮辱」


「……は?」


「並びに暴行」


 声は静かだった。


「詰め所に行くのは、お前だよ」


「何言ってんだテメェ!」


 男が吠える。


「何の権限があんだよ!」


「ああ」


 ライアスは空いている手を胸元へ入れた。


「それ聞きたかった?」


 取り出したのは、一枚の金属章だった。


 王国騎士であることを示す紋章。


 陽の光を受けて、鈍く輝く。


 男の顔から、血の気が引いた。


「王国騎士ライアス・エンフィレル」


 ライアスは騎士章を軽く掲げる。


「お前を牢屋にぶち込む権限だよ」


「…………」


 男の口が開いたまま止まった。


「さて」


 ライアスがにっこり笑う。


「詰め所、行きます?」


「ま、待ってくれ!」


「はい?」


「牢屋は勘弁してくれ!」


「でも暴行してますし」


「悪かった!」


「侮辱も」


「それも謝る!」


「へえ」


 ライアスは少し考えた。


「じゃあ」


「じゃあ?」


「教会で懺悔しましょうか」


「……は?」


「ちょうど近くにありますし」


「いや、ちょっと待――」


「行きますよー」


 ライアスは男の肩を掴んだまま歩き出した。


「おい! 離せって!」


「逃げると困るんで」


「ライアスさん……」


 マルナが困ったように声をかける。


「牢へ入れるほどではないと思いますが」


「ですよね」


 ライアスは振り返った。


「だから教会で」


「そういう意味では……」


「院長先生」


 シノが小声で言う。


「ライアスさん、怒ってる?」


「……かなり」


 マルナは小さく息を吐いた。


     ◇


 ほどなくして。


 一行は通り沿いの小さな教会へ入っていた。


 三神像の前。


 先ほどの男は、なぜか椅子へ座らされている。


 その正面にはマルナ。


「よろしいですか」


「……はい」


 男の勢いはすっかり消えていた。


「人と肩がぶつかることなど、誰にでもあります」


「はい……」


「その時、まず相手を責めるのではなく、お互いに『大丈夫でしたか』と言える心を持ってください」


「……はい」


「謝られたのであれば、許すことも大切です」


 マルナの声は穏やかだった。


「許すということは、負けることではありません」


「はい」


「怒りに任せるより、相手を思いやることを選ぶ。それは、とても強いことなのですよ」


「……分かりました」


「本当に?」


「はい……」


 すっかり小さくなっている。


 シノはその様子を見ながら、ふと横を向いた。


「……あれ?」


 少し離れた三神像の前。


 ライアスが膝をついていた。


 三本の指を揃える。


 胸元へ、ゆっくりと三本の線を引く。


 そのまま頭を下げる。


 静かだった。


 背筋はまっすぐ。


 指先の動きにも迷いがない。


 先ほどまで通りで「牢屋にぶち込む」と言っていた男とは、とても同じ人物に見えなかった。


 祈りを捧げるその姿は――。


 妙に、決まっていた。


「……ライアスさん」


「ん?」


 祈りを終えたライアスが顔を上げる。


「お祈り、すごく上手」


「そう?」


「うん」


 シノも胸元へ三本の指を当てる。


「私、いま極め中なんだけど」


「極め中?」


「アイク先生に教えてもらったの」


「ああ、陛下か」


「ライアスさんの方が慣れてる感じする」


「まあ、昔からやってっからな」


「昔から?」


「おう」


 シノが首を傾げた。


「三神教に詳しいの?」


「いやー」


 ライアスは立ち上がりながら笑う。


「難しい話は全然分かんねえ」


「でも祈りはできる」


「身体が覚えてんだよ」


「なんで?」


「昔、散々やらされたから」


「誰に?」


「昔の人」


「それ誰?」


「昔の人は昔の人だよ」


「ごまかした」


「ははっ」


 ちょうどその時。


「シノ」


 マルナが呼んだ。


「終わりましたよ」


 男も立ち上がる。


「……本当にすみませんでした」


 今度はマルナへ深く頭を下げた。


「もう十分ですよ」


 マルナは微笑んだ。


「今度、誰かとぶつかった時は」


「……大丈夫ですかって言います」


「ええ」


「あと……偽善者とか、もう言いません」


「それがよいですね」


 ライアスが横から口を挟む。


「次言ったら牢屋な」


「言わねえよ!」


「ならよし」


「ライアスさん」


「はい」


「脅さない」


「はい」


 今度はライアスがマルナに叱られた。


     ◇


 中央神殿へ到着した頃には、昼近くになっていた。


「やっぱでけえなあ」


 正面階段を見上げながら、ライアスが言う。


「ライアスさん、ここ来たことあるの?」


「あるよ」


「やっぱり?」


「なんで?」


「お祈り上手だったから」


「それ関係ある?」


 三人は神官に迎えられ、神殿の中へ入った。


「マルナ院長」


「はい」


「ライラメス司祭がお待ちです」


「分かりました」


 マルナがシノを見る。


「私は少しお話をしてきます」


「私も行く?」


「今日は大人同士のお話です」


「そっか」


「大人しく待っていられますね?」


「うん」


 マルナの視線がライアスへ移る。


「ライアスさん。シノをお願いします」


「お任せください」


 一瞬だけ。


 先ほどまでの砕けた口調が消えた。


 王国騎士として、きちんと頭を下げる。


「必ずお守りいたします」


「よろしくお願いします」


 マルナは神官とともに奥の回廊へ向かった。


 その姿を見送る。


「さて」


 ライアスが元の調子へ戻った。


「俺らは休憩所でも行くか」


「休憩所あるの?」


「あるある。こっち」


 迷いなく歩き出す。


「ライアスさん」


「ん?」


「案内の人いらないの?」


「休憩所くらい分かるって」


 角を曲がる。


「この先が中庭で、右に行けば参拝者用の休憩所」


「……」


「左は神官の宿舎だから、そっちは行くなよ」


「……」


「ん?」


 シノがじっとライアスを見る。


「なに?」


「詳しい」


「そう?」


「絶対、何回か来たことあるって感じじゃない」


「神殿なんて大体似たような造りだよ」


「ほんと?」


「ほんとほんと」


 そう言いながら、さらに次の角を迷わず曲がる。


「あと、この扉は神官用だから入っちゃダメな」


「やっぱり詳しい!」


「ははっ」


「ライアスさん、昔神殿にいたの?」


「いねえよ」


「じゃあなんで?」


「まあ、昔ちょっとなー」


「また昔!」


「細かいこと気にすんなって」


「気になるよ!」


 二人の声が、回廊の向こうへ遠ざかっていった。


     ◇


 その頃。


 マルナは神官に案内され、ライラメス司祭の部屋の前へ到着していた。


「こちらです」


「ありがとうございます」


 神官が扉を開く。


「失礼いたします」


 マルナが室内へ入った。


 机の向こうには、ライラメス司祭がいる。


 だが。


「……え?」


 その向かいに、もう一人。


 見覚えのある初老の男が座っていた。


 男はマルナを見ると、どこか楽しそうに笑った。


「こちらも、また会ったな。マルナ院長」


「……陛下?」


 マルナの足が止まった。


 そこにいたのは。


 国王――アイザック・キア・マニールだった。


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