ミーシアの紅茶
王宮から戻ってからというもの、グランツは落ち着かなかった。
執務机に向かってはいる。
書類も広げている。
だが、先ほどから一枚たりとも頁は進んでいなかった。
脳裏に浮かぶのは、今日の謁見だった。
「……シノ・ルミナリア」
グランツは、その名を小さく呟いた。
まずい。
想定していたよりも、はるかにまずい状況になった。
あの少女が王都へやって来た時点では、まだよかった。
地方の孤児院で育った、家名すら持たぬ少女。
確かに神獣と呼ばれる存在を召喚し、常識では説明できぬ歌唱魔導を操る。
だが、どこにも属してはいなかった。
だからこそ、誰もが欲しがった。
学園は、その力を研究したい。
神殿は、神獣との関係を明らかにしたい。
軍部でさえ、その力を無視することはできない。
そして当然、王宮も。
互いに牽制し合っているうちはよかった。
だが今日、その均衡が一気に崩れた。
「レストめ……」
シノの後見人には、レスト侯がついた。
王都でも有数の名門貴族。
そして、王への忠誠も厚い。
それだけではない。
アイザック自身が《導縁》を結んでいた。
神殿法上、あの少女の身元を保証できる立場を、国王本人が持っている。
しかも――。
「家名まで与えるとはな」
ルミナリア。
少女が育った孤児院の名。
血筋を与えるのではなく、帰る場所をそのまま家名とした。
あの場にいた者で、その意味を理解できなかった者はいないだろう。
国王自らが、名のない孤児へ名を与えた。
それだけで十分すぎるほどの意味を持つ。
そして、あの少女自身も。
『アイク先生!』
思い出すだけで、グランツの眉間に皺が寄った。
国王を恐れていない。
媚びてもいない。
ただ純粋に、先生として慕っている。
そしてアイザックもまた、それを受け入れていた。
「……これでは」
グランツは椅子の背へ身体を預けた。
「王宮派ではないか」
本人に、そのつもりなどないのだろう。
むしろ、ないからこそ厄介だった。
レスト侯が後見人。
国王自身が身元引受人。
王より家名を授かり、国から護衛までつけられる。
これでシノ・ルミナリアを王宮と無関係の存在だと言ったところで、誰が信じる。
グランツは指を組み、額へ当てた。
「……まずいな」
こちらの手札は多くない。
いや。
もはや――。
「……あの男しかおらんか」
その時だった。
控えめな音を立てて、執務室の扉が開いた。
「あなた」
グランツが顔を上げる。
「ニーナ」
妻が小さな盆を手に立っていた。
ティーポットと、二つのカップが載っている。
「何をしている」
「お茶を持ってきたのだけれど」
「そんなことはメイドにやらせなさい」
「あら」
ニーナは気にした様子もなく部屋へ入ってくる。
「妻が夫にお茶を淹れてはいけないの?」
「そういう意味ではない。君がわざわざすることでは――」
「今日は、これにしたかったの」
ニーナはポットから静かに茶を注いだ。
ふわりと甘い香りが広がる。
グランツの言葉が止まった。
知っている。
忘れるはずがない。
「……それは」
「ええ」
ニーナはカップをグランツの前へ置いた。
「ミーシアが好きだった品種よ」
「……」
グランツは、カップを見つめた。
淡い琥珀色の水面が揺れている。
ほんの一瞬。
遠い記憶が蘇った。
『おじさま、それ飲むの?』
『これは大人の飲み物だ』
『わたしも飲めるもん』
『苦いぞ』
『お砂糖いっぱい入れるから大丈夫!』
幼い声。
笑顔。
屋敷の廊下を走る、小さな足音。
あの混乱の日を境に、二度と聞くことのできなくなった声。
「……ミーシア」
グランツが呟いた。
ニーナは何も言わなかった。
向かいの椅子へ腰掛け、自分のカップへ口をつける。
「あなた」
「なんだ」
「最近、あまり眠っていないでしょう」
「そんなことはない」
「昔から、嘘が下手ね」
「……」
グランツもカップを手に取った。
一口。
記憶の中と同じ香りがした。
「ニーナ」
「なに?」
グランツは、しばらく答えなかった。
「……いや」
何かを言いかけて、やめる。
ニーナも尋ねなかった。
それが長年連れ添った二人の距離だった。
「仕事がある」
「そう」
ニーナは立ち上がった。
「根を詰めすぎないで」
「ああ」
扉へ向かいかけて。
ニーナは一度だけ振り返った。
「ミーシアも、あなたが身体を壊すほど働くことなんて望まないわ」
「……分かっている」
「ならいいの」
扉が閉じる。
再び、執務室に静寂が戻った。
グランツは一人、カップを見つめた。
分かっている。
分かっているとも。
だが――。
「……だからこそだ」
あの日。
自分には、足りなかった。
守る力が。
動かせる人間が。
そして、決断するための時間が。
結果として、手遅れになった。
グランツは目を閉じる。
もう二度と。
同じことを繰り返すつもりはない。
シノ・ルミナリア。
あの少女の力は大きすぎる。
誰がその力を握るかで、この国の未来すら変わる。
そして今。
その少女は、あまりにも王宮へ近づきすぎた。
「……もう、なりふり構ってはいられんな」
グランツは目を開いた。
先ほどまでの迷いは消えていた。
こちらに残された手札は、一枚。
――あの男。
本来なら、まだ早い。
もう少し時間をかけるつもりだった。
だが、状況が変わった。
「手を進めねばなるまい」
グランツは新しい紙を一枚取り出した。
しばらく考えた後、静かに筆を走らせる。
書き終えると、紙を折り畳んだ。
蝋燭から落とした黒い封蝋が、ゆっくりと封を覆っていく。
グランツは机の引き出しを開けた。
取り出したのは、グランツ家の印璽ではない。
小さな、見慣れぬ印だった。
封蝋へ押し当てる。
浮かび上がったのは――王冠を囲む、三本の茨。
「……頼むぞ」
誰に向けた言葉なのか。
グランツは、それ以上何も言わなかった。
その傍らで。
ミーシアの愛した茶から、まだ微かに湯気が立ち上っていた。




