王国騎士ライアス・エンフィレル
王宮を出た馬車が、ゆっくりと王都の大通りを進んでいた。
窓の外には、いつもと変わらない王都の街並みが流れている。
行き交う人々。
立ち並ぶ商店。
遠くから聞こえてくる呼び込みの声。
けれど、馬車の中だけは妙に静かだった。
「……」
「……」
「……院長先生」
「はい」
「まだ泣いてる?」
「泣いていません」
マルナは即答した。
だが、その目元は赤い。
「でも、さっきからずっと目こすってるよ」
「少し疲れただけです」
「王宮を出てからずっと?」
「……王宮は緊張するところなのです」
「そうなんだ」
シノは納得しかけた。
向かいに座っていたレスト侯が、そっと窓の外へ顔を向ける。
何も言わない。
どうやら、見なかったことにしているらしい。
「院長先生」
「なんですか」
「ほら」
シノは自分を指さした。
「シノ・ルミナリア」
「……」
マルナの唇が震えた。
「シノ」
「うん」
「今は、もう一度言わないでください」
「なんで?」
「また泣きます」
「やっぱり泣いてるじゃん」
「シノ」
「はい」
少し怒られた。
それでもシノは嬉しそうだった。
自分の名前を、口の中でもう一度転がす。
「シノ・ルミナリア……」
昨日まで、自分にはなかったもの。
エルンにはファルクという家名がある。
リーゼリアにはレストという家名がある。
けれど自分は、ただのシノだった。
それを寂しいと思ったことは、あまりない。
孤児院には、自分と同じように家名を持たない子供が何人もいたからだ。
けれど。
「院長先生」
「はい」
「ルミナリアって、孤児院のみんなの名前でもあるよね?」
マルナがシノを見る。
「……そうですね」
「じゃあ私、王都にいてもルミナリア孤児院の子なんだ」
「ええ」
「もっと遠くに行っても?」
「ええ」
「ずっと?」
マルナは、今度はすぐに答えなかった。
シノの髪へ、そっと手を伸ばす。
「ずっとです」
「そっか」
シノが笑った。
「よかった」
マルナの目から、また涙がこぼれた。
「あっ、また泣いた」
「……仕方ないでしょう」
「院長先生、今日すごく泣くね」
「誰のせいだと思っているのですか」
「王様?」
「あなたです」
「私?」
シノが首を傾げる。
レスト侯がとうとう堪えきれず、小さく笑った。
「侯爵様まで……」
「いや、失礼した」
レスト侯は咳払いする。
「しかし、よい名をいただいたな。シノ殿」
「はい!」
「陛下も随分と粋なことをなさる」
レスト侯は改めてシノを見る。
「シノ・ルミナリア。よく似合っている」
「ありがとうございます」
シノは少し照れながら笑った。
その横で、マルナがまた目元を押さえる。
「院長先生?」
「もう放っておいてください」
「はーい」
馬車は、ゆっくりとレスト邸へ向かっていった。
◇
翌朝。
レスト邸の玄関に、一人の男が立っていた。
年は二十代半ばほどだろうか。
旅装ではない。
腰には剣。
身体を包む装備には、王国騎士であることを示す紋章が刻まれている。
応対に出たライナーは、一目でその身分を察した。
「どのようなご用件でしょうか」
「レスト侯爵閣下にお目通り願いたい」
男はそう言って、姿勢を正した。
「王国騎士、ライアス・エンフィレルと申します」
「王国騎士殿が、旦那様に?」
「はい」
そして、続けた。
「陛下からの上意をお預かりしております」
ライナーの表情が変わった。
「……上意」
「はい」
「少々お待ちください」
すぐさま屋敷の奥へ人が走った。
ほどなくして、レスト侯本人が姿を現す。
その後ろにはリーゼリア。
何事かと顔を出したシノとマルナもいる。
「陛下からの上意を預かっていると聞いた」
「はい」
ライアスが一歩前へ出る。
「国王アイザック・キア・マニール陛下より、レスト侯爵閣下へ上意をお預かりしております」
その言葉を聞いた瞬間、レスト侯が膝をついた。
ライナーも続く。
リーゼリアとマルナも頭を下げた。
シノも慌てて真似をする。
ライアスの雰囲気が変わった。
先ほどまでの若い騎士ではない。
国王の言葉を預かる使者として、静かに、そしてよく通る声で告げる。
「申し渡す」
玄関広間に、ライアスの声が響いた。
「王国騎士ライアス・エンフィレルを、本日付をもってシノ・ルミナリア嬢の護衛に着任させる」
「……!」
シノが顔を上げかけ、慌てて戻した。
「任務中、レスト侯爵家におけるライアス・エンフィレルの待遇は、客人に準ずるものとする」
ライアスは続ける。
「護衛任務に伴う俸給、褒賞、その他必要となる費用については、すべて王国がこれを負担する」
一拍置いた。
「以上、陛下よりの上意である」
静寂。
レスト侯が深く頭を下げる。
「謹んで、承りました」
ライアスも一礼した。
「確かに、お伝えいたしました」
「うむ」
レスト侯が立ち上がる。
そこで初めて、目の前の騎士を改めて見た。
「しかし――」
その顔に、驚きが浮かぶ。
「ライアス・エンフィレルと言ったか?」
「はい」
「もしや、昨年の王国剣技大会を制した、あのライアス・エンフィレルか」
「はい。自分で間違いありません」
「ほう……!」
レスト侯の表情が明るくなった。
「これは陛下に感謝せねばなるまい」
シノはきょとんとしている。
「そんなにすごい人なの?」
「すごいどころではありませんよ、シノさん」
リーゼリアが答えた。
「王国剣技大会は、王国中から腕に覚えのある騎士や戦士が集まる大会です。その頂点に立った方ですよ」
「一番?」
「ええ」
シノがライアスを見る。
「すごい」
「恐縮です」
ライアスは淡々と頭を下げた。
その立ち姿にも隙がない。
レスト侯は満足そうに頷く。
「陛下がシノ殿のために、そこまでの人物を選んでくださったか」
昨日、王は戦士長アウダイールへ命じていた。
シノを見て、人を選べ、と。
その答えが、この男なのだろう。
「ライナー」
「はい」
「客室を一つ用意せよ。シノ殿の部屋の隣が空いていたな?」
「はい。すぐに整えます」
「そこを使ってもらおう。護衛であれば、その方が都合もよかろう」
「承知いたしました」
レスト侯はライアスへ向き直る。
「シノ殿は我が領の大切な子だ」
その声が少しだけ強くなる。
「よろしく頼む」
「はい」
ライアスは短く答えた。
そして、シノの前まで歩いてくる。
「シノ・ルミナリア様」
「はい」
ライアスは、その場に片膝をついた。
先ほど王命を読み上げた時と変わらない、整った所作だった。
右手を胸元へ添える。
「改めまして。王国騎士、ライアス・エンフィレルと申します」
シノもつられて姿勢を正す。
「本日より、あなたの護衛を務めさせていただきます」
真っ直ぐな視線。
王国剣技大会の覇者。
国王が直々に遣わした騎士。
その姿は、シノが思い描いていた『王国騎士』そのものだった。
「よろしくお願いいたします。シノ・ルミナリア様」
「……はい!」
シノは大きく頷いた。
「よろしくお願いします、ライアスさん!」
ライアスは静かに微笑んだ。
この時。
シノはまだ知らなかった。
目の前の男が、この完璧な騎士の姿を保っていられるのは――。
それほど長くないということを。




