王の導縁
――何の問題がある?
低い声が、謁見の間に響いた。
先ほどまで飛び交っていたざわめきが、嘘のように静まる。
貴族たちが一斉に声のした方へ顔を向けた。
王座の脇。
王族のみが使う扉が開き、一人の初老の男がゆっくりと歩み出てくる。
「……え?」
シノは目を瞬いた。
見覚えがある。
いや。
二日前に会ったばかりだ。
「先生?」
思わず声が漏れた。
周囲の何人かが怪訝そうにシノを見る。
初老の男も、シノを見つけるとわずかに目を細めた。
その直後。
侍従が高らかに声を張り上げる。
「栄えあるマニール王国、国王――アイザック・キア・マニール陛下、御出座!」
一斉に、謁見の間にいた者たちが膝をついた。
「え……?」
シノだけが固まっていた。
中央神殿の長椅子で隣に座っていた人。
一緒に三神へ祈った人。
祈り方を教えてくれた、自分の先生。
その人が今、国王として王座の前に立っている。
「アイクさん……これって……」
「また会ったな、シノ」
アイザックは昨日と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた。
「な――!」
その声に、一人の貴族が顔を上げた。
「貴様! 陛下に向かって何たる口の利き方か!」
「え?」
「ましてや、アイクなどと陛下の御名を軽々しく――」
「黙れ」
低い声だった。
だが、それだけで男の言葉は止まった。
アイザック王の顔から、先ほどまでの笑みが消えている。
「……陛下?」
「誰が貴公に、この子を咎めよと命じた」
「い、いえ。しかし、陛下に対する不敬を見過ごすわけには――」
「不敬?」
アイザック王が男を見る。
「私がそう名乗ったのだ」
謁見の間が静まり返る。
「先日、私はこの子にアイクと名乗った。そう呼ぶことを許したのも私だ」
「しかし、ここは公の謁見の場。相応の呼称を――」
「ならば、王になれば自ら交わした言葉をなかったことにしてよいのか?」
「……!」
「身分を明かさなかったのは私だ。その私の言葉を信じた十二歳の子供を、貴公は責めた」
アイザックの声に、明確な怒気が混じる。
「それを忠義と申すか」
「……申し訳ございません!」
男が深く頭を下げた。
「それは謝る相手が違う」
アイザック王は短く告げた。
男の顔が強張った。
そして慌ててシノへ向き直る。
「……シノ殿。大変失礼をいたしました」
「え、あ……はい、なんかごめんなさい」
シノは困ったように答えた。
「事情を知らなかったとはいえ、お前も我が国の立場ある者としての叱責だ。王としてはこれ以上其方を責めん」
「もったいなきお言葉です、陛下」
男は膝をつき王を下がる。
「でもアイクさん……じゃなくて、王様?」
「好きに呼べばよい」
「陛下!」
今度は別の者が思わず声を上げる。
「私が許している」
アイザック王はそれだけ言うと、もう取り合わなかった。
そして視線をレスト侯へ向ける。
「レスト」
「はっ」
「確認したい」
レスト侯が顔を上げる。
「本日の謁見が《神前謁見式》であることは、事前に伝えられていたか?」
「……いいえ」
レスト侯の声が低くなる。
「私が受け取った通知には、通常の王宮謁見式としか記されておりませんでした」
ざわり。
今度のざわめきは、先ほどとは意味が違った。
「やはりそうか」
アイザックの目が細くなる。
「陛下。私はシノ殿へ、通常の宮廷作法を教えました。この場での失態、その責は――」
「ない」
アイザックが即座に切った。
「しかし」
「レスト侯にも、この子にもない」
アイザックは謁見の間を見渡す。
「王宮式に従わせたいのであれば、王宮式で招けばよい」
誰も答えない。
「神殿式に従わせたいのであれば、そう伝えればよい」
神官たちも黙っている。
「両方を求めるのであれば――両方を伝える。それが礼儀というものではないのか?」
先ほどシノを咎めていた貴族たちの表情が硬くなる。
「知らされていない作法を十二歳の子供が誤った。それを不敬と呼ぶのであれば、先に問うべき者がいるだろう」
アイザック王の声が、謁見の間へ静かに響く。
「伝えるべき者が、伝えなかった」
そして。
「それこそ、王宮への不敬ではないのか?」
空気が凍る。
「あまつさえ」
アイザック王は、三神を示す紋章へ一度目を向けた。
「三神の名を利用して一人の子供を辱めようとしたのであれば――神殿への不敬でもあろう」
「陛下のお言葉の通りにございます」
神官の列から声が上がった。
高位神官の一人――神法卿が、深く頭を垂れている。
「《神前謁見式》の礼法そのものを伝えず、後からその不備を咎めることは、三神教の教えにも反します」
「聞いたな」
アイザックが静かに言った。
それ以上、反論する者はいなかった。
シノは状況を半分も理解できていなかった。
ただ一つ分かるのは、アイクが自分を庇ってくれていることだけだった。
「でも……」
シノが小さく手を上げる。
「なんだい?」
「私、本当に間違えたんですよね?」
「ああ」
「やっぱり?」
「《神前謁見式》としてはな」
「じゃあ、覚えないと」
アイザック王が一瞬、目を丸くした。
そのあと、小さく笑う。
「そうだな。その考えは正しい」
そして何かを思い出したように、シノを見る。
「そうだ。シノ」
「はい?」
「渡したカードは持っているかい?」
「カード?」
「先生の証だよ」
「あ!」
シノは衣装の内側へ手を入れた。
「持ってきたよ!」
大切にしまっていた一枚のカードを取り出す。
「これでしょ?」
「ああ。それだ」
シノからカードを受け取ったアイザックは、それを側近へ差し出した。
「読め」
「はっ」
側近は受け取ったカードへ目を落とす。
そして――動きを止めた。
「どうした」
「……失礼いたしました」
側近が姿勢を正す。
謁見の間によく通る声で、その記載を読み上げた。
「《導縁証》――導師、アイザック・キア・マニール」
一瞬。
ざわめきが走った。
「弟子――シノ」
今度こそ、謁見の間が騒然となった。
「陛下の《導縁証》だと?」
「いつの間に……」
「まさか先日の王宮礼拝で?」
「国王陛下ご自身が導師に……?」
レスト侯も目を見開いていた。
マルナでさえ、驚きを隠せていない。
シノだけが、周囲の反応に首を傾げている。
「そうだ」
アイザックはカードを受け取る。
「シノは私の教え子だ」
「先生のカードって、そんなにすごいやつだったなんて……」
「少し説明を省いたかもしれんな」
「少し?」
神法卿が何とも言えない表情を浮かべた。
アイザックは、その神法卿へ視線を向ける。
「ちょうどよい。神法卿」
「はっ」
「《導縁》を結んだ弟子が、三神教の礼を誤った場合、その責は誰にある?」
「……師にございます」
何人かの貴族が息を呑んだ。
「そうか」
アイザックはあっさりと頷く。
「ならば今回の不敬は、私の責任だな」
「陛下」
「さて」
アイザックが先ほど声を上げていた貴族たちを見る。
「どう取る?」
誰も答えない。
「王を辞するか?」
「陛下!」
神法卿が慌てて声を上げる。
「それとも、三神教から破門にするか?」
「どちらもなりません!」
今度は即答だった。
シノが目を丸くする。
「なんで?」
「シノ殿」
神法卿は一度息を整えた。
「《導縁》とは本来、神官の少ない土地において、教義を理解する者に民への教導を担っていただくために設けられた制度なのです」
「神官さんの代わり?」
「簡単に申し上げれば、そのようなものです」
神法卿が頷く。
「ゆえに、弟子が教義や作法を誤った場合、それを罰するのではありません」
「じゃあ、どうするんですか?」
「師が正しく、そして穏やかに導く。それが神殿法に定められております」
「へえ……」
シノは感心したように頷いた。
「さらに《導縁》を結んだ師は、弟子の簡易的な身元引受人としての立場も有します」
「身元引受人?」
「困った時に、私が『この子は私の教え子だ』と言えるということだ」
アイザック王が補足する。
「あ、それ神殿で言ってたやつ!」
「そういうことだ」
周囲の貴族たちは、笑っていなかった。
国王が《導縁》を結んだ。
それは単に、祈り方を教えたというだけの話ではない。
王自身が、この少女との正式な縁を結んだことを意味する。
「では」
アイザックがシノを見る。
「神殿法に従い、師として私が教えよう」
「はい、先生!」
その返事に、またわずかなざわめきが起こった。
だが今度は、誰も咎めなかった。
アイザック王は玉座の前から歩み出し、謁見の間に設けられた三神像へ向かう。
「《神前謁見式》では、まず三神へ祈りを捧げる」
「うん」
「シノ」
「あ、はい」
「そこは今くらいなら、うんでも構わん」
「どっち?」
「好きにしなさい」
「はい」
アイザック王が笑う。
「王である私が、まず膝をつく」
そう言って。
マニール王国の国王は、衆目の前で三神像へ膝をついた。
右手の三本の指を揃える。
胸元へ、ゆっくり三本の線を引く。
あのとき。 中央神殿の静かな聖堂で、シノへ見せたのと同じ所作だった。
「次にシノ。私に合わせなさい」
「はい!」
シノもその隣へ膝をつく。
三本の指を胸元へ。
一筋。
二筋。
三筋。
そして、三神像へ頭を下げる。
ほんの少し前に習ったばかりの祈り。
だがそれからから何度も繰り返していたため、動きにはもうほとんど迷いがなかった。
祈りを終え、アイザック王が横目でシノを見る。
「ふむ」
「どう?」
「なかなか様になったではないか」
シノの顔がぱっと明るくなる。
「はい、先生!」
少し得意そうに胸を張った。
「私、祈り、極め中です」
「……極め中?」
「あれから練習してるの」
一瞬。
謁見の間が静まった。
アイザックが、堪えきれないように笑い出す。
「そうか、極め中か」
「はい!」
「ならば師として、今後も精進を期待しよう」
「頑張ります!」
国王と少女。
二人だけは、昨日の聖堂とほとんど変わらない調子で話している。
その周囲では、貴族も、神官も、軍人も。
誰一人として、どう反応すべきか分からずにいた。
やがてアイザック王は立ち上がる。
シノもそれに続いた。
「さて」
アイザックは王座へ戻ると、改めて謁見の間を見渡した。
先ほどまでとは、空気がまるで違っている。
「これで作法の問題は済んだな」
誰からも異論は上がらない。
「では――」
アイザック・キア・マニールは王座へ腰を下ろした。
そして、自らの教え子となった少女へ視線を向ける。
「改めて、謁見を始めようか。シノ」




