第五階梯
王立魔導学園の一角にある歌唱魔導実習棟には、朝から普段とは違う顔ぶれが集まっていた。
巨大な円形の実習場。
壁面から天井まで幾重もの魔導結界が施され、高階梯の歌唱魔導が暴発した場合でも、外部へ被害が及ばないよう設計された施設である。
その中央で、ウラバク学園長が腕を組んでいた。
「それにしても、よく使用許可が下りたものだな、ヴェルク教授」
「最初は断られましたよ」
ユリアンは悪びれる様子もなく答えた。
「当然です!」
近くにいた歌唱魔導科の教授が声を上げる。
「譜式学科の教授が歌唱魔導実習棟を使いたいなど、明らかに越権でしょう。しかも申請理由は『歌唱法による魔導出力の検証』。それだけでは許可できません」
「ですから、きちんと説明したではありませんか」
「後からでしょう!」
教授は不満そうに言う。
「シノ殿が来ると最初から書いておけば、話は違いました」
「結果的には許可をいただけたのですから、問題ないでしょう」
「そういう問題では――」
「その割には、ずいぶん見学者が増えたようだが?」
ウラバクが口を挟む。
「…………」
教授が黙った。
実習棟には、歌唱魔導科から数人の教授が集まっている。
シノが来る。
そう知らされてから、見学を希望する者が増えた結果だった。
「どちらもどちらだな」
ウラバクが呆れたように息を吐く。
そこへ実習棟の扉が開いた。
「失礼します」
エルンが入ってくる。
その後ろから、シノが顔を覗かせた。
「おはようございます!」
「おはようございます、シノさん、エルン君」
ユリアンが二人を迎える。
シノはすぐに広い実習場を見回した。
「すごい……」
高い天井。
床や壁には、シノには読めない複雑な魔導文字が幾重にも刻まれている。
「魔導士はここで歌うの?」
「今日は、まずエルン君に歌っていただきます」
「エルンが?」
「ええ」
一方、エルンは別のところを見ていた。
歌唱魔導科の教授たち。
そして――。
「学園長までいるんですか?」
「いるぞ」
ウラバクが答える。
「……先生」
エルンがユリアンを見る。
「少し確認するだけだと聞いていましたけど」
「そのつもりですよ」
「それにしては大げさじゃないですか?」
「仕方ありません。ここは歌唱魔導科の施設ですからね。使用する以上、担当教授の立ち会いが必要です」
「こんなに?」
「皆さん、勉強熱心なのでしょう」
ユリアンが微笑む。
教授の一人が咳払いをした。
「それより始めようではないか」
「そうですね」
ユリアンは実習場の中央に置かれた標的を示した。
「エルン君。今日は君が普段使っている歌唱魔導を確認させてもらいます」
「俺の?」
「ええ。教授会でも話題になりましたが、シノさんと出会ってから、君の歌唱は大きく変化している」
エルンがシノを見る。
「歌唱法のことですか?」
「そうです」
シノが頷いた。
「エルンの歌を聞いて、私だったらこう歌うかなって、真似してもらっただけです」
「その歌唱法を、エルン君は現在も使っている」
「はい」
「ならば、その効果を一度きちんと確認しておくべきでしょう」
ユリアンは標的を見る。
「第二階梯火唱。君が以前から練習していた譜詩でお願いします」
「分かりました」
エルンが実習場の中央へ進む。
「エルン、頑張って!」
「普通に歌うだけだ」
「でも頑張って!」
「分かったよ」
エルンは小さく笑い、標的へ向き直った。
一度、息を整える。
かつて何度歌ってもうまく扱えなかった譜詩。
シノと出会い、歌い方を変えたことで、初めて思い通りに扱えるようになった歌。
――火よ、丸く、赤く、走れ。
エルンの歌声が、実習棟へ響く。
その瞬間。
周囲のマナが揺れた。
エルンの前方に炎が生まれる。
それは瞬く間に膨れ上がり、本来の《ファイアボール》を明らかに超える大きさへ成長した。
「な――」
教授の一人が声を漏らす。
炎が標的へ向かって放たれた。
轟音。
実習棟の空気が震え、爆炎が標的を包み込む。
遅れて、魔導結界が淡い光を放った。
炎が消えていく。
標的の周囲には、焦げ跡が大きく広がっていた。
「……第三階梯」
一人の教授が呟く。
別の教授が標的を確認する。
「《ファイアボム》相当ですな」
「間違いない」
「しかし、譜詩は第二階梯そのものだったぞ」
「ああ。改変もない」
教授たちがざわめき始める。
ウラバクも感心したように頷いた。
「見事だ、エルン・ファルク。さすが今年度首席と言うべきか」
「ありがとうございます」
エルンが一礼する。
「すごい!」
シノが駆け寄ってくる。
「エルン、すごいよ!」
「そうか?」
「だって前は、丸くするだけでも大変だったのに!」
「それは言うな」
「でも本当でしょ?」
「昔の話だ」
シノは嬉しそうに笑っている。
その様子を眺めていた教授の一人が、ふと口を開いた。
「しかし……」
その視線がシノへ向く。
「これほどの歌唱法を教えられるということは――」
他の教授たちも気づいたようにシノを見る。
「シノ殿自身が歌った場合、どれほどの威力になるのだ?」
「私?」
シノが自分を指差す。
「確かに」
「同じ譜詩であれば比較もできる」
「シノ殿にも一度――」
「いけません」
ユリアンの声だった。
教授たちが振り返る。
「ヴェルク教授?」
「今日の目的は、エルン君の歌唱を確認することです」
ユリアンは静かに首を横に振った。
「シノさんには、むやみに歌わせないと約束していますので」
エルンがユリアンを見る。
「先生……」
「私も研究者として少々先走ってしまうふしがありまして」
ユリアンは苦笑した。
「本人にもマルナ院長にも心配をかけました。それ以来、シノさん本人が必要だと判断した時以外、こちらから歌唱を求めないと決めています」
「しかしヴェルク教授」
歌唱魔導科の教授が食い下がる。
「これほど条件の整った機会はありませんぞ」
「お気持ちは分かります」
「国内でも有数の魔導結界を備えた実習棟です。歌唱魔導科の教授も揃い、学園長まで立ち会っている」
「ええ」
「ならば、むしろ今こそ――」
「それでもです」
ユリアンの声は穏やかだった。
「研究以前に、シノさんは十二歳の少女です。無理に歌わせるべきではありません」
「俺も反対です」
エルンが言った。
「エルン?」
「歌わなくていい」
「でも――」
「シノは自分でも何が起きるか分かってないだろ」
エルンは教授たちへ向き直った。
「以前、同じ《ファイアボール》をシノが歌ったことがあります」
「ほう」
「どうなった?」
「火の鳥が出ました」
「……火の鳥?」
「はい」
教授たちの表情が変わる。
「《ファイアボール》を歌って?」
「譜詩は同じです」
「大きさは?」
「かなり大きかったです。少なくとも、普通の《ファイアボール》とは全然違いました、魔導書にあるイフリート相当かと」
「それは……」
教授たちの興味が、さらに強くなったのが分かった。
エルンは眉をひそめる。
「だから余計にです。何が起きるか分からないのに、試す必要はありません」
「でも」
シノが言った。
「ちょっとくらいなら、いいんじゃない?」
「シノ」
「だって、ここなら安全なんでしょ?」
シノは周囲を見回した。
「すごく強い結界があるんだよね?」
「そうだけど」
「学園長先生もいるし、歌唱魔導の先生もこんなにいる」
「だからって――」
「それに」
シノは少しだけ考えた。
「あの鳥が何だったのか、私も知りたい」
エルンが黙る。
「私、《ファイアボール》を歌ったつもりだったんだよ?」
「ああ」
「でも、火の玉じゃなくて鳥になった」
あの日。
エルンが歌った譜詩を、シノはただ自分なりに歌ってみた。
それだけだった。
なのに現れたのは、翼を広げた巨大な炎の鳥。
「なんで鳥になったのか、今でも分からないでしょ?」
「……ああ」
「だったら、専門家の先生たちなら何か分かるかもしれない」
シノは教授たちを見る。
「それに今は、誰かが困ってるところでもないし」
「え?」
「いつもは、何かあってから歌うでしょ?」
シノは笑った。
「でも今日は違うから。ちゃんと準備して、危なくなったら止めてもらえる」
そしてエルンを見る。
「試すなら、今が一番安全なんじゃないかな」
「…………」
エルンは答えに詰まった。
確かにその通りだった。
これまでは何が起こるかも分からないまま、必要に迫られてシノは歌ってきた。
それに比べれば、ここには強固な結界があり、歌唱魔導の専門家たちが揃っている。
「……本当にやるのか?」
「うん」
「何か変だと思ったら、すぐ止めろよ」
「分かった」
エルンはまだ納得しきれない顔をしていたが、それ以上は止めなかった。
ユリアンがシノを見る。
「シノさん」
「はい」
「無理はさせたくありません。あなた自身が試してみたいというのであれば、私からもお願いしたい」
「はい!」
「ただし、少しでも異変を感じたら、すぐに止めてください」
「分かりました」
「学園長」
「ああ」
ウラバクが頷く。
「結界出力を最大まで上げろ」
「はい!」
実習棟の周囲に刻まれた魔導文字が、次々と光を帯びていく。
低い駆動音とともに、幾重もの結界が展開された。
「これなら、第五階梯程度までは問題ない」
「第五階梯?」
シノが首を傾げる。
「念のためだ」
ウラバクが答えた。
「シノ殿は普段通り歌えばよい」
「はい」
シノは実習場の中央へ向かった。
その途中、エルンとすれ違う。
「シノ」
「なに?」
「無茶するなよ」
「しないよ」
「本当か?」
「今日は誰も困ってないもん」
シノが笑う。
「だから、普通に歌うだけ」
「……ならいい」
エルンが場所を譲る。
シノは標的の前に立った。
一度、大きく息を吸う。
あの日と同じ歌。
エルンが何度も練習していた第二階梯火唱。
――火よ、丸く、赤く、走れ。
歌声が響いた。
瞬間。
「……!」
空気が変わった。
教授たちの表情から、一斉に余裕が消える。
実習棟を満たしていたマナが、大きく揺らいだ。
集まる。
シノの歌へ呼応するように。
その前方に、小さな炎が生まれた。
教授の一人が目を細める。
「《ファイアボール》……いや」
違う。
炎は丸くならなかった。
二つに裂ける。
左右へ伸びた炎が、大きな翼を形作っていく。
「なんだ……?」
さらに炎が膨れ上がる。
翼。
尾羽。
鋭く伸びた頭部。
巨大な炎の鳥が、実習棟の中央で翼を広げた。
「これです!」
エルンが叫ぶ。
「あの時と同じだ!」
シノの歌が終わる。
次の瞬間。
炎の鳥が標的へ向かって飛翔した。
轟音。
激しい爆炎が実習棟を埋め尽くす。
「結界!」
「維持しています!」
何重もの魔導障壁が眩い光を放つ。
熱風が吹き荒れ、シノの髪と衣服を大きく揺らした。
やがて炎が消えていく。
実習棟に静寂が戻った。
標的は――。
消えていた。
「…………」
誰も、すぐには声を出せなかった。
シノだけが、不安そうに周囲を見る。
「……やりすぎた?」
「やりすぎたどころではない」
教授の一人が呆然と答えた。
「出力を確認しろ」
ウラバクの声で、教授たちがようやく動き出した。
その中で、ユリアンは一人、掌へ視線を落としていた。
そこには銀色の小さな円盤が収まっている。
蓋を開けば、内側には細かな目盛りが並んでいた。
ユリアンは一瞬だけそれを見つめる。
「……二十三秒」
近くにいた教授が振り返った。
「何がです?」
ユリアンは顔を上げる。
「魔導が消えるまでですよ」
何でもないことのように答えた。
「着弾してから残留した炎が完全に消えるまで、二十三秒。第二階梯としては、ずいぶん長い」
「なるほど……」
教授は消失した標的へ目を戻す。
「威力だけでなく、持続時間まで通常とは異なるということですか」
「そのようですね」
ユリアンは穏やかに笑うと、銀色の円盤の蓋を閉じた。
そのまま懐へ戻す。
それ以上、その小さなものへ視線を向ける者はいなかった。
「第四階梯を超えています!」
測定を行っていた教授の声が飛ぶ。
「結界への負荷から逆算しても間違いありません!」
「待て」
ウラバクの一言で、ざわめきが止まった。
学園長は消えた標的をしばらく見つめたあと、集まった者たちをゆっくりと見回す。
「本日、この場で見聞きしたことについて、他言を禁ずる」
「他言?」
シノが首を傾げた。
「今日ここで起きたことを、ここにいない者へ話してはならないということだ」
「なんで?」
「シノ」
エルンが小さく声を掛ける。
だが、ウラバクはその問いにきちんと答えた。
「君が今見せたものが、それだけ珍しいからだ」
「珍しいと、言っちゃ駄目なんですか?」
「珍しいだけなら構わん」
ウラバクの表情が厳しくなる。
「だが、力は人を集める。善意を持つ者だけが集まるとは限らない」
シノは少し考えたあと、頷いた。
「……分かりました」
「諸君もだ」
ウラバクが教授陣へ視線を向ける。
「今日の実習記録は学園長権限で閲覧を制限する。複写も、教材への転用も認めん。口外も禁止する」
「承知しました」
教授たちが次々と頷いた。
「ヴェルク教授」
「もちろんです」
ユリアンも、いつもと変わらぬ穏やかな表情で答える。
「シノさんの安全が第一ですから」
「うむ」
ウラバクは再び実習場へ目を向けた。
測定を担当していた教授が、手元の記録を何度も確認していた。
「学園長……」
「どうした?」
「やはり、術者本人からのマナを確認できませんでした。それと威力ですが……第四階梯では説明できません」
教授が顔を上げる。
「結界負荷、熱量、破壊規模。そのいずれも上回っています」
別の教授も頷いた。
「私も同意見です」
歌唱魔導科の老教授は、標的があった場所をじっと見つめていた。
やがて、低く呟く。
「現代魔導の最高到達点……第五階梯、か」




