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アイクの願い

「アイクさんだね」


「ああ。それで、シノはどこから来たんだい?」


 アイクはそう尋ねてから、少しだけ言葉を足した。


「失礼。王都の子どもではないように見えたのでね。観光かな?」


「そうです。レスト領から来ました、王都に来たのは初めてです」


 シノは聖堂を見渡した。


「こんなに綺麗な神殿も、初めて見ました」


「ほう。信心深い子なのだね」


「信心深い?」


「三神へ祈りを捧げに来たのだろう?」


「今日は別の用事で来たんだけど、せっかくだからお祈りしようかなって」


「なるほど。では、何を祈るんだい?」


 シノは少し考えたあと、三神像を見上げた。


「みんなが、楽しくいられますように」


「みんなが?」


「はい、ハルム村のみんなや、孤児院の子たち、あとエルンとリーゼリア様と……なんかいっぱいで」


 シノは頷いてから、自分の言葉に首を傾げる。


「でも、これって祈りなのかな。お願いみたいだけど」


「祈りも願いも、大した違いはないさ」


 アイクは穏やかに笑った。


「ともあれ、素晴らしい願いだ」


「アイクさんは?」


「私か」


 アイクは正面へ向き直り、しばらく三神像を見つめた。


「そうだな。この国のために生き、そして亡くなっていった、誇り高き人々に……かな」


「アイクさん、すごいです」


「何がだい?」


「自分のことじゃなくて、この国の人たちのためにお祈りするなんて」


「まあ、こんな年寄りが一人くらいいてもよいだろう」


 アイクは少し照れたように笑った。


 それから何かを思い出し、シノへ顔を向ける。


「そうだ。シノは開国祭を知っているかい?」


「開国祭?」


「この国が生まれたことを祝う祭りだ。王都では毎年、盛大に催される」


「楽しそう!」


「ああ。歌や踊り、露店も並ぶ。子どもには楽しい祭りだろうね」


「行ってみたいな」


「もうすぐだ。機会があれば、ぜひ見るといい」


 アイクは再び、高い天井を見上げた。


「その開国祭には、古い伝承が残っていてね」


「伝承?」


「かつて国のために散った先人たちの魂が、光の不死鳥のような姿となって、王都の空を舞ったという」


「光の不死鳥……」


 シノもつられるように天井を見上げる。


 色硝子から差し込む光が、白い壁の上で揺れていた。


「本当にいたの?」


「さて、どうだろうな」


 アイクは小さく笑った。


「神話、とでも言うべきかな。分かりやすく言えば、昔から伝わるおとぎ話さ」


「でも、本当にいたら綺麗だろうね」


「ああ。きっとな」


 しばらく二人は並んで、三神像を見上げていた。


 やがてアイクが、ゆっくりと長椅子から立ち上がる。


「さて、おじさんはそろそろ帰らなければならないのでな」


「もう?」


「ああ。また会えたら、その時はもう少し話を聞かせておくれ」


「うん。またね、アイクさん」


「またな、シノ」


 アイクは微笑むと、三神像へ向き直った。


 胸元へ三本の指を添え、祈りの所作に入ろうとする。


「あの、アイクさん!」


 呼び止められ、アイクが振り返る。


「どうした?」


「私にも、そのやり方を教えてください」


「祈り方をかい?」


「うん」


 シノはアイクの隣まで駆け寄った。


「院長先生は、いつも『祈りは気持ちが大切です。形はあとからで構いません』って言うんだけど……」


「立派な教えだ」


「でも、王都に来てからの院長先生、ちゃんとした形でお祈りしてるんだよ」


 シノは胸の前で手を動かしながら、マルナの所作を思い出そうとする。


「ここで三本、こうやって……それから膝をついて」


「なるほど」


「私も、ちゃんと知りたい!」


 アイクは一瞬、目を丸くした。


 やがて、その顔に柔らかな笑みが広がる。


「その院長先生とやらの言うことは正しい。形を知らずとも、心からの祈りは三神へ届くだろう」


「うーん」


「だが、シノがきちんと知りたいのであれば、私が教えよう」


「本当?」


「ああ。まず、私と同じようにしてごらん」


 アイクは三神像へ身体を向ける。


 右手の三本の指をそろえ、胸元へゆっくりと三本の線を引いた。


「これは、大地神ガルシア、水の神ミリニア、芸術神アウラを表している」


 シノは、その手元を真剣に見つめる。


「胸へ三本の線を引くのは、三神の教えを心へ刻み、忘れずに生きていくという宣言だよ」


「三神の教えを、心に……」


「そうだ。シノもやってみなさい」


 シノはアイクを真似て、胸元へ三本の指を添えた。


 慎重に三本の線を引いていく。


「こう?」


「ああ。上手だ」


「それから?」


「三神像へ向かい、膝をつく。頭を下げ、自分の言葉で祈ればよい」


 アイクが祭壇へ向かって膝をつく。


 シノもその隣へ並び、同じように膝をついた。


 少し遅れて、三神像へ頭を下げる。


「できた?」


「よくできた」


 シノは顔を上げ、嬉しそうに笑った。


「ありがとう、アイクさん!」


「礼を言われるほどのことではないさ」


「そんなことないよ」


 シノは胸元に引いた三本の線を、もう一度指でなぞった。


「アイクさんは、私のお祈りの先生だね!」


「……先生?」


「うん!」


 予想もしなかった言葉に、アイクはしばし呆気に取られた。


 やがて、堪えきれないように笑い出す。


「そうか。では私はシノの先生になろう。教え子に恥じぬよう、私も正しく祈らねばならんな」


「私もアイク先生みたいにカッコよくお祈りしたいです!」


「格好はまあ……。しかし最初はそれでいい。忘れないでおくれ」


「はい!」


「ならば――」


 アイクは何かを思いついたように、自らの懐へ手を入れた。


「せっかくだ。これも渡しておこう」


「なに?」


 取り出したのは、一枚の小さなカードだった。


 手のひらに収まるほどの大きさで、表面には三神を表す紋様と、細かな文字が刻まれている。


「《導縁証》という」


「どうえんしょう?」


「ああ。三神教に古くからあるものでね。簡単に言えば――」


 アイクはカードを指先で挟み、シノへ見せた。


「私がシノの先生になった、その証だよ」


「先生の証!」


 シノの顔がぱっと明るくなる。


「そんなのあるの?」


「あるとも。もっとも、ただ渡せばよいものではない」


 アイクは片手を差し出した。


「シノ、手を出してごらん」


「こう?」


 シノが右手を差し出す。


 アイクはその手に《導縁証》を乗せると、その上から自らの手を重ねた。


 まるで、カードを挟んで握手をするような形になる。


「では、シノ。私を師とし、今日学んだことを大切にすると誓えるかい?」


「はい!」


「返事が早いな」


「だって大切にするもん」


 アイクが笑う。


「では、もう一度」


 シノは少しだけ姿勢を正した。


「アイク先生から教えてもらったことを、ちゃんと大切にします」


「ああ。私も、シノを教え導く者として、その言葉を受け取ろう」


 その瞬間だった。


 二人の手の間から、淡い光が漏れた。


「わっ!」


 シノが驚いて手を開く。


 《導縁証》の表面に刻まれていた文字が淡く輝き、その下へ新たな文字がゆっくりと浮かび上がっていく。


 ――シノ。


「私の名前!」


「これで成立だ」


「すごい!」


 シノはカードを両手で持ち、何度も表と裏を見比べた。


「これ、私がもらっていいんですか?」


「ああ。シノのものだ。大切に持っていなさい」


「はい!」


 シノは嬉しそうに《導縁証》を胸元へ抱える。


「これで本当にアイク先生!」


「どうやら、そういうことになったらしい」


 アイクは苦笑しながらも、どこか楽しそうだった。


 そこへ、入口で待っていた神官が静かに歩み寄ってきた。


「シノ殿。マルナ院長のお話が終わりました」


「もう?」


「ええ。お迎えに参りました」


 シノは《導縁証》を大切そうにしまうと、アイクへ向き直る。


「じゃあ、私、院長先生のところに戻るね」


「ああ」


 アイクは穏やかに頷いた。


「また会おう、シノ」


「うん。また神殿で会えますか?」


「さて、それはどうだろうな」


「来月?」


「もう少し早いかもしれない」


「本当?」


「ああ。きっと、そう遠くないうちに」


「じゃあ、またね。アイク先生!」


「またな、シノ」


 シノは何度か振り返りながら、神官とともに聖堂を出ていった。


 アイクは、その小さな背中が扉の向こうへ消えるまで、静かに見送っていた。


     ◇


「院長先生、ただいま!」


 ライラメスの部屋へ戻ると、マルナはすでに席を立っていた。


「お帰りなさい。何も触りませんでしたか?」


「触ってないよ」


「勝手な場所へ入りませんでしたか?」


「入ってないってば」


「それなら結構です」


「でもね、お祈りの仕方を教えてもらったの」


「神官の方にですか?」


「ううん。アイク先生」


「アイク先生?」


「聖堂にいたおじさん。私のお祈りの先生になったんだよ」


「……そうですか」


 マルナがわずかに首を傾げたところで、診察を終えたリーゼリアも戻ってきた。


「お待たせしました」


「リーゼリア様、どうだった?」


「順調に回復しているそうです。次の診察まで、少し間を空けてもよいとのことでした」


「よかった!」


 シノは嬉しそうに、リーゼリアの手を取った。


 三人はライラメスへ礼を述べ、中央神殿をあとにした。


     ◇


 馬車が中央神殿の正門を離れていく。


 シノは窓へ顔を寄せ、遠ざかる三本の尖塔を眺めていた。


「またアイクさんに会えるかな」


「お祈りを教えてくださった方ですか?」


「うん。月に一度くらい、神殿に来るんだって」


「シノさんがしばらく王都にいるならまたお会いできるかもしれませんね」


 リーゼリアが微笑む。


 その向かいで、マルナの視線が正門脇に立てられた看板を捉えた。


本日、王宮礼拝につき一般礼拝は行っておりません。


「……」


 マルナは何も言わず、神殿の周囲へ目を向けた。


 正門の両脇には、神殿騎士とは異なる装備の兵士たちが、一定の間隔を空けて並んでいる。


 外壁に沿うように騎馬兵が配置され、通用門の奥には、王宮の紋章を掲げた馬車が何台も停められていた。


 馬車が角を曲がるまで、王宮兵の列が途切れることはなかった。


「院長先生、どうしたの?」


「いえ。何でもありません」


 マルナは静かに窓から視線を戻した。


 その隣でシノは、胸元へ三本の指を添える。


 今日教わったばかりの祈りの形を、忘れないように確かめていた。

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