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中央神殿

翌朝。


 シノとマルナ、そしてリーゼリアを乗せた馬車は、中央神殿へ向かって王都の大通りを進んでいた。


「リーゼリア様も、今日が診察の日だったんだね」


「ええ。ちょうどよい機会ですから、私も一緒に診ていただくことになりました」


「もう悪い夢は見てない?」


「大丈夫ですよ。昨夜も朝までよく眠れました」


「よかった」


 シノが安心したように笑う。


 向かいに座るマルナは、そんな二人を見守りながらも、普段よりわずかに表情を硬くしていた。


「院長先生、緊張してるの?」


「緊張しているのではありません。気を引き締めているのです」


「それって同じじゃないの?」


「少し違います」


「そうなの?」


「そういうことにしておきなさい」


 隣で、リーゼリアが口元を押さえて笑った。


 やがて馬車の窓から、三本の尖塔が見えてくる。


 三神を祀り、王国各地の神殿を束ねる中央神殿。


 白亜の巨大な建物を見上げ、シノは窓へ顔を寄せた。


「大きい……」


「王国最大の神殿ですからね」


「院長先生も、ここに来たことあるの?」


「若い頃に何度か。ただし、正式に招かれたことはありません」


「院長先生でも?」


「私を何だと思っているのですか」


「すごい人」


「それは否定しませんが」


「否定しないんだ……」


 リーゼリアが、また小さく笑った。


 ほどなくして、馬車は中央神殿の正面階段前で止まった。


 三人が降りると、白い法衣をまとった神官たちがすでに待っていた。


「マルナ院長、シノ殿、リーゼリア嬢。お待ちしておりました」


「本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 マルナが丁寧に礼を返す。


 神官の一人がリーゼリアへ向き直った。


「リーゼリア嬢は、先に診察室へご案内いたします」


「分かりました」


 リーゼリアはシノを振り返る。


「では、またあとで」


「うん。リーゼリア様、行ってらっしゃい」


「シノさんも、マルナ院長のそばを離れないようにしてくださいね」


「分かってるよ」


「その言葉、あまり信用できませんね」


「リーゼリア様まで!」


 楽しそうに微笑みながら、リーゼリアは神官とともに別の回廊へ消えていった。


 シノとマルナも、神殿の奥へと案内される。


 広い回廊には三神と、その御下に連なる神獣様たちを描いた壁画が並んでいた。


 シノは歩きながら、興味深そうに一つ一つを眺める。


「この子、リンちゃんに少し似てる」


「シノ」


「触ってないよ?」


「まだ何も言っていません」


「院長先生、顔に書いてあった」


「あなたが分かりやすいだけです」


 やがて二人は、重厚な扉の前へ案内された。


「ライラメス司祭がお待ちです」


 神官が扉を開く。


 室内では、ライラメスが立ち上がって二人を迎えた。


「ようこそお越しくださいました。マルナ院長、シノ殿」


「お招きにあずかり、光栄にございます」


 マルナは胸元で三神へ祈りを捧げる。


 シノも少し遅れて、その所作を真似た。


「どうぞ、お掛けください」


 二人が並んで椅子へ腰を下ろすと、ライラメスも向かいの席へ座った。


 机の上には、何枚かの書類が整然と並べられている。


「まず、最初に申し上げておきましょう。本日は、お二人に何らかの罪を問うためにお呼びしたわけではありません」


「承知しております」


 マルナが静かに答えた。


「ただ、神殿として確認しておかなければならないことがある。そういうことですね」


「ご理解いただき、感謝いたします」


 丁重な物言いだった。


 だが、マルナの表情から緊張が消えることはない。


 ライラメスは手元の書類へ目を落とした。


「シノ殿。湖で起きたことを、まずはご本人の言葉で聞かせていただけますか」


「はい」


 シノは、湖での出来事を順に話した。


 濁った水に苦しむ人々を見て、何とかしたいと思ったこと。


 父から教わった歌を歌ったこと。


 そして、その歌に応えるように麒麟――リンちゃんが姿を現したこと。


 ライラメスは時折、短い質問を挟んだ。


「その際、三神のいずれかへ祈りを捧げましたか?」


「いいえ」


「神の名を歌へ織り込んだことは?」


「ないです」


「決められた祝詞や儀式を行ったことも?」


「ありません」


「神託や啓示を受けたことはありますか?」


「ないです」


「何者かの声を聞いたことは?」


「誰かが聴いてくれてるような気がすることはあるけど……声は聞こえません」


 ライラメスの筆が、紙の上を静かに走る。


「つまり、最初に麒麟様がお姿を現された時、シノ殿はそれを予想していなかった」


「はい。あの時はリンちゃんのことも知らなかったから」


「では、二度目は?」


「リンちゃんに来てほしくて歌いました」


「同じ歌を?」


「はい。最初にリンちゃんと会った時の歌です」


「その歌なら、必ず麒麟様がお応えになると?」


「必ずとは思ってなかったです」


「では、なぜ同じ歌を?」


 シノは不思議そうに首を傾げた。


「リンちゃんと最初に会った時の歌だから。同じ歌なら、届くかなって」


「……届く」


 ライラメスの筆が止まる。


「もう一度その歌を歌えば、麒麟様は再びお姿を現されると思いますか?」


「分かりません」


「歌うことは?」


「できます。でも、来るかどうかはリンちゃんが決めることだから」


「麒麟様へ命令を下すことはできない?」


「命令?」


「たとえば、何かをさせるように」


「お願いしたことはあるけど、命令したことはないです」


「お願いを聞いていただけなかった場合は?」


「どうもしません」


「なぜです?」


「友達だから」


「……友達」


「はい。少なくとも私はそう思ってます」


 ライラメスは、しばらくシノを見つめた。


「三神教において、神獣様は三柱の神々の御下にある尊き存在です」


 その声が、少しだけ重くなる。


「人が望んだからといって、容易にお姿を現されるものではありません。そして少なくとも現在の神殿には、歌によって神獣様を招く法は伝わっておりません」


 シノは黙って聞いている。


「何の神託も儀式もなく、一人の少女の歌へ、同じ神獣様が二度もお応えになった。神殿にとって、これは極めて重大な出来事なのです」


「……ごめんなさい」


「謝る必要はありません。あなたを責めているのではないのです」


「私も、どうしてなのか分からないです」


「そうでしょうね」


 ライラメスは一度、手元の書類へ目を落とした。


「では、最後に一つ」


「はい」


「神獣様は、必ずしも人に都合のよい存在とは限りません。何が起こるか分からなくても、あなたはこれからも歌うのですか?」


 シノは膝の上で両手を重ねた。


 少しだけ考えてから、ライラメスを見る。


「困ってる人がいて、私の知ってる歌が役に立つかもしれないなら……歌いたいです」


「怖くはありませんか?」


「怖いけど」


 シノは正直に答えた。


「何もしないで困ってる人を見てる方が、もっと嫌だから」


 飾りのない言葉だった。


 ライラメスはしばらくシノを見つめたあと、静かに書類を閉じた。


「分かりました。質問は以上です」


「もう終わり?」


「ええ。よく答えてくださいました」


 シノの肩から、目に見えて力が抜ける。


 ライラメスは今度はマルナへ視線を移した。


「マルナ院長には、もう少しお話を伺いたいことがあります」


「承知いたしました」


「シノ殿には、その間、聖堂をご覧いただきましょう。中央神殿へ来るのは初めてでしょう?」


「はい!」


 先ほどまでの緊張が嘘のように、シノの顔がぱっと明るくなる。


 ライラメスが若い神官を呼び、シノが席を立つ。


 すると、すぐにマルナの声が飛んだ。


「シノ。案内してくださる神官から離れてはいけませんよ」


「分かってるよ」


「神殿の物へ、勝手に触れないこと」


「触らないよ」


「知らない場所へ入らないこと」


「入らないってば」


「それから――」


「院長先生」


「何です?」


「私、もう十二歳だよ」


「まだ十二歳だから言っているのです」


「はーい」


「返事は短く」


「はい」


 ライラメスが、わずかに口元を緩めた。


 シノは若い神官に連れられ、部屋をあとにした。

     ◇


 中央神殿の聖堂は、シノがこれまで見たどの建物よりも広かった。


 高い天井を支える白い柱。


 色鮮やかな硝子窓。


 正面には三神の像が並び、その足元には花や灯火が捧げられている。


「わあ……」


 シノは思わず声を漏らした。


「私は入口におりますので、ご自由にご覧ください。ただし、祭壇へは上がらないようにお願いいたします」


「うん。ありがとう」


 聖堂には、何人かの参拝者がいた。


 三神像へ祈りを捧げる老婦人。


 長椅子へ座り、静かに目を閉じている男。


 柱のそばで聖典を読む若い女性。


 少し離れた場所には、質素な服を着た中年の夫婦も並んで座っていた。


 シノは天井画を見上げながら、ゆっくりと聖堂の中を歩いた。


 壁画には、三神と神獣様たちの物語が描かれている。


 シノが一枚の壁画へ近づくと、祈りを終えた老婦人が静かに立ち上がった。


 別の壁画を眺めている間に、聖典を読んでいた女性も本を閉じ、聖堂を出ていく。


 長椅子にいた男も、誰かに呼ばれたように席を立った。


 中年の夫婦も、連れ立って出口へ向かう。


「あれ?」


 シノが振り返る。


 先ほどまで何人もいたはずの参拝者が、いつの間にか姿を消していた。


 広い聖堂に残っているのは、シノと入口の神官。


 そして、前方の長椅子へ一人で腰掛けている初老の男性だけだった。


 年の頃は、五十をいくらか過ぎたほどだろうか。


 白髪の混じった髪をきれいに整え、正面の神像を静かに見上げている。


 身につけている服は上質そうだったが、華美な装飾はない。


 どこか人を安心させるような、穏やかな雰囲気をまとっていた。


 シノが近くを通りかかると、男性がゆっくりと顔を向けた。


「中央神殿は、初めてかな?」


「うん」


 答えたあと、シノは相手が年上であることを思い出し、慌てて言い直した。


「あ……初めてです」


「無理に言い直さなくてもいい。君らしく話してくれれば」


 男性は、おかしそうに笑った。


「すごく大きいね、ここ」


「ああ。私も来るたびに、よくこれほどのものを造ったと思うよ」


「おじさんも、よく来るんですか?」


「月に一度ほどかな」


「お祈り?」


「まあ、そんなところだ」


「今日は何をお願いしたんですか?」


 男性は少し考えるように、正面の三神像を見上げた。


「それを口にすれば、願いが逃げてしまうかもしれない」


「そうなの?」


「いや。今、私が考えた」


「もう」


 シノが頬を膨らませる。


 男性は楽しそうに笑うと、自分の隣を軽く叩いた。


「よければ、少し座るかい?」


 シノは入口に立つ神官を振り返った。


 神官は何も言わず、静かに頷く。


 それを確認してから、シノは男性の隣へ腰を下ろした。


「君の名前を聞いてもいいかな?」


「シノ」


「シノか。よい名だ」


「おじさんは?」


「私か」


 男性は、一瞬だけ考えるような顔をした。


 それから、穏やかに微笑む。


「アイクと呼んでくれ」

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