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マダムベル再訪

 その日の午後。


 レスト邸の居間では、シノとリーゼリアが向かい合って茶を飲んでいた。


「リーゼリア様、このお菓子おいしいね」


「ええ。気に入ったのなら、またライナーに用意してもらいましょう」


「本当?」


「もちろんです」


 シノが嬉しそうに焼き菓子へ手を伸ばした、その時だった。


 室内の空気が、ふわりと揺らぐ。


 甘い花の香りとともに、淡い紫色の靄が床を這った。


「シノさん……?」


「この感じ……」


 靄の中から、艶やかな毛並みに包まれた前脚が静かに踏み出される。


 続いて現れたのは、優美な姿をした暁夢漠。


 その後ろから、小さな獏がひょこりと顔を覗かせた。


「マダムベル! バッくんも!」


「ごきげんようザマス、シノ」


「遊びに来たよ!」


 騒ぎを聞きつけ、レスト侯とマルナ、ライナーが居間へ駆けつける。


「リーゼリア様!」


 見慣れぬ巨大な獣を目にしたライナーは、反射的にリーゼリアの前へ立った。


 主人の娘を庇うように腕を広げ、マダムベルを鋭く見据える。


「ライナー、大丈夫ですよ」


「しかし――」


「この御方は、私を悪夢から救ってくださった神獣様です」


「神獣……」


 ライナーの表情が変わる。


 マルナはすでに、その場へ膝をついていた。


「暁夢獏、マダムベル様……」


 深々と頭を下げる。


「ははー……」


 レスト侯も直ちに膝をつき、リーゼリアもそれに倣った。


 事情を理解したライナーも、遅れて片膝をつく。


「ご無礼をお許しください」


「主人を守ろうとしただけザマス。咎めるほどのことではないザマスよ」


 マダムベルは優雅に答えると、室内をゆっくりと見渡した。


「まあまあな屋敷ザマスね」


「恐れ入ります」


 レスト侯が頭を下げたまま答える。


「あら」


 マダムベルの視線が、茶菓子の並ぶテーブルへ向いた。


「お茶の時間みたいザマスね。ワタクシにもいただけるザマスか?」


「もちろん!」


 シノが即答する。


 ライナーも立ち上がりかけたが、四足で立つマダムベルを見て動きを止めた。


「旦那様」


「どうした?」


「お茶をご用意することはできますが……どのような器をお出しすればよろしいでしょうか」


 レスト侯も答えに詰まった。


 器を地面に置くなどあまりに無礼である。


 しかし通常の茶器を、そのまま差し出すわけにもいかない。


「あら。人間のマナーなど、大したことではないザマス」


 マダムベルの身体を、淡い光が包み込んだ。


 艶やかな毛並みが光の中へ溶け、四本の脚が形を変えていく。


 光が収まると、そこには気品ある一人の女性が立っていた。


 長い髪に、切れ長の目。


 優美な装いには、神獣の姿と同じ高貴さが漂っている。


「これで問題ないザマスね」


「人になった!」


 シノが目を輝かせる。


「上位の神獣なら、これくらいはできて当然ザマス」


「僕もやる!」


 バッくんが身体へ力を込める。


「ぬぬぬぬ……人になれー!」


 しかし、何も起こらなかった。


「……あれ?」


「あなたにはまだ早いザマスよ」


「もう一回!」


「無理ザマス」


「できるもん!」


 再び力を込め始めたバッくんを、リーゼリアがそっと抱き上げた。


「バッくん様は、そのままでも十分かわいらしいですよ」


「そうかな?」


「ええ」


 リーゼリアは膝の上へ乗せたバッくんの背中を、ゆっくりと撫で始めた。


「気持ちいい……」


 バッくんは早くも人化を諦めたらしく、目を細めてリーゼリアの腕へ身を預ける。


「ライナー!」


 レスト侯が声を上げる。


「ただいま」


 ライナーは一礼すると、すぐに新しい茶器を用意した。


 人の姿となったマダムベルの前には紅茶と焼き菓子。


 リーゼリアの膝に収まったバッくんの前には、飲みやすい深さの器と、少し多めの菓子が置かれた。


「さすがザマスね」


「光栄にございます」


 マダムベルは優雅にカップを持ち上げ、紅茶を一口含んだ。


「悪くないザマス」


「僕のお菓子もおいしいよ!」


 バッくんはリーゼリアに撫でられながら、機嫌よく菓子を頬張っている。


 やがてマダムベルは、カップを静かに受け皿へ戻した。


 その視線が、リーゼリアへ向く。


「もう問題ないザマスね」


「本当ですか?」


 リーゼリアが目を見開く。


「悪夢の残滓は、きれいに消えているザマス。眠りも心も、すでに安定しているザマスよ」


 レスト侯の表情に、深い安堵が広がった。


「では、リーゼリアは……」


「完治したと考えてよいザマス」


 レスト侯は立ち上がると、改めてマダムベルへ深く頭を下げた。


「娘をお救いいただき、何と感謝を申し上げればよいか……」


「ワタクシは、するべきことをしただけザマス、それに夢を食べたのはこの子ザマス」


「ちょっと辛かったけどねー」


「それでも、我が家にとっては何物にも代えがたいご恩です」


 神獣の力だけでなく、リーゼリアの状態を一目で見抜いたマダムベルの見識にも、レスト侯は感服していた。


「ただし、神殿での検診には今後も行くザマスよ」


「もう治っているのに?」


 シノが首を傾げる。


「急に通わなくなれば、神殿の者が不審に思うザマス」


 マダムベルは指を一本立てた。


「人間には、人間の手順というものがあるザマス。少しずつ快方へ向かっているように見せ、神殿の判断で治療を終えるのが一番穏便ザマスよ」


「そこまでお考えくださっているとは……」


 レスト侯は再び頭を下げた。


「感服いたしました。必ず、そのようにいたします」


「よろしいザマス」


 マダムベルは満足そうに頷いた。


 その間もバッくんは、リーゼリアの膝の上ですっかりくつろいでいる。


「バッくん様、ふわふわですね」


「もっと撫でてもいいよ」


「では、遠慮なく」


「えへへ……」


 その様子を眺めていたマダムベルの表情が、ふと真剣なものへ変わった。


「さて。今日はその娘の様子を見に来ただけではないザマス」


「何かあったの?」


 シノが尋ねる。


「中央神殿へ行くそうザマスね」


「どうして知ってるの?」


「神獣には、神獣なりの知り方があるザマス」


 マダムベルは、まっすぐシノを見つめた。


「中央神殿で、何かが動こうとしているザマスよ」


 レスト侯とマルナの表情が変わる。


「危険があるということでしょうか」


「まだ、そうとは限らないザマス。ただ――」


 マダムベルは隣のバッくんへ目を向けた。


 先ほどまで菓子に夢中だったバッくんも、今は落ち着かない様子で鼻を動かしている。


「あの場所から、古い何かの気配がするザマス」


「古い何か……?」


「シノを待っている何かが、あそこにあるザマスよ」


 静まり返った居間に、マダムベルの声だけが響いた。

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