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ヴェルク教授の特別授業

 翌朝。


 王立魔導学園、歌唱魔導科の実習室。


 授業を始めようとしていた担当教授は、教室の後方に座る見慣れた人物へ、戸惑いを隠せない視線を向けていた。


「ヴェルク教授。本日は、こちらへどのようなご用件で?」


「譜式学の観点から、歌唱魔導をより効率化できないかと考えまして」


 ユリアンは膝の上に記録帳を置いたまま、穏やかに答えた。


「そのためのサンプルとして、実際の歌唱をいくつか拝見したいのです」


「それならば、事前に一言いただければ……」


「事前に知らせてしまえば、学生たちが普段とは違う歌い方をしてしまうかもしれませんから」


「あなたが後ろで見ている時点で、普段どおりに歌えるとも思えませんが」


「私は気にしませんよ」


「学生たちが気にするのです」


 担当教授が小さく息をつく。


 ユリアンが記録帳を開こうとした拍子に、上着の内側から銀色の鎖がわずかに覗いた。


「おや、ヴェルク教授。懐中時計ですか?あなたが持つなんて珍しい」


「ええ。この間の教授会の遅刻を学園にえらく咎められまして……」


「それは災難でしたね」


「ええ。次は減俸もあり得ると脅されました」


「それは脅しではなく、正当な注意では?」


「そうとも言いますね」


 ユリアンは何気ない仕草で鎖をつまむと、その先にあるものを上着の内側へ素早く収めた。


「それより、そろそろ授業を始めましょう。普段どおりの歌唱を拝見したいので」


「……分かりました。授業の妨げにならない範囲でお願いいたします」


「もちろんです」


 ユリアンは微笑み、記録帳へ視線を落とした。


「それでは、昨日の続きから始めます」


 担当教授の声に、学生たちが一斉に姿勢を正す。


 今日の課題は、初級風唱の安定した発動だった。


 一人目の学生が歌唱台へ進み出て、短い譜式を歌い始める。


 音程は大きく外れていない。


 譜式も正しく覚えている。


 しかし、生み出された風は途中で形を崩し、実習室の半ばまで届かずに消えてしまった。


「もう一度」


 担当教授が声をかけようとしたところで、ユリアンが先に口を開いた。


 学生が緊張した顔で振り返る。


「二節目の終わりで、息を使い切っています」


「息を……ですか?」


「最後まで歌い切ろうとして、最初の一音へ力を入れすぎています。声量を少し落としてください」


「でも、小さな声では魔導の威力も弱くなるのでは……」


「歌唱魔導を発動させるのは、声の大きさではありません。譜式の流れです。まずは最後まで途切れさせないことを意識してください」


「はい」


 学生は深く息を吸い、再び歌い始めた。


 先ほどよりも柔らかな。まずは最後まで途切れさせないことを意声だった。


 しかし、歌声に沿って組み上がっていく譜式には、先ほどまでの揺らぎがない。


 最後の一節を歌い終えた瞬間、細い風の帯が生まれた。


 風は形を崩すことなく、実習室の端まで駆け抜ける。


「できた……」


「今の感覚を覚えておいてください。声を張ることと、譜式へ力を通すことは別です」


「はい! ありがとうございます、ヴェルク教授!」


 学生が嬉しそうに頭を下げた。


 ユリアンは小さく頷き、記録帳へ筆を走らせる。


 二人目の学生には、子音へ力を入れすぎていると指摘した。


「言葉を明瞭にしようとするあまり、そこで歌の流れが切れています。子音は短く、母音へマナを乗せてください」


 助言を受けた学生が歌い直す。


 先ほどは発動直後に揺らいでいた光球が、今度は安定した形を保ったまま宙へ浮かび上がった。


 三人目の学生は、譜式を正確に追おうとするあまり、音を一つずつ区切っていた。


「音を間違えないように歌っているのですが……」


「譜式を正確に歌うことと、譜式に縛られることは違います」


 ユリアンは記録帳から顔を上げた。


「多少音程が揺れても、歌の流れが保たれている方が譜式は安定します。歌は、音を順番に並べただけのものではありませんから」


「流れを意識する……」


「ええ。言葉ではなく、一つの旋律として捉えてください」


 学生がもう一度歌う。


 今度は音と音の間が滑らかにつながり、展開された譜式も最後まで形を崩さなかった。


 実習室から小さな歓声が上がる。


 最初はユリアンの存在に身構えていた学生たちも、いつしか期待を込めた目で彼を見るようになっていた。


 担当教授も、感心したように腕を組む。


「譜式学では、そのように歌唱を捉えるのですね」


「譜式の構造を理解すれば、どこへ力を使い、どこを流すべきかも見えてきます。歌唱魔導科とは入口が違うだけで、目指すところは同じですよ」


「さすがは、元・歴代最高総合点保持者。神童ユリアン・ヴェルクと呼ばれただけのことはありますね」


「いいえ」


 ユリアンは静かに首を振った。


「私はもう、童ではありませんし」


「それは……まあ、確かに」


 担当教授が返答に困る。


 ユリアンはわずかに笑うと、次に歌唱台へ立った学生へ視線を向けた。


「それに、今はもういるじゃありませんか」


「何がです?」


「新たな神童が」


 その視線の先には、姿勢を整えるエルンがいた。


「エルン・ファルク君ですか」


「ええ」


 ユリアンは、どこか嬉しそうに微笑んだ。


「私の記録を、見事に塗り替えてくれました」


 教室中の視線が集まり、エルンがわずかに顔をしかめる。


「余計なことを言わないでください」


「事実を述べただけですよ」


「その事実を、皆の前で言う必要はないでしょう」


 学生たちの間から笑いが漏れた。


 エルンは諦めたように息を吐くと、正面を向いた。


 一度、深く呼吸する。


 そして歌い始めた。


 澄んだ歌声が、実習室の中へ伸びていく。


 音程は安定し、譜式の展開にも淀みがない。


 必要以上に力まず、それでいて声には確かな芯が通っている。


 エルンの周囲に集まった光が、歌の流れに沿って滑らかに形を変え始めた。


「やはり素晴らしい」


 担当教授が小さく呟く。


 ユリアンは答えなかった。


 それまで記録帳へ走らせていた筆が、不意に止まっていた。


「……」


 ユリアンはエルンから目を逸らさぬまま、上着の胸元へそっと指先を添えた。


 その目が、わずかに細められる。


「ヴェルク教授?」


「静かに」


 担当教授の声を、ユリアンが小さく制した。


「最後まで歌わせてください」


 エルンの歌声が、さらに高く伸びていく。


 展開された譜式は乱れることなく完成し、鮮やかな光となって標的へ放たれた。


 光は狙いどおり中央を射抜き、実習室内に感嘆の声が上がる。


 だが、ユリアンは標的を見ていなかった。


 歌唱を終えたエルンだけを、じっと見つめている。


「ヴェルク教授?」


 エルンが振り返った。


「何か問題がありましたか?」


「いいえ」


 ユリアンは胸元から手を離し、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「むしろ、非常に興味深い歌い方です」


「そうですか?」


「ええ。エルン君、もう一度、同じ譜式を歌ってもらえますか?」


「構いませんが……」


 ユリアンは記録帳の新しい頁を開いた。


「今度は、ハルム村でシノさんと練習していた時と同じ感覚でお願いします」


 エルンの表情が変わる。


「どうして、それを?」


「まずは歌ってみてください」


 ユリアンは微笑んだまま、筆を構えた。


 その視線は、次に始まる歌を待ちわびる研究者のものだった。

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