あれから
王立魔導学園の正門前で、馬車がゆっくりと止まった。
窓の外では、夕暮れの空を背に、学園の尖塔が長い影を落としている。
「着きましたよ」
ユリアン・ヴェルク教授は荷物を手に取ると、向かいに座るエルンへ視線を向けた。
「もう遅いですね。エルン君、シノさんをレスト邸まで送り届けてください」
「分かりました」
「先生は帰らないんですか?」
シノが尋ねると、ユリアンは学園の建物を見上げた。
「私はもう少し、研究室でやることがあります」
「今日はいっぱい動いたし休んだほうがいいのに」
「そうしたいのは山々ですが、今日見たものを忘れないうちに記録しておきたいんです」
そう答えながらも、その表情はどこか楽しそうだった。
「では、シノさん。またいずれ詳しく話を聞かせてください」
「はい。先生も遅くなりすぎないでね」
「善処します」
ユリアンが馬車を降りる。
扉が閉じられ、御者の声とともに馬車は再び走り始めた。
正門をくぐっていく教授の姿が、少しずつ遠ざかっていく。
やがて見えなくなると、車内にはシノとエルンだけが残った。
しばらく、車輪が石畳を叩く音だけが続く。
シノは窓の外に流れていく学園を眺めてから、向かいに座るエルンへ顔を向けた。
「ねえ、エルン」
「なんだ?」
「学園はどう?」
「どうって……何がだ?」
「楽しい?」
エルンは少し意外そうな顔をした。
「まあ、退屈はしてないな」
「入学試験、一番だったんでしょ?」
「……誰から聞いたんだ」
「レスト侯。歴代で一番の点数だったって」
「そこまで話したのか……」
エルンが困ったように額へ手を当てる。
「すごいね、エルン」
「今となっては、俺がすごかったのかも怪しいけどな」
「どうして?」
「ハルム村で、ずっとシノと歌唱魔導を練習していただろ」
「うん」
「あれが普通だと思っていたんだ」
エルンは窓の外へ目を向けた。
「王都へ来て、ようやく分かった。シノの力は、やっぱり異質なものだったんだって」
シノが不思議そうに首を傾げる。
「私、そんなに変かな?」
「魔力がないのに歌唱魔導を使って、今では神獣まで呼んでるんだぞ」
「でも、その……召喚だっけ?は私にもよく分からないよ」
「ああ。ハルム村にいた頃は、俺も知らなかった。シノにあんなことまでできるなんてな」
エルンは、懐かしそうに小さく笑った。
「何度もシノの魔力を測ろうとしたよな」
「したね。変な魔導具まで持ってきて」
「変な魔導具じゃない。ファルク家にあった由緒正しい測定器だ」
「でも壊れたよ?」
「だからあれは気にするな」
「院長先生、怒ってたね」
「『シノで実験するな』ってな」
マルナの厳しい声を真似るエルンに、シノが笑った。
「結局、教授たちも神殿も、国も同じことをしようとしている」
「私の力を調べること?」
「ああ。なら、俺に分からなくて当然だったわけだ。今となってはな」
エルンはそう言って笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「ただ、召喚については慎重にした方がいい」
「歌わない方がいい?」
「そうじゃない。シノの歌で救われた人がいる。それを否定するつもりはない」
エルンはまっすぐシノを見る。
「でも、この国では召喚は奇跡に近い技だ。シノ自身にも何が起こるか分からないなら、なおさら一人で決めるべきじゃない」
「……うん」
「歌う前に、俺たちに相談してくれ」
「エルンにも?」
「当然だろ」
その答えに、シノは少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、またエルンが『歌え』って言ってね」
「だから、あれは魔獣に襲われていたからだ」
「でも、あれから始まったんだよ」
「……そう言われると、責任を感じるな」
「責任?」
「俺が何を目覚めさせたんだろうって」
「私、寝てないよ?」
「そういう意味じゃない」
昔と変わらないシノの返事に、エルンは呆れながらも笑った。
「分かった」
レスト邸に着いた頃には陽はとうに暮れていた。
扉が開くと、玄関前には執事のライナーが立っていた。
「お帰りなさいませ、シノ様、エルン様」
「ただいま、ライナーさん」
「ただいま戻りました」
二人の姿を確かめ、ライナーはわずかに表情を緩めた。
「旦那様がお待ちでございます」
「レスト侯が?」
「はい。ご帰宅が予定より遅かったため、心配なさっておられました」
シノとエルンは顔を見合わせた。
「お祭り、思ったより長くなっちゃったから……」
「学園に抗議が行かなければいいな……」
二人はライナーに案内され、屋敷の応接間へ向かった。
扉が開く。
部屋ではレスト侯とマルナ院長が待っていた。
「ただいま帰りました!」
シノの元気な声を聞き、レスト侯は安堵したように息をついた。
「お帰り、シノ殿。エルンもご苦労だった」
「ご心配をおかけしました」
「まったくだ。少々帰りが遅かったので、何かあったのではないかと心配したぞ」
「ごめんなさい」
シノがしゅんとして頭を下げる。
「いや、二人とも無事ならばよい。それで、どうしてこれほど遅くなったのだ?」
「あのね、村でお祭りが……始まっちゃいました」
「祭り?」
「うん。畑が元気になって、村のみんながすごく喜んでくれて」
シノは身振りを交えながら、農村で起きた出来事を話し始めた。
作物が育たず、村人たちが困っていたこと。
古い案山子へ向けて歌ったこと。
そして、歌に応えるように白い狐の神獣が現れたこと。
「それでね、コンちゃんが畑の中を走ったら、作物が一気に元気になって!」
「……コンちゃん?」
レスト侯が聞き返す。
「おそらく神獣ホーリーフォックスです」
エルンが補足した。
「豊穣をもたらす神獣だと、ヴェルク教授が言っていました」
「豊穣の神獣……」
レスト侯は、すぐには言葉を継げなかった。
暁夢獏に続き、今度は飢えに苦しむ農村へ豊穣をもたらす神獣。
つい先日、王宮でシノについて話し合ったばかりだというのに、その少女はまた新たな奇跡を起こしていた。
「レスト侯?」
「ああ、いや……少し驚いてな」
「コンちゃん、すごく綺麗でした。尻尾なんかもう、モフモフで」
「そうか」
シノは、自らが成し遂げたことの大きさなど知らぬ様子で笑っている。
この少女は、ただ困っている者を助けようと歌っただけなのだろう。
だが、周囲はそうは見ない。
学園も、神殿も、そして王宮も。
これほどの奇跡を繰り返す少女を、もはや放ってはおかない。
その力を知ろうとする者。
利用しようとする者。
あるいは、恐れる者。
シノが奇跡を起こすたび、彼女を取り巻く思惑もまた増えていく。
――守らねばならない。
レスト侯の胸に、その思いがこれまで以上にはっきりと根を下ろした。
シノが何者であろうと、本人の知らぬところで勝手に利用されることだけは防がなければならない。
少なくとも、自らの庇護下にいる間は。
「それで村を挙げての祭りになり、帰りが遅れたというわけか」
「はい。村のみんなが、どうしても一緒にって」
「事情を聞けば、叱ることでもない。村人たちにとっては、待ち望んでいた祝いの日だったのだろう」
シノがほっと胸を撫で下ろす。
「しかしこの件は他言無用だ。王宮など必要なところへは私が報告する。エルン、ヴェルク教授にもくれぐれも取り扱いは慎重にと」
「承知しました」
その隣で、先ほどから黙っていたマルナがゆっくりと立ち上がった。
「院長先生?」
「少し失礼します」
マルナは自らの荷物へ向かうと、中から見慣れた分厚い本を取り出した。
『神獣大全』
「でた!院長先生の大全……」
シノが目を見張る
「教授会の時もそうだったが常に持ち歩いているらしい」
エルンが小声で答える。
マルナは慣れた手つきで頁をめくっていく。
「白狐……豊穣……」
やがて、ある頁で手が止まった。
そこに記された内容を、上から下までじっくりと読み込む。
そして静かに本を閉じると、窓際へ歩み寄った。
窓の外を見渡し、農村があると思われる方角へ身体を向ける。
「ライナー」
レスト侯が声をかけると、すべて心得ていたかのように、ライナーが小さな敷物を持ってきた。
「失礼いたします、マルナ様」
それをマルナの足元へ、そっと敷く。
「ご厚意、感謝いたします」
マルナは一言礼を述べると、その上へ膝をついた。
そして両手を合わせ、農村の方角へ深々と頭を下げる。
「ははー……」
「院長先生?」
「シノは少し黙っていなさい」
「はい」
レスト侯が堪えきれず、口元を緩めた。
「旦那様、よろしいでしょうか」」
ライナーが銀の盆を持ってくる。
その上には、一通の封書が載せられていた。
「先ほど、中央神殿より使者が参りました」
「中央神殿から?」
マルナが振り返る。
「マルナ院長宛てでございます」
ライナーから封書を受け取ったマルナは、表に押された神殿の印章を確かめた。
封を切り、文面へ目を通す。
「これは……」
「何て書いてあるの?」
シノが横から覗き込もうとする。
「シノ、近いですよ」
「ごめんなさい」
マルナは改めて文面を読み直した。
「二日後、中央神殿へお越しいただきたいとのことです」
「院長先生が?」
「ええ。それから――」
マルナがシノへ目を向ける。
「シノも一緒に連れてきてほしい、と書かれています」
「私も?」
シノはきょとんとした。
「中央神殿が、私に何の用だろう?」
「詳しい用件までは記されていません」
マルナの表情に、わずかな警戒が浮かぶ。
レスト侯は手を差し出し、招待状を受け取った。
文面を確認する。
差出人は、あくまでも中央神殿。
王宮の名は、どこにも記されていない。
王宮からシノを直接招けば、周囲に余計な憶測を生む。
そこで神殿出身のマルナ院長を正式な招待客とし、シノをその同行者として呼ぶ形にしたのだ。
「……中央神殿を経由したか」
レスト侯が小さく呟く。
「何かご存じなのですか?」
マルナに問われ、レスト侯は招待状を返した。
「少しな。だが、ずいぶんと慎重な手を選んだものだ」
シノが不思議そうに首を傾げる。
「危ないところなの?」
「いや。そういう意味ではない」
レスト侯は、シノを安心させるように微笑んだ。
「二日後ならば、旅の疲れを取る時間もある。今日はゆっくり休むといい」
「うん」
シノは頷いたものの、まだ不思議そうに招待状を眺めていた。
その招待の背後で王宮が動いていることなど、知るはずもなかった。
夜も更けたころ。
王立魔導学園の研究棟には、まだ一室だけ明かりが残っていた。
ユリアンは机に向かい、農村で目にした出来事を記録していた。
シノの歌。
歌が終わると同時に現れた白銀の狐。
そして、枯れかけていた大地に起きた変化。
記憶が鮮明なうちに、わずかな違和感も残さず書き留めておかなければならない。
だが、いくら筆を走らせても、肝心な部分だけは言葉にならなかった。
「やはり、実際に測らなければ……」
小さく呟き、ユリアンは筆を置いた。
そこでようやく、机の隅に見慣れないものが置かれていることに気づいた。
両手で抱えられるほどの木箱だった。
研究室を出る前には、確かになかったものだ。
箱には厳重な封が施されていたが、送り主の名はどこにも記されていない。
ユリアンはしばらくそれを見つめたあと、机の引き出しから小さな鍵を取り出した。
封を解き、慎重に蓋を開く。
「……これは」
箱の中を見た瞬間、ユリアンは驚きを隠せなかった。
やがて、その口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。
「ついに……」
静まり返った研究室に、その声だけが小さく響いた。




