御前会議1
その瞬間、会議は正式に始まった。
アイザック王は、まずレスト侯から視線を逸らさなかった。
「詳しく聞こう」
「はっ」
オルヴァン・レスト侯は、静かに一礼した。
この場にいる誰もが、すでに報告書には目を通している。
だが、報告書に書かれた文字と、実際に見た者の言葉は違う。
ましてや、相手は神獣である。
紙の上で理解できる出来事ではなかった。
「我が娘リーゼリアは、長く悪夢に苦しめられておりました」
レスト侯の声は、普段と変わらず落ち着いていた。
だが、その奥には、父としての深い疲労と安堵が滲んでいる。
「原因は不明。医師も、神官も、魔導士も、根本的な解決には至りませんでした。眠れば怯え、起きていても衰弱する。親として、ただ見守ることしかできぬ日々が続いておりました」
ライラメス司祭が、わずかに目を伏せる。
神殿にも相談が来ていたのだろう。
その表情には、悔いに似た色があった。
「そこへ、シノ殿が来られた」
レスト侯は続けた。
「シノ殿は娘の手を取り、歌いました」
「その歌が、教授会でも報告された異界の歌か」
王が問う。
「おそらくは」
「おそらく?」
「私には、その歌がどこの言葉であるか判別できませぬ。ただ、この国の歌でないことだけは分かりました」
ウラバク学園長が、静かに頷いた。
「教授会の記録にも同様の記述があります。既存の歌唱魔導体系には該当しない旋律、言語、発声。少なくとも学院に残る分類には含まれません」
「未知の歌唱魔導、ということか」
グランツ公爵が低く言った。
「そう断じるにも、まだ早いでしょう」
ウラバクは即座に答えた。
「魔導と呼ぶには、あまりにも既存の法則から外れております。本人からの魔力反応は確認されず、譜式も展開されない。にもかかわらず現象は起きている」
「現象が起きているなら、力であることに違いはない」
「否定はいたしません」
ウラバク学園長は、淡々と頷いた。
「ただし、その力の正体を見誤れば、扱いを誤ります」
グランツは不満げに眉を寄せたが、それ以上は続けなかった。
王は再びレスト侯を見る。
「その歌の後、何が起きた」
「悪夢が晴れました」
レスト侯は短く言った。
「娘は、深い眠りの中で笑いました。悪夢に怯えていた娘が、初めて穏やかな朝を迎えたのです」
そこで初めて、レスト侯の声がわずかに揺れた。
「その傍らに、神獣と思われる存在がいました」
部屋の空気が、さらに重くなる。
「美しい毛並みの神獣でした。大全を引く限り獏かと思われます。娘の悪夢を食み、静かにその場に在りました」
「それが、報告書にあるバっくんか」
「はい」
レスト侯は深く頷いた。
「シノ殿が、そのように呼びました」
ライラメス司祭が、そこで口を開く。
「その名は、シノ殿が与えたものですか」
「はい。少なくとも、私の見た限りでは」
「名を与えられた神獣は、どのような様子でしたか」
問いは静かだった。
しかし、その言葉に、神殿の者としての緊張が宿っていた。
レスト侯は少しだけ考えてから答える。
「喜んでおりました」
「喜んでいた?」
「はい」
意外な答えだったのか、ライラメス司祭が目を細める。
レスト侯は続けた。
「畏怖されることを望んでいたようには見えませぬ。供物を求めたわけでも、服従を迫ったわけでもない。ただ、シノ殿から名を呼ばれることを、喜んでおりました」
「神獣が、人の子から名を授かることを喜んだ、と」
「そのように見えました」
ライラメスは沈黙した。
その横で、グランツが椅子の肘掛けへ指を置く。
「神獣が喜んだかどうかは、この際問題ではない」
レスト侯の視線が、ゆっくりとグランツへ向いた。
「問題ではないと?」
「問題は、その少女が神獣に干渉できるという事実だ」
グランツの声には迷いがなかった。
「麒麟。獏。暁夢獏。報告書を信じるならば、すでに複数の神獣が関わっている。さらに教授会では、再召喚に関わる発言もあったと聞く」
その言葉を受け、王の視線がウラバクへ移る。
「ウラバク」
「はい」
「教授会での報告を」
学園長ウラバクは、手元の書類を開いた。
「教授会において確認された要点は三つです」
低く、よく通る声だった。
「第一に、シノ殿には一般的な魔力測定において、魔力反応が確認されておりません」
グランツの眉が動く。
「魔力ゼロ、無魔力者か」
「はい」
ウラバクは頷く。
「第二に、その状態でありながら、火唱に類する現象、湖の浄化、病の鎮静、そして神獣顕現が複数確認されています」
「矛盾しているな」
「現行理論に照らせば、矛盾しています」
学園長は淡々と言った。
「第三に、麒麟の再顕現について、本人の証言があります」
「本人の証言?」
王が問う。
「はい。シノ殿は、以前現れた麒麟を、後日ふたたび呼んだと述べました」
部屋の空気がわずかに揺れる。
神獣が現れる。
それだけでも十分に異常だ。
だが、一度現れた神獣をふたたび呼ぶ。
それは、奇跡という言葉だけでは収まらない。
「再現性がある、ということか」
グランツが低く呟く。
「可能性はあります」
ウラバクは言った。
「ただし、学園として断定はできません。状況の記録が不足しており、本人もその仕組みを理解しているわけではない」
「理解していなくとも、できるのなら同じことだ」
「同じではありません、公爵」
レスト侯の声が静かに挟まる。
グランツが見る。
「同じではない?」
「ええ」
レスト侯は頷いた。
「剣を持つ者と、剣で人を斬りたい者は違います」
「詭弁だ」
「いいえ」
レスト侯の表情は変わらない。
「シノ殿は、自分の力を理解しておりません。理解していないものを、国家の道具として扱おうとすれば、最初に壊れるのはあの子です」
「国が壊れるよりはましだ」
グランツの言葉に、室内の温度が一段下がった。
レスト侯の目が、初めて鋭くなる。
だが、口を開いたのは王だった。
「グランツ」
「はっ」
「言葉を選べ」
静かな声だった。
怒鳴ったわけではない。
それでも、グランツは即座に頭を垂れた。
「失礼いたしました」
「そなたの憂慮は分かる。国を守る者として当然だ」
アイザック王はそう言ってから、ゆっくりと続けた。
「だが、国を守るという名で、まだ幼い子を壊してよい理由にはならぬ」
「御意」
グランツは短く答えた。
しかし、その顔にはなお納得しきれぬ色が残っていた。
王はそれを責めなかった。
責めるべきではないと知っているからだ。
グランツ公爵は冷酷な男ではない。
ただ、国が滅びる可能性を常に考える立場にいる。
誰かが最悪を考えねばならない。
それもまた、国を支える役目だった。
「ライラメス」
「はい、陛下」
「神殿の見解を聞こう」
神殿司祭ライラメスは、ゆっくりと顔を上げた。
「高位神官ゼヴランより、同教授会での詳細な報告を受けております」
「うむ」
「結論から申し上げれば、神殿としても断定は避けるべきと考えます」
「使徒ではない、と?」
「使徒であるとも、使徒でないとも申し上げられません」
グランツがわずかに息を吐く。
しかしライラメスは続けた。
「ただし、異端と断じる根拠もまたございません」
その言葉に、レスト侯の表情がわずかに緩む。
「ゼヴランの報告では、シノ殿は神を騙り、自らを崇めさせようとしたわけではない。神獣を支配しようとしたわけでもない。むしろ、困っている者のために歌った、とあります」
ライラメスは一拍置いた。
「神殿が最初に見るべきは、奇跡の大きさではありません」
王が目を細める。
「では、何を見る」
「その奇跡が、何へ向けられているかにございます」
ライラメスは静かに答えた。
「癒やしへ向けられているのか。支配へ向けられているのか。救いへ向けられているのか。破壊へ向けられているのか」
部屋の中に、深い沈黙が落ちた。
「現時点で報告されている限り、シノ殿の歌は人を傷つけるために使われておりません」
「だから安全だと?」
グランツが問う。
「いいえ」
ライラメスは首を振った。
「だからこそ、周囲が危ういのです」




