ホーリーフォックスの村祭り
ふわふわの耳。
白銀に近い毛並み。
黄金色の瞳。
そして、背後でふわりと揺れる複数の尾。
それは、文献に記された神獣の姿そのものだった。
「ホーリーフォックス……。」
ユリアンの声が震えた。
シノはぽかんと口を開けたまま、その白狐を見つめる。
「え……。」
「ほんとに……?」
自分が呼んだのか。
歌が届いたのか。
それとも、村の祭りに惹かれて来たのか。
シノ自身にも分からない。
白狐は、きょろきょろと辺りを見回した。
そして次の瞬間、ぱあっと顔を輝かせる。
「おまつり!」
村人たちが固まった。
エルンも固まった。
ユリアンは羽ペンを持ったまま動きを止めた。
白狐は尻尾をぶんぶん振りながら、子どもたちの輪へ飛び込んでいく。
「おまつりー! おまつりー!」
子どもたちは最初こそ驚いていたが、白狐がくるくる回るのを見ると、すぐに歓声を上げた。
「しゃべった!」
「白い狐だ!」
「しっぽいっぱい!」
「かわいい!」
白狐は得意げに胸を張る。
「あっち、ホーリーフォックス!」
「ほーりー?」
「ふぉっくす!」
子どもたちが真似をすると、白狐は嬉しそうに跳ねた。
シノは恐る恐る近付く。
「あ、あの……。」
白狐がくるりと振り向いた。
黄金の瞳がシノを見る。
その瞬間、白狐はさらに嬉しそうに目を輝かせた。
「うたのこ!」
「え?」
「うたのこ、うたった!」
「おまつり、よんだ!」
シノは目をぱちぱちさせる。
「私が……呼んだんですか?」
「おまつりが、よんだ!」
白狐は元気よく答えた。
「うたのこも、よんだ!」
「みんなも、よんだ!」
そう言って、くるりと畑を見渡す。
「だから、きた!」
シノは言葉を失った。
その答えは、あまりにも素直で、あまりにもこの神獣らしかった。
ユリアンは、震える手で手帳へ書き込む。
「命令ではない……。」
「強制召喚でもない。」
「術式による拘束反応もない。」
「場の感情、祭礼行動、歌唱波形……。」
書きながら、彼の瞳が熱を帯びていく。
「これは……召喚ではなく、応答か。」
エルンは、その言葉に息を呑んだ。
「応答……。」
ユリアンは神獣大全を開く。
文献に描かれた白狐と、目の前ではしゃぐ白狐を何度も見比べた。
「私たちは、召喚とは呼び出し、従わせるものだと考えてきた。」
彼の声は、誰に聞かせるでもない独白だった。
「だが、これは違う。」
「彼女は命じていない。」
「神獣が、自ら応じた。」
シノは白狐を見つめていた。
白狐はすでに神々しい雰囲気などどこかへ置き忘れたように、子どもたちと一緒に畑の周りを走っている。
「おまつりー!」
「おまつりー!」
その姿に、村人たちは少しずつ表情を緩めた。
畏れよりも先に、笑いが込み上げてきたのだ。
「神獣様って……。」
「あんなに元気なのか?」
「子どもみたいだな。」
村長だけは、目に涙を浮かべていた。
「白い狐……。」
「本当に……。」
「本当に、豊穣の使いが……。」
その声に、白狐がぴたりと足を止める。
村長の前まで駆け寄ると、ちょこんと座った。
「おっちゃん。」
「は、はい。」
「おまつり、わすれた?」
村長は返事に詰まった。
白狐は責めるような顔ではなかった。
ただ、不思議そうに首をかしげている。
「わすれたら、さみしい。」
「うた、なくなる。」
「ごはん、さみしい。」
「はたけも、さみしい。」
村長は震える手で胸を押さえた。
「……そうですな。」
「忘れておりました。」
「豊作だから祭りをするのではなく。」
「祭りをして、皆で笑うから、また畑へ向かえたのですな。」
白狐は満足そうに頷いた。
「うん!」
「あっち、わらってるはたけ、すき!」
その言葉と共に、畑へ柔らかな光が広がった。
作物が一瞬で実るわけではない。
枯れた葉が全て戻るわけでもない。
けれど、乾いていた土がわずかに湿り気を帯び、弱っていた芽が空へ向かって背を伸ばす。
まるで畑が、もう一度頑張ろうとしているようだった。
村人たちは息を呑んだ。
「畑が……。」
「光ったぞ。」
「芽が、立った……。」
ユリアンは手帳を握りしめる。
「豊穣とは、即時の収穫ではない。」
「大地の再起を促す祝福……。」
「いや、それだけではない。」
彼はシノを見る。
村人たちを見る。
子どもたちと踊る白狐を見る。
「場そのものを変えた。」
「絶望に傾いた村の心を、祭礼によって再接続した。」
その声は、次第に熱を帯びていく。
「これが歌縁……。」
「ヴィンクルム・カントゥス。」
エルンは黙っていた。
彼にとっても、これは初めて見るものだった。
シノが歌い、神獣が現れる。
話には聞いていた。
けれど実際に目の前で見るそれは、想像よりもずっと静かで、ずっと優しかった。
強大な魔法の発動ではない。
支配でも命令でもない。
歌を通じて、誰かと誰かが繋がる。
その繋がりに、神獣が応える。
「シノ……。」
エルンは小さく呟いた。
「お前は、本当に……。」
シノは困ったように笑うしかなかった。
「私も、びっくりだよ。いつもだけど」
その正直な返事に、エルンは思わず笑った。
「だろうな。」
ユリアンはそのやり取りを見つめながら、胸の奥に湧き上がる感情を抑えきれずにいた。
嫉妬ではない。
敗北感でもない。
目の前に、まだ誰も知らない召喚の形がある。
自分にはできない。
それは分かる。
シノという少女だからこそ成立する奇跡。
魔力を持たず、命じず、ただ歌うことで縁を結ぶ。
だが、だからといって研究できないわけではない。
歌縁を真似る必要はない。
歌縁から学べばいい。
召喚術は、まだ先へ進める。
呼び出し、縛り、使役するだけが召喚ではないのなら。
応じてもらうための術式があるのなら。
そこには、まったく新しい体系が開けるかもしれない。
ユリアン・ヴェルクの目に、研究者としての静かな炎が灯った。
「これは……。」
彼は、誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「必ず、記録しなければならない。」
その時だった。
「あっ!」
白狐が何かを見つけて耳を立てた。
視線の先には、子どもが手にした木皿がある。
昼食で振る舞われた、甘く煮た皮で包んだ握り飯。
白狐の瞳が、星のように輝いた。
「それ!」
子どもがきょとんとする。
「これ?」
「それ!」
白狐は尻尾をぶんぶん振りながら跳ねた。
「あっちにもそれちょうだーい!」
神聖な沈黙が、一瞬で砕けた。
村人たちはぽかんと口を開ける。
エルンも、ユリアンも、完全に言葉を失った。
シノだけが、頬を引きつらせながら小さく呟く。
「……お腹、空いてたんですね。」
白狐は胸を張った。
「おまつり、ごはん!」
「だいじ!」
子どもたちが笑い出す。
「神獣様、ごはん食べるの?」
「食べる!」
「いっぱい?」
「いっぱい!」
わあっと歓声が上がる。
村の女たちが慌てて集会所から料理を運んでくる。
白狐は子どもたちに囲まれながら、嬉しそうに跳ね回った。
「おまつりー!」
「おまつりー!」
「あっちにもそれちょうだーい!」
夕暮れの畑に、笑い声が響く。
案山子たちが風に揺れる。
乾いた村に、久しぶりの祭りが戻っていた。
ユリアンは手帳を開いたまま、しばらくその光景を見つめていた。
そして最後に、震える筆で一行を書き加える。
――ホーリーフォックス。
豊穣を司る神獣。
祭りを好み、甘く煮た揚げ皮の握り飯を強く好む。
その記録を見たエルンは、思わず肩を震わせた。
「教授。」
「それ、学術記録に残すんですか?」
ユリアンは真顔で頷いた。
「重要な生態情報です。」
シノは耐えきれずに笑った。
その笑い声に、白狐が振り向く。
ホーリーフォックスは、ぺろりと平らげると、満足そうに大きな尻尾を揺らした。
「おいしかったー!」
そして、何かを思い出したようにシノの前へぴょんと跳ねる。
「うたのこ!」
「ん?」
ホーリーフォックスは自分の胸を指差した。
「なまえ!うたのこともだちいっぱい。あっちにはわかる。」
「え?」
「リンちゃん!」
「バッくん!」
「マダムベル!」
「あるー!」
シノは「ああ」と納得したように頷く。
「名前が欲しいの?」
「あっちもほしー!」
元気いっぱいの返事だった。
シノは白い毛並みを眺めながら少しだけ考える。
「白い狐さんだから……」
「うーん……」
シノはホーリーフォックスの目を見つめ、にっこり笑った。
「じゃあ……コンちゃん!」
一瞬、世界が静まり返った。
ホーリーフォックスは目をぱちぱちと瞬かせる。
「……コンちゃん?」
「うん。」
「コンちゃん。」
もう一度優しく呼ばれる。
次の瞬間、ホーリーフォックスの金色の瞳が輝いた。
「コンちゃん!」
嬉しそうにその場を飛び跳ねる。
「コンちゃん! コンちゃん!」
ふわり、と白い毛並みが淡く光を帯びた。
柔らかな光がシノとホーリーフォックスを包み込む。
「えっ……?」
シノが目を丸くする。
ユリアンも思わず息を呑んだ。
「これは……。」
光はすぐに消えた。
ホーリーフォックスは嬉しそうに尻尾を揺らしながら、シノを見上げる。
「ありがとう。」
「シノ。」
その場の空気が止まった。
「え?」
シノが首を傾げる。
「今……。」
エルンが目を見開く。
「『うたのこ』じゃなくて……。」
ホーリーフォックスは満面の笑みを浮かべた。
「シノ!」
「リンちゃんも!」
「バッくんも!」
「マダムベルも!」
「みーんな、シノ!」
シノは照れくさそうに笑う。
「そっか。」
「よろしくね、コンちゃん。」
「よろしく!」
コンちゃんは嬉しそうに飛びつき、シノへ頬をすり寄せた。
その様子を見ていたユリアンが、小さく呟く。
「……なるほど。」
「名を授けた瞬間、神獣との関係性そのものが変化した。」
「神獣は"うたのこ"ではなく、一人の『シノ』として認識したのですね……。」
ユリアンは眼鏡の奥で静かに微笑む。
「やはり、歌唱召喚士の名付けには、我々の知らない意味があるようです。」
「シノ―!」
「はい?」
「もっと、うた!」
シノは少し困った顔をしたあと、畑と村人たちを見渡した。
誰もが笑っていた。
不作はまだ解決していない。
明日からも畑仕事は続く。
鹿や猪への対策も、水不足への備えも必要だろう。
けれど、村人たちの顔にはもう、朝のような諦めはなかった。
シノは小さく頷く。
「はい。」
「じゃあ、もう一回だけ。」
白狐が跳ねる。
「おまつり!」
子どもたちが手を叩く。
大人たちも輪に加わる。
村長が涙を拭いながら笑う。
シノは夕暮れの畑で、もう一度歌い始めた。
「♪村の鎮守の神様の――」
歌声が、案山子の並ぶ畑に広がっていく。
その日。
不作に沈んでいた小さな農村に、忘れられていた祭りが戻った。
そしてユリアン・ヴェルクは、確かに目撃した。
命じる召喚ではない。
縛る契約でもない。
歌と心が縁を結び、神獣が自ら応える奇跡。
彼はその名を、静かに手帳へ記した。
歌縁。
ヴィンクルム・カントゥス、と。




