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遠き落日

 その夜。


 レスト邸のゲストルームは、静寂に包まれていた。


 窓の外には、王都の灯りが星のように瞬いている。


 シノは大きなベッドへ仰向けになり、ぼんやりと天井を見つめていた。


 柔らかな寝具。


 ふかふかの枕。


 孤児院では考えられないほど立派な部屋。


 それなのに、少しも眠れそうになかった。


 昼間、マルナ院長に言われた言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


『お父さんとは……何歳くらいまで、一緒に暮らしていたの?』


 私は迷わず答えた。


『十二歳になるまで。』


 でも。


『あなたが孤児院へ来たのは、五歳くらいだったのよ。』


「……。」


 おかしい。


 父と暮らした記憶も。


 孤児院で育った記憶も。


 どちらも夢なんかじゃない。


 どちらも、本当にあったことだと思える。


「どうして……。」


 思い出そうとすると、記憶は霧の向こうへ隠れてしまう。


 覚えているのは。


 病室の白い天井。


 優しく笑う父。


 窓から見えた夕焼け。


 画面に映った世界中の景色。


 そして。


 世界中の歌。


 それ以外は、不思議なくらい曖昧だった。


 友達はいたのかな。


 毎日、何を話していたんだろう。


「……思い出せない。」


 歌だけは覚えている。


 お父さんが教えてくれた歌。


 一緒に口ずさんだ歌。


 知らない国の、不思議な言葉の歌。


 歌だけが、昨日のことのようにはっきり残っていた。


 そして、もう一つ。


 ふと、小さな記憶が浮かぶ。


「あ……。」


 あの日。


 村の屋根から落ちて、頭を打った日。


 目を覚ました、その瞬間。


 誰かの声が聞こえた気がした。


『さん、はい。』


「……。」


 それだけは覚えている。


 でも。


 誰の声だったのかは思い出せない。


 女の子の声。


 優しくて。


 どこか懐かしい声。


「誰だったんだろう……。」


 村の人ではない。


 マルナ院長でもない。


 お父さんでもない。


 顔も思い出せない。


 場所も思い出せない。


 なのに、その声だけが心へ残っていた。


「あの日から……。」


 あの日から、何かが変わった気がする。


 歌えば、不思議なことが起きるようになった。


 リンちゃんたちが現れるようになった。


 みんなが私を見て驚くようになった。


 そして。


 お父の記憶だけが、胸の中にはっきり残っている。


「私は……。」


 ゆっくりと目を閉じる。


「私は、一体誰なんだろう。」


 返事はなかった。


 静かな夜だけが流れていく。


 しばらく考えていたシノは、小さく息を吐いた。


「……分かんないや。」


 今は、考えても答えなんて出ない。


 でも、一つだけ。


 本当に一つだけ、迷わないことがある。


『生まれ変わったら、今度は好きなだけ歌いなさい。』


 父は、確かにそう言った。


「……生まれ変わったら。」


 シノはその言葉を小さく繰り返す。


「私は……どこかで、一度……。」


 病室。


 白い天井。


 夕日に照らされた父の横顔。


 そこから先だけが思い出せない。


 でも。


「私は、生きてる。」


 胸へ手を当てる。


 鼓動が聞こえる。


 息をしている。


 笑って。


 泣いて。


 マルナ院長と暮らして。


 エルンと出会って。


 村のみんなと笑って。


 リンちゃんたちとも友達になった。


 全部、本当だ。


「だったら……。」


 私が誰だったとしても。


 私が何者だったとしても。


 今ここで生きている私は、シノなんだ。


 そのことだけは、きっと間違っていない。


 シノは小さく微笑んだ。


「お父さん。」


 優しい笑顔が脳裏へ浮かぶ。


「私が誰だったとしても。」


「歌だけは、大事にするね。」


 神獣が来ても。


 学園や神殿で問い詰められても。


 世界中のみんなが不思議がっても。


 歌だけは、そばにあるから。


 お父さんが、私へ託してくれた宝物だから。


 その想いを胸に抱いたまま、シノはゆっくりと目を閉じた。


 窓の外では、王都の灯りが静かに揺れている。


 遠い日の夕焼けは、もう霞んで思い出せない。


 それでも、あの日教わった歌だけは、今も優しく心の中で響き続けていた。


 その歌に包まれるように、シノは静かな眠りへ落ちていった。

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