その一歩を踏み出したなら
レスト侯は、ふとエルンへ視線を移した。
「君がファルク家の子息であったな」
突然話を向けられ、エルンが姿勢を正す。
「はい。エルン・ファルクと申します」
「分かってはいたが、こうして面と向かうのは十年ぶりほどか」
レスト侯の口元が、わずかに緩んだ。
「まだ幼い頃、父君に連れられて我が屋敷へ遊びに来ておったな」
エルンは目を見開いた。
「覚えておられたのですか」
「当然だ。君はまだ幼かった。覚えておらぬのも無理はない。」
「こうして見ると、やはりヨハンの息子だ。」
少し間を置き、静かに続ける。
「しかし、歴代最高総合得点とは見事である。」
「ヨハンも生きておれば、涙を流して喜んだであろう。」
エルンは深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
レスト侯はライナーへ目を向けた。
「ライナー。」
「はい。旦那様」
「例のものを。」
ライナーは静かに一礼し、ほどなく一通の古い封筒を持って戻ってきた。
レスト侯はそれをエルンへ差し出す。
「父君から預かっていたものだ。」
エルンは戸惑いながら受け取る。
「父から……。」
「読んでみるといい。」
封を開き、震える手で手紙を広げる。
そこには見慣れた父の筆跡があった。
『レスト侯爵閣下。
あなたのことだ。
私がいなくなれば、すぐにでもエルンへ手を貸そうとするだろう。
だから、一つだけ頼みがある。
あの子が自分の足で歩き始めるまでは、どうかそっと見守ってやってほしい。
あの子は、自分で立てる子だ。
その一歩だけは、父親である私が信じたい。』
文字を追ううち、エルンは唇を噛んだ。
レスト侯は静かに紅茶を口へ運ぶ。
「約束だった。」
「だから私は見守った。」
エルンは手紙をそっと畳む。
レスト侯は穏やかに続けた。
「君の屋敷のリザのことなら案ずることはない。」
エルンが顔を上げる。
「屋敷は今も変わらず守ってくれている。」
「ただ、君が王都へ来てからは屋敷の管理だけでは人と話すことも少なくなった。」
「それではあの者も寂しかろう。」
「週に数日ほど、こちらへ来てもらい軽い仕事を頼んでいる。」
ライナーが微笑む。
「リザ殿には大変助けられております。」
「働いた分の報酬は当然支払っている。」
レスト侯は当たり前のように言った。
「その方が本人も気兼ねなく働けよう。」
エルンは胸が熱くなる。
「……本当にありがとうございます。」
レスト侯は首を横に振った。
「礼には及ばん。」
そして静かに姿勢を正す。
「君は十八になれば正式にファルク家当主となる。」
「それまでは私が後見人を務めよう。」
エルンは驚きながらも、ゆっくり頷いた。
「……よろしくお願いいたします。」
レスト侯は満足そうに頷く。
「うむ。」
そして。
「ライナー。」
「はい。」
「二名だ。」
ライナーが一瞬だけ目を瞬かせた。
「……旦那様?」
「ファルク家の護衛を二名追加する。」
ライナーはすぐに察し、一礼する。
「かしこまりました。」
エルンは思わず立ち上がる。
「侯爵閣下、そこまでしていただく必要は——」
「ある。」
レスト侯は穏やかな口調のまま遮った。
「君はこれからファルク家を継ぐ。」
「それまでは後見人たる私の務めだ。」
少しだけ笑みを浮かべる。
「なあに、お節介な老人の戯れと思ってもらって構わん。」
「何せ、君はこの王都で一歩を踏み出した、君の父君の遺言により私の勝手を許されているのでな。」
エルンは思わず笑みをこぼした。
「……父らしいですね。」
「全くだ。」
レスト侯も珍しく笑った。
その時、応接間の扉が叩かれる。
王宮の使者が一礼し、封蝋の施された書状を差し出した。
「レスト侯爵閣下。陛下より書状を。」
レスト侯は封蝋を見るなり、小さく笑う。
「……耳が早い。」
書状を畳み、使者へ頷いた。
「承った。明朝、登城すると伝えてくれ。」
「はっ。」
使者は退出する。
レスト侯は立ち上がる。
「さて、私は王宮へ向けて支度をするとしよう。」
そう言って応接間を後にした。
静かになった部屋で、エルンはシノを見る。
「シノ。」
「なあに?」
「明日、ユリアン教授の研究室へ来てくれ。」
「え……私も?」
「君の机も用意してあるんだ。」
シノは少し困ったように笑う。
「でも……私、研究なんて分からないよ?」
「大丈夫。」
エルンも笑う。
「教授が来てほしいって言ってる。」
「きっと君にしかできないことがある。」
シノは少し考え、小さく頷いた。
「……うん。」
「迷惑じゃないなら、行ってみる。」
新しい一日が、静かに幕を開けようとしていた。
エルンは静かに立ち上がった。
「それじゃあ、僕はそろそろ失礼するよ。」
シノも立ち上がる。
「うん。また明日ね。」
「ああ。また明日。」
ライナーが一礼した。
「では、ファルク様。私がお送りいたします。」
「ありがとう」
二人は応接間を後にした。
扉が静かに閉まり、足音が遠ざかっていく。
部屋には穏やかな静寂が戻った。
シノはソファへ座り直し、ほっと息をつく。
その様子を見つめていたマルナは、ふと優しく微笑んだ。
「シノ。」
「はい?」
「少しだけ、お話をしてもいいかしら。」
「もちろん。」
シノは首を傾げる。
マルナは少し言葉を選ぶように視線を落とし、それからゆっくりと顔を上げた。
「さっき、教授会で……お父さんから歌を教わったと言っていたでしょう?」
シノは嬉しそうに頷く。
「うん。」
「お父さんはね、世界中を旅してたの。」
「いろんな国の歌を覚えてきて、私によく歌ってくれたんだ。」
その笑顔を見たマルナも、自然と笑みを返す。
「そう……。」
「きっと、とても素敵なお父さんだったのね。」
「うん!」
迷いのない返事だった。
その笑顔は作り物ではない。
心から父を慕っていた子どもの顔だった。
だからこそ。
マルナの胸に、小さな違和感が残る。
(……でも。)
(シノが孤児院へ来たのは、五歳にも満たなかったはず。)
(あの頃の子どもが、ここまで鮮明に覚えているものなの……?)
自分の記憶違いかもしれない。
そう思おうとしても、その疑問だけは消えなかった。
マルナは少しだけ間を置き、静かに問いかける。
「シノ。」
「お父さんとは……何歳くらいまで、一緒に暮らしていたの?」




