王の知らない召喚士
朝の光が、王宮の窓から長く差し込んでいた。
広い執務室の中央には、今日も幾つもの書類が積み上げられている。
国王アイザック・キア・マニールはその一枚を手に取り、眉間へわずかに皺を寄せた。
「北部三郡の収穫量は、昨年を下回る見込みか」
「はい。春先の長雨が響いております」
宰相が答える。
「ただし、王都周辺の備蓄には余裕がございます。直ちに食糧不足へ陥る状況ではありません」
「不足してから運んだのでは遅い」
国王は書類を机へ戻した。
「北部へ回せる量を確認せよ。商会任せにすれば、足元を見る者も出る。輸送費への補助も検討するように」
「承知いたしました」
次の書類へ目を移す。
河川の補修。
街道の整備。
領主間の境界争い。
王のもとへ届くのは、華々しい勝利の報告ばかりではない。
国王は、その一つ一つへ目を通していた。
やがて宰相が、積まれた書類とは別に、一通の報告書を差し出した。
「陛下。エルドリア国境付近より、最新の報告が届いております」
室内の空気が僅かに変わった。
壁際に控えていたアルベリヒ・グランツ公爵が、静かに視線を上げる。
「申せ」
「エルドリア側の巡回兵が、先月より増員されているとのことです。国境沿いの砦へ搬入される物資も増えております」
「侵攻の兆候か」
「現時点では断定できません。先方は、賊への備えと説明しております」
「賊への備えにしては、随分と大がかりですな」
グランツが声で口を挟んだ。
「国境近くへ兵を集め、糧秣を運び込む。いつでも軍を動かせる状態を整えていると見るべきでしょう」
国王は報告書を読みながら、短く息を吐いた。
「エルドリアが、直ちに戦を望んでいるとは思えぬ」
「望んでいるか否かは、問題ではございません」
グランツは一歩前へ出た。
「戦を始められる状態にある。それ自体が、我が国にとって脅威となります」
「だからこちらも兵を増やせ、と?」
「少なくとも、現状のままでは不足しております」
グランツの言葉には迷いがなかった。
「国境砦の補修。常備兵の増員。騎士団への予算拡充。加えて、歌唱魔導士を実戦部隊として運用する体制の整備を進めるべきかと」
宰相が僅かに眉を動かした。
「軍への支出をさらに増やせば、先ほどの北部救済へ回す財源にも影響します」
「国が滅びれば、救済すべき民も残らぬ」
「グランツ」
国王が静かに名を呼んだ。
グランツは口を閉じ、頭を垂れる。
「余も、国防を軽視するつもりはない」
「承知しております」
「だが、こちらが兵を増やせば、エルドリアもさらに増やす。互いに相手を恐れ、剣を積み上げ続ければ、いつか小さな火種が戦へ変わる」
「剣を持たぬ者から先に、戦へ巻き込まれます」
グランツは顔を上げた。
「私は戦を望んでいるのではございません」
その瞳には、揺るぎない意志があった。
「戦を始めさせぬための力を求めております」
国王は、長くグランツを見つめた。
彼が私欲で軍備を求めているのではないことを、国王も知っている。
かつて王国が決断を躊躇ったために、失われた命があった。
グランツは、その痛みを今も忘れてはいない。
「国境砦の補修は認めよう」
やがて国王が告げた。
「ただし、兵の増員は保留とする。まずはエルドリア側の意図を探れ。使節を通じ、こちらが対話を望んでいることも伝えよ」
「……御意」
グランツは一礼した。
完全に納得した顔ではない。
だが、王命へ異を唱えることもなかった。
その時、執務室の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
侍従が入室し、深く頭を下げる。
「王立魔導学園より、至急の報告が届いております」
「学園から?」
国王が顔を上げた。
「はい。本朝、教授会の名において提出されたものにございます」
侍従が差し出した書状には、王立魔導学園の印章が押されていた。
宰相が受け取り、国王の前へ置く。
「何か事故でも起きたか」
「詳細は、書状にてとのことでございます」
国王は封を切った。
冒頭へ目を通し、すぐに眉をひそめる。
「歌唱召喚士の可能性について……?」
その言葉に、グランツの目が僅かに細められた。
国王はさらに読み進める。
「レスト領において発生した二件の特異現象について、同一人物の関与を確認した……」
宰相が問う。
「特異現象とは?」
「一つは、ローネ湖で発生した水質異常の解消」
「水質異常?」
国王は書状から顔を上げた。
「余は、そのような報告を受けておらぬぞ」
宰相も首を横へ振った。
「私のもとにも届いておりません」
国王は再び書状へ視線を落とす。
「周辺の村々に病が広がり、湖水に異常が認められていた。しかし、金色の神獣と見られる存在の顕現後、水質は急速に回復した……とある」
「神獣」
宰相の表情が強張った。
グランツは何も言わなかった。
「もう一件は、レスト候の娘にかけられていた呪いの解除」
国王の声が、さらに低くなる。
「こちらでは、獏と見られる神獣が顕現したという」
「二体も……?」
宰相が思わず声を漏らした。
「いや」
グランツが静かに訂正した。
「同一の神獣が姿を変えた可能性もございます。現時点で二体と断定するのは早計でしょう」
「確かにな」
国王は頷き、先を読んだ。
だが、次の一文で、その動きが止まった。
「……十二歳?」
「陛下?」
「これらの現象を引き起こしたと見られる召喚士は、十二歳ほどの少女だという」
執務室に、しばし沈黙が落ちた。
宰相が書状を覗き込む。
「十二歳の少女が、神獣を?」
「名は、シノ」
国王はゆっくりと読み上げた。
「出身は、ルミナリア孤児院。魔力反応は確認できず。にもかかわらず、歌唱によって、神獣と推定される存在を顕現させた可能性がある」
グランツの脳裏に、昨夜届いた短い報告が蘇った。
――シノ師の正体を確認した。
――少女だ。
それだけの文面だった。
簡潔すぎる報告。
だが、王立学園から提出された正式な書状は、グランツが予想していた以上の可能性を示していた。
魔力を持たずに、自然界のマナへ干渉する。
既存の歌唱魔導とは異なる原理。
そして、神獣の顕現。喉から手が出ているものが突然、王都へ現れたのだ。
「その少女は、今どこにいる」
国王の問いに、侍従が答える。
「令嬢の神殿での治療の付き添いでレスト侯爵とともに王都へ到着しております。現在は学園と共同研究を行うとも」
「共同研究?」
国王の声に、微かな不快感が混じった。
「書状には、そのように」
「十二歳の子どもを、研究材料のように扱ってはいまいな」
最初に国王が気にしたのは、その力ではなかった。
「少女の安全について、何か書かれているか」
宰相が書状を確認する。
「現時点で健康上の問題はなく、本人も学園の調査へ協力的であると」
「協力的、か」
国王は納得していない様子で呟いた。
「十二歳の少女が、教授たちに囲まれて嫌だと言えるものか」
グランツが口を開く。
「であればこそ、王国による保護が必要となりましょう」
「保護か」
「神獣を顕現させ得る者が王都にいると知れれば、他国も放置いたしますまい」
その指摘自体は正しかった。
「エルドリアだけではございません。神殿、貴族、国外の諸勢力。いずれも少女へ接触を図る可能性がございます」
「だから王宮へ囲い込めと申すか」
「その力が事実であるならば、本人の意思だけに任せられる問題ではございません」
国王の目が細くなる。
グランツは臆することなく続けた。
「一人の少女であると同時に、国家の均衡を変え得る存在でもあります」
「余には、まず一人の国民であり少女だ」
グランツの声は穏やかだった。
「少女だからこそ、力の意味を理解しない者たちから守らねばならぬと申し上げております」
二人の言葉は似ていた。
どちらも、少女を守ろうとしている。
だが、見ているものは違っていた。
国王は、力を持ってしまった一人の子どもを見ている。
グランツは、子どもの姿をした国家戦力を見ていた。
「学園の報告だけでは、分からぬことが多すぎるな」
国王は書状を机へ置いた。
「そもそも、ローネ湖の異変すら王宮へ報告されていなかった」
「レスト侯爵が意図的に伏せていた可能性もございます」
宰相が慎重に言う。
「領内で収束した問題と判断したのか、あるいは少女を守るためか」
「いずれにせよ、本人に聞くのが早い」
国王は侍従へ顔を向けた。
「レストは、今も王都にいるのだな」
「はい。学園近くの王都邸へ滞在しているものと思われます」
「では、宮殿へ来るよう伝えよ」
「直ちに召喚いたしますか」
国王は少し考え、首を横へ振った。
「召喚ではない。余が話を聞きたいと伝えよ」
「承知いたしました」
「急がせる必要もない。娘を連れて長旅を終えたばかりだろう。今日中に都合がつかなければ、明日でも構わぬ」
侍従は深く一礼した。
「御意」
「それから」
退出しかけた侍従を、国王が呼び止める。
「少女を連れてくる必要はないとも伝えよ」
グランツが僅かに目を動かした。
「まずはレストから話を聞く」
「かしこまりました」
侍従が去ると、国王は再び報告書へ視線を落とした。
「シノ……か」
魔力を持たない少女。
歌で神獣を呼ぶ、世界唯一かもしれない召喚士。
そこに記された文字だけでは、どのような子どもなのか想像もできない。
「グランツ」
「はっ」
「この件について、軍を動かすことは許さぬ」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「申す前に釘を刺した」
国王は小さく笑った。
グランツも、表情を変えないまま頭を下げる。
「陛下のご懸念は理解いたしました」
「学園へ兵を置けば、少女は自分が囚人になったと思うだろう」
「ですが、警護は必要です」
「それはレストの話を聞いてから決める」
「御意」
グランツは従った。
だが、その胸中では、すでに幾つもの可能性が組み上がり始めていた。
「一人の少女、か」
誰にも聞こえぬ声で、グランツは呟いた。
国王は窓の外へ目を向けている。
朝の王都では、今日も多くの人々が行き交っていた。
商人が荷車を引き、職人が店を開け、学園へ向かう生徒たちが街路を歩いている。
その中に、国王がまだ顔も知らない少女がいる。
王国の未来を変え得る力を持ちながら、その意味すら知らずにいる少女が。
「まずは、話を聞こう」
国王は静かに言った。
「力についてではない」
机上の報告書に記された、シノという名を見つめる。
「その子が、これまで何を見てきたのかを」
グランツは答えなかった。
二人が同じ少女を見て、異なる未来を思い描いていることを、まだ誰も知らない。
王都の鐘が鳴る。
その音は、遠く王立魔導学園の塔にも届いていた。




