孤児院の聖女
「学園のお話がまとまったところで、今度は神殿からも一つお願いがございます」
立ち上がったゼヴランは、まずシノへ向かって一礼した。
「シノ殿。神殿としても、あなたの歌と、顕現された神獣様について詳しくお話を伺いたいと考えております」
「お話、ですか?」
「はい。夢を食された白い神獣様。そして、ローネ湖と昨夜の急患を清められた金色の神獣様。いずれも神殿にとって、軽々しく扱うことのできない御方です」
シノは、膝の上で両手を握った。
「わたしに分かることでしたら、お話しします」
シノにとって王都はおろかたくさんの大人に囲まれたこの場所は楽ではない。しかし言葉遣いは丁寧に、一つひとつ確かめるように答える。
けれど、その声にはわずかな迷いがあった。
話をすることが嫌なのではない。
困っている人がいるなら、自分に分かることは伝えたい。
ただ、神殿へ行けば、また難しい言葉をたくさん聞かれるかもしれない。
リンちゃんやバッくんを、自分の知らない名前で呼ばれるかもしれない。
歌ってみせてほしいと言われるかもしれない。
シノはほんの少しだけ肩を縮め、隣に座るマルナへ目を向けた。
その小さな変化を、ゼヴランは見逃さなかった。
「無論、今すぐにとは申しません」
ゼヴランは声音を和らげる。
「神殿は、シノ殿を問い詰めるためにお招きするのではございません。ただ、神獣様に関する記録を預かる者として、お話を伺いたいのです」
「はい……」
それでもシノの表情は晴れない。
ゼヴランは一度考えてから、マルナへ向き直った。
「マルナ殿」
「はい」
「孤児院の院長であらせられるあなたは神殿で学ばれたはず。神殿が神獣様を軽んじる場ではないことも、よくご存じのはずです」
「承知しております」
「でしたら、シノ殿へもお話しいただけないでしょうか。神殿へ足を運ぶよう、お口添えを願いたいのです」
マルナは、すぐには答えなかった。
隣のシノを見る。
シノは不安そうではあった。
けれど、助けを求めているわけではない。
自分で考えようとしている。
分からないなりに、自分の答えを出そうとしている。
ならば、マルナが代わりに決めてしまうべきではなかった。
「申し訳ございません」
マルナは穏やかに首を横へ振った。
「シノは、自分で考えて決める子です」
ゼヴランの眉が、わずかに動く。
「私は院長として、必要なことがあれば助言いたします。ですが、神殿へ行きなさいとも、行ってはなりませんとも申しません」
マルナは、シノの手へそっと自分の手を重ねた。
「この子の歌も、この子の行き先も、最後に決めるのはシノ自身です」
「院長先生……」
「分からないことは、分からないと言ってよいのですよ」
「うん……ではなくて、はい」
教授会の場であることを思い出し、シノは慌てて言い直した。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
だが、神殿側に控えていた一人の神官は、面白くなさそうに眉を寄せていた。
「しかし」
低い声が漏れた。
「神殿で学びながら、神殿への協力を促すことすらできぬとは」
ゼヴランが振り返る。
「控えなさい」
だが、神官は止まらなかった。
「地方の孤児院長ごときが、神殿の求めを拒むなど――」
「今、何と申した」
レスト侯の声だった。
怒鳴ってはいない。
それでも、小会議室の空気が一瞬で凍りついた。
レスト侯は座ったまま、ゆっくりと神官へ顔を向けていた。
その目には、領主としての威厳が宿っている。
「地方、と申したな」
「い、いえ、侯爵閣下。私はそのような意味では――」
「貴殿が地方と呼んだ地を治めているのは、私だ」
神官の顔から、見る間に血の気が引いていく。
「その領主の面前で、我が領地と、そこで生きる者を侮る言葉を、よくもまあ口にできたものだ」
「領地を侮ったわけではございません」
「ならば、何を侮った」
逃げ道を塞ぐような問いだった。
「孤児院か。そこで暮らす孤児たちか。それとも、長年その子らを育ててきたマルナ殿か」
神官は、答えられなかった。
レスト侯は、そこで初めて立ち上がった。
「私とて、長年あの孤児院を見守ってきたなどと申すつもりはない」
先ほどまでの怒気に、わずかな自嘲が混じる。
「シノ殿を迎えに赴くまで、私はあの場所を深く知ろうとしてこなかった。領政としての補助金は出してはいるが、それだけだった。恥じるべきことであろう」
シノが、レスト侯を見上げた。
「だが、あの日、私は見た」
慎ましい孤児院。
広いとは言えない庭。
古びてはいるが、丁寧に手入れされた建物。
そして、マルナの周りで笑っていた子どもたち。
「親を失った子らが食事をし、学び、明日の話をしていた。あの場所が、ただ雨露をしのぐためだけの施設ではないことくらい、私にも分かった」
「侯爵様。皆の助けがあってのことです」
マルナが控えめに言う。
「そうであろう」
レスト侯は頷いた。
「だが、その皆が集う場所を、長年守ってきたのはマルナ殿だ」
それから、シノへ目を向ける。
「シノ殿も、その孤児院で育った子である」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
神獣を呼び、学園の魔導体系を揺るがそうとしている少女。
その少女を育てた場所を、目の前の神官は「地方の孤児院」と切り捨てたのだ。
「僕は受験生だった頃、孤児院で何度もお世話になりました」
エルンも続けて話始める。丁寧な声だった。
「食事を分けていただき、勉強に行き詰まった時には励ましていただきました。」
エルンは、はっきりと言った。
「僕自身も、ファルク家の者としても、マルナ院長は大変尊敬すべき御方だと考えております」
「ぼっちゃん。私は、それほど大層なことはしていませんよ」
マルナは困ったように眉を下げた。
「院長先生は、いつもそう言います。それとあと二年たったら「ぼっちゃん」も止めていただきたい」
「はい。院長先生は、いつもです」
シノも教授会用の丁寧な口調で同意する。
場に、ほんの少しだけ柔らかな空気が戻った。
だが、レスト侯の言葉はまだ終わっていなかった。
「さて、神官殿」
再び向けられた視線に、神官の肩が跳ねる。
「貴殿が『ごとき』と呼んだマルナ殿は、ただ孤児を育ててきたというだけの方ではない」
レスト侯は、はっきりと告げた。
「数日前、暁夢の神獣より、神託と加護を授かっておられる」
「加護?」
最初に反応したのは、ユリアンだった。
眼鏡の奥の目が、明らかに輝いた。
「神獣が直接、加護を?」
「ヴェルク教授」
歌唱魔導科の老教授が呆れたように呼ぶ。
「順番です」
「失礼しました」
ユリアンは座り直したが、視線は完全にマルナへ向いたままだった。
ゼヴランの表情も変わっていた。
「侯爵閣下。失礼ながら、その神獣様について、もう少し詳しく伺ってもよろしいでしょうか」
「私より、マルナ殿へ聞くがよい」
ゼヴランはマルナへ向き直る。
「お姿は、どのような御方でしたか」
「白く大きなお姿でした。獏に似ておられましたが、貴婦人のような雰囲気をお持ちで……」
「獏に似た、白い神獣様」
ゼヴランが考え込む。
「ほかに、何か特徴はございませんでしたか。たとえば、加護を授けられた時に音が聞こえたなど」
「音……」
マルナは記憶をたどる。
「鐘の音は、聞こえませんでしたか」
「鐘というより……」
マルナは首を傾げた。
「鈴でしょうか。とても優しい、澄んだ音がいたしました」
ゼヴランの目が見開かれた。
「大全を」
控えていた神官が、今度は失言を取り返そうとするように素早く動いた。
運ばれてきたのは、重い革表紙の本だった。
学園のものよりも装飾が多く、三神教の三本線が表紙に刻まれている。
ユリアンが身を乗り出す。
「おおっ神殿版の神獣大全ですか」
「ええ。神殿に伝わる加護と祭儀の記録を収めたものです」
「ぜひ後ほど拝見を」
「後ほどです、ヴェルク教授」
「承知しております」
返事だけは素直だった。
ゼヴランは頁をめくり、ある箇所で指を止めた。
「ありました」
記載された特徴を、一つずつ確かめる。
「白き体躯。夢路を渡り、幼き者の眠りを守る。力を解き放つとき、鈴にも似た清らかな音色が響く」
ゼヴランの声が、わずかに震えた。
「暁夢獏様」
会議室がざわめく。
「間違いございません」
「暁夢獏……」
「夢界系の上位神獣か」
「神殿記録でも、加護を授けた例は僅かでは」
教授たちが声を潜める中、マルナも自分の鞄へ手を入れた。
レスト侯が、その動きを見て目を細める。
「……やはり、ここへも持って来ておられたか」
マルナが取り出したのは、古びた一冊の本だった。
神殿から各地の孤児院へ配られている、一般向けの神獣大全である。
長く孤児院に置かれていたらしく、角は丸く擦れ、頁には何度も開かれた跡がある。
「院長先生、王都にも持ってきたんですね」
「うふふ、私の必読書ですからね。今では」
マルナは少し照れたように微笑んだ。
「またシノが、いつ神獣様をお呼びするか分かりませんから」
「わたし、そんなに呼んでますか?」
「最近は、少し多いですね」
マルナは本を胸に抱えた。
「突然お会いした時に、どなたかも分からず失礼があってはいけません。せめてお名前と、どのような御方なのかくらいは、覚えておこうと思いまして」
ユリアンが真顔で頷く。
「大変素晴らしい心掛けです」
「ヴェルク教授まで」
レスト侯は、とうとう苦笑した。
それから、神殿版の大全を囲む神官たちへ目を向ける。
「それに比べて、神殿も大全を引かねば、神獣様のお名前すら分からぬか」
ゼヴランが苦い顔をする。
「返す言葉もございません」
「勉強不足というべきか、信心が足りぬというべきか。迷うところだな」
静かな皮肉だった。
神官たちは揃って目を伏せる。
マルナは一般向け神獣大全を少し掲げる。
「こちらには、暁夢獏様について詳しくは書かれておりません。私もが勉強不足ですね」
「あなたは良いのだ」
レスト侯は即座に答えた。
「その本を王都まで持参し、いつ現れても頭を下げられるよう備えておられる時点で、十分であろう」
「まったく神官として頭の痛い話です。侯爵閣下。そのお言葉、肝に銘じます」
ゼヴランは深く頭を下げた。
そして、先ほど失言した神官へ厳しい視線を向ける。
「マルナ殿へ、改めて謝罪を」
神官は青ざめたまま、深く腰を折った。
「マルナ殿。数々の無礼、心よりお詫び申し上げます」
マルナは胸に三本線を引いた。
三神教において、祈りと敬意を示す所作。
それを終えると、穏やかに頭を下げ返す。
「どうか、お顔をお上げください。私は怒っておりません」
「寛大なお言葉、感謝いたします」
ゼヴランは、今度こそ正式な礼を取った。
「マルナ殿。王都へ滞在されている間に、一度、神殿へお越しいただけないでしょうか」
「私が、ですか」
「はい。暁夢獏様より授けられた加護と、あなたがお受けになった神託について、正式にお話を伺いたく存じます」
マルナはシノを見た。
シノの王都滞在が終われば、自分も孤児院へ帰る。
それまでの間であれば、時間を作ることはできる。
「シノの予定と、侯爵様のご都合に差し支えない時であれば、伺います」
「ありがとうございます。神殿にて、正式にお迎えいたします」
マルナは、もう一度胸に三本線を引いた。
それを見ていた教授たちの目には、先ほどまでシノ殿と取り違えていた老婦人が、今はまるで別の姿に映っていた。
高価な法衣はない。
高位神官の杖もない。
名高い魔導士の称号もない。
それでも、その人は長い年月、親を失った子どもたちのそばにいた。
夜に泣く子を抱き、熱を出した子の額を拭き、朝には食事を用意してきた。
そして今、その両手には、子どもの眠りを守る神獣の加護が宿っている。
誰が言い出したわけでもない。
けれど、その日、小会議室にいた者たちの胸には、同じ言葉が浮かんでいた。
孤児院の聖女。
マルナ本人だけが、そのように呼ばれる日が来るとは、まだ少しも思っていなかった。




