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悪魔じゃない



「彼女は証人です。標本ではありません。」


 ユリアンの言葉が、小会議室に静かに残った。


 先ほどまで我先にと口を開いていた教授たちも、今は誰一人として言葉を継がない。


 シノは何が起きたのかよく分からず、隣のマルナを見上げた。


 マルナは安心させるように微笑み、小さく頷く。


 ユリアンは机上へ散らばった資料を一枚ずつ揃えた。


「皆さん。」


 穏やかな声だった。


「少々、進め方を変えましょう。」


 教授たちの視線が集まる。


「先ほど皆さんは、それぞれ専門分野から質問をされました。」


「ですが、それではシノさんは答えようがありません。」


 誰も反論しなかった。


 事実だった。


 契約。


 譜式。


 召喚。


 媒介。


 魔力回路。


 十二歳の少女へ、一度に投げる問いではない。


 ユリアンは紙を一枚取り出し、机へ置いた。


「まず確認したいのは、『見たこと』です。」


「解釈は、その後。」


「研究者である以上、証言と推論は分けましょう。」


 魔導史の教授が腕を組む。


「異論はありません。」


「では。」


 ユリアンはシノへ向き直った。


「シノさん。」


「はい。」


「難しい言葉は使いません。」


 シノは少しだけ安心したように笑った。


「ありがとうございます。」


「では、一つだけ。」


「リンちゃんは、あなたが呼んだのですか。」


 シノは首を傾げた。


「……呼んだ?」


「ええ。」


「来てほしいと思った?」


「はい。」


「来てくれましたか。」


「来てくれました。」


 ユリアンは静かに頷く。


「分かりました。」


 それだけを書き留める。


 契約とも。


 召喚とも。


 顕現とも書かない。


 ただ、


『来てほしいと思った。来てくれた。』


 そのまま記録した。


 歌唱魔導科の老教授が感心したように呟く。


「ずいぶん、そのまま書くのですな。」


「余計な言葉を加えれば、事象が歪みます。」


 ユリアンは微笑む。


「今はシノさんの証言です。」


 教授たちも静かに頷いた。


 その時だった。


 魔導史の教授が、持参した古びた文献を開く。


「ヴェルク教授。」


「はい。」


「証言は理解しました。」


 頁をめくる。


「ですが、古い記録との比較だけはしておきたい。」


 ユリアンは黙って頷く。


 比較すること自体は研究として当然だった。


 教授は慎重に頁を開く。


「召喚譜式が成立する以前。」


「歌だけをもって異界の存在を招いたとされる術者の記録があります。」


 何人かの教授が身を乗り出した。


「契約文なし。」


「魔法陣なし。」


「媒介なし。」


「ただ歌う。」


 教授は静かに文献を閉じた。


「文献上の伝説と言われたりもしていますが、その術者は、当時――」


 一拍置く。


「歌う悪魔と呼ばれていました。」


「違います。」


 低い声だった。


 全員が振り向く。


 立ち上がっていたのは、エルンだった。


「ファルク君。」


 老教授が眉をひそめる。


 だがエルンは座らない。


「シノは悪魔ではありません。」


「落ち着きなさい。この前も言いましたが、これは文献上の呼称です。」


「分かっています。」


 エルンは静かに答えた。


「でも、違います。」


 教授は少し困ったように息を吐く。


「我々は人物を悪魔と言っているのではない。」


「現象を分類するため――」


「なら。」


 エルンは教授の目を見る。


「シノを、人を見てください。」


 会議室が静まり返る。


「俺は村で見てきました。」


「シノは。」


「泣いている子がいたら隣へ行きます。」


「自分が疲れていても、人が悲しんでいたら笑って歌います。これは歌唱魔導を使うって意味じゃないです」


 シノが少し困ったようにエルンを見る。


「ローネ湖も。」


「リーゼリア嬢も。」


「昨日の子も。」


「俺は全部見てません。でもシノならどれも納得です。実にシノらしいです。」


 エルンはゆっくりと言葉を続ける。


「誰かを支配するためじゃない。」


「誰かを傷つけるためでもない。」


「助けたかった。」


「それだけです。」


「だから。」


「歌う悪魔なんて呼ばないでください。」


 教授の一人が苦々しく口を開く。


「学生風情が。」


「教授会で教授の発言を遮るとは。」


「歴代最高総合得点だからと言って、少々思い上がっているのではないか。」


 エルンは口を結んだ。


 言い返そうとはしない。


 その時だった。


「そのご指摘には。」


 穏やかな声が響く。


「賛同いたしかねます。」


 ユリアンだった。


 静かに立ち上がり、エルンの横へ歩く。


「礼儀については、後ほど私から指導します。」


「ですが。」


 教授たちを見渡す。


「発言そのものを、学生という理由だけで退けるべきではありません。」


「彼は現地で見ています。」


「シノさんと生活を共にし。」


「彼女が歌う理由を知っています。」


「その証言は、文献とは異なる価値を持つ一次資料です。」


 誰も口を挟まない。


 ユリアンは少しだけ笑った。


「……まあ。」


「前歴代最高総合得点者からの、ささやかな助言です。もう二十年以上前の話ですが」


 会議室が止まる。


「え?」


 シノが思わず声を漏らした。


 エルンも驚いたように振り向く。


「教授……。」


「初耳です。」


 歌唱魔導科の老教授が吹き出した。


「そうでしたな。神童ユリアン・ヴェルクと言われたもんです」



 教授たちの間に、小さな笑いが広がった。


 張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。


 ユリアンは改めてエルンへ視線を向けた。


「ファルク君。」


「はい。」


「発言内容は支持します。」


「ありがとうございます。」


「ですが。」


「教授の話を遮るのは感心しません。」


「……申し訳ありません。」


「反省文一枚。」


「はい。」


「次は二枚です。」


「気を付けます。」


 ユリアンは満足そうに頷く。


 そして教授たちへ向き直った。


「では。」


「研究を続けましょう。」


「歌う悪魔という呼称についても、現時点では保留とします。」


「少なくとも。」


「目の前の証人を、それで呼ぶ理由はありません。」


 その言葉に、魔導史の教授は静かに古い文献を閉じた。

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