喋る標本
会議室は、静まり返っていた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
教授たちの視線は、ただ一人の少女へ集まっている。
「シノ!」
エルンが呼んだ名を、その場にいた全員が確かに聞いた。
王都で噂されていた“シノ師”。
誰もが思い描いていたのは、長い年月を魔導研究に捧げてきた老齢の魔導士だった。
だが、目の前に立っているのは、まだ幼さの残る十二歳ほどの少女だった。
「……シノ殿?」
歌唱魔導科の老教授が、確かめるように呟いた。
シノは集まる視線に戸惑いながらも、小さく頷く。
「はい」
その一言で、教授会の張りつめた空気が崩れた。
「少女……」
「まさか」
「では、あちらの方は……」
教授たちの視線が、一斉にマルナへ向かう。
マルナは穏やかに微笑み、一礼した。
「マルナと申します。ルミナリア孤児院の院長をしております」
再び、沈黙が落ちた。
資料には確かに書かれていた。
シノ殿。
同道の者、一名。
年齢も、性別も、身分も記されてはいなかった。
勝手に姿を作り上げていたのは、自分たちだった。
「……失礼いたしました」
魔導史の教授が、取り繕うように咳払いをした。
「いや、これは誰でも思い違えますぞ」
治癒魔導の教授も、困ったように苦笑する。
「神獣級存在を顕現させた可能性があると聞いて、少女を思い浮かべる者はおりますまい」
張りつめていた空気が、わずかに和らぐ。
だが、それもほんの束の間だった。
「では、シノ殿」
歌唱魔導科の教授が、机の上で指を組む。
「ローネ湖で歌われた譜詩について、お聞かせ願えますかな」
「は、はい」
「外国語、少なくともマニール語とは違う譜詩とのことですが、ご自身で作られたものですか」
「いいえ」
「では、どなたから教わったのです」
「父です」
教授たちの筆が、一斉に走り始めた。
「昨日、侯爵邸で歌われた譜詩も、同じく父君から?」
「はい」
「夢喰い獣が現れた時も?」
「はい」
「では、対象ごとに譜詩を歌い分けているのですな」
「歌は違います」
「どのように使い分けているのです?」
シノは、少し考え込んだ。
何をどこから話せばいいのか、自分でも分からない。
「私も、最初は何も分からなかったんです」
教授たちの筆が止まる。
「分からなかった?」
「はい。湖で歌った時は、リンちゃんのことを知りませんでした」
会議室のあちこちで、椅子が小さく軋んだ。
「では、神獣を呼ぶために歌ったのではない?」
「違います。父に教えてもたっらきれいな湖の歌を、知っている歌を歌っただけです」
「それで、あの神獣が現れたと」
「はい。そうしたら、リンちゃんが来てくれました」
「夢喰い獣の時も同じなのですか」
「はい。リーゼロッテ様がよく眠れるように知っている子守唄を。でも、バッくんが来るとは知りませんでした」
教授たちが、互いの顔を見合わせる。
召喚対象を知らず。
召喚譜式も組まず。
顕現を意図することさえなく。
それでも、神獣級存在は現れた。
「では、なぜ彼らが現れたのかは……」
「あとで、歌が届いたからだって教えてもらいました」
「誰にです?」
「リンちゃんたちにです」
低いざわめきが、会議室を走った。
「神獣本体と、言葉を交わしたのですか」
「はい」
「意思疎通が可能であるというのか……」
何人もの教授が、早口で何かを書き留めていく。
別の教授が、身を乗り出した。
「では、意志をもって神獣を召喚したことは、一度もないのですか」
シノは首を横に振る。
「一度だけ、あります」
今度こそ、全員の顔が上がった。
「いつです」
「王都に来てからです」
「誰を呼んだのですか」
「リンちゃんです」
「どのように?」
問いが重なる。
「何を思い、どの譜詩を選び、どのような術式を構成したのです?」
「えっと……」
シノは戸惑いながら、胸の前で指を組んだ。
「また会いたいって思いました」
「また会いたい?」
「はい。それで、湖で歌った歌を歌いました」
「対象を思い浮かべ、初回顕現時と同じ譜詩を使用したのですな」
「たぶん……そうだと思います」
「たぶん?」
「リンちゃんに、絶対に来てって言ったわけじゃないので」
教授たちの筆が、再び止まった。
「では、どのように呼びかけたのです」
シノは、あの日のことを思い出すように目を伏せた。
「歌を聴きに来てくれたら、うれしいなって思いました」
「……それだけですか」
「はい」
「そして、神獣は再び顕現した」
「来てくれました」
教授たちの筆が、猛烈な勢いで動き始める。
「初回は無意識の顕現。二度目は対象を想起した上での意図的召喚……」
「同一譜詩が道標として機能した可能性がある」
「いや、対象との接触経験が必要条件では」
「歌そのものではなく、残留した召喚経路が……」
議論が始まりかけたところで、シノが小さく口を開いた。
「でも……」
声は小さかった。
それでも、教授たちは一斉に静まる。
「それで必ず来てくれるのかは、分かりません」
「なぜです?」
「リンちゃんたちにも、来たくない時があるかもしれないので」
「……来たくない時」
「はい」
シノは当然のことのように答えた。
「だって、お友達ですから、遊ぶ約束をしても予定があったら会えないです。人と一緒かな、と」
沈黙が落ちる。
契約対象に拒否権を認める召喚術など、存在しない。
召喚とは、契約であり、命令であり、術者の意志によって対象を縛るものだ。
少なくとも、教授たちが知る限りでは。
「契約による強制ではない、と?」
「けいやく?」
シノは不思議そうに首を傾げた。
「お願いして、来てもらっています」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
術式でもない。
命令でもない。
契約でもない。
ただ歌い。
ただ願い。
それに応えて、神獣が自ら現れる。
魔導理論では説明できない。
だからこそ、教授たちは問わずにはいられなかった。
一人の教授が、椅子を蹴るように立ち上がる。
「シノ殿」
「はい」
「神獣とは、あなたにとって、どのような存在なのです」
「皆さんの言っている神獣が、リンちゃんやバッくんのことなら……」
シノは少しだけ考え、それから笑った。
「やっぱり、お友達です」
今度こそ、全員が止まった。
「……お友達」
「はい」
「リンちゃんも」
「バッくんも」
「みんな、お友達です」
教授たちは、互いの顔を見合わせた。
記録にも。
文献にも。
神話にも。
そんな答えは、一度も載っていなかった。
「では、神獣が現れた時、周囲の魔力密度にはどのような変化が」
「歌唱時の呼吸法は?」
「父君は、ほかにも異界語の譜詩を?」
「神獣から何を聞いたのです?」
「初回と再召喚では、何か感覚の違いが――」
質問が、次々と飛び始める。
シノは目を白黒させながら、それでも一つひとつ答えようとしていた。
その時だった。
「皆さん」
静かな声が、会議室に響いた。
ユリアンだった。
先ほどまで黙って様子を見ていた彼が、ゆっくりと席を立つ。
「少々、よろしいでしょうか」
教授たちが口を閉じる。
ユリアンは、一度だけシノを見た。
慣れない場所で大勢の大人に囲まれ、困りながらも懸命に答え続けている少女。
その姿を見て、彼は小さく息をついた。
「皆さんのお気持ちは、よく分かります」
「ヴェルク教授」
「私も同じです」
瞳が、わずかに細くなる。
「おそらく、この場で最も多くのことを知りたがっているのは、私でしょう」
何人もの教授が苦笑した。
否定できる者はいない。
召喚譜式学を専門とするユリアンが、この状況に興奮していないはずがなかった。
「ですが」
ユリアンの声が、少しだけ柔らかくなる。
「だからこそ、急いではいけません」
会議室は、再び静まり返った。
「彼女は、昨日まで村で暮らしていた少女です」
「長い旅を終えたばかりで、昨日は侯爵家の令嬢を救い、その直後には急患にも向き合いました」
ユリアンは教授たちを見渡す。
「この短時間で、一人の少女が経験するには、あまりにも多すぎます」
誰も口を挟まない。
「皆さん」
一拍置き、ユリアンは告げた。
「彼女は証人です」
その視線が、一人ひとりの教授を射抜く。
「喋る標本ではありません」
教授たちの顔から、熱が引いていく。
「少しは、ご配慮を」
誰も、反論できなかった。




