シノ師の正体
王立魔導学園の小会議室は、朝から落ち着かない空気に包まれていた。
長机の周囲には、学園長をはじめ、歌唱魔導科、魔導史、治癒魔導、結界理論、その他いくつもの分野の教授たちが揃っている。
ただし、肝心の席が一つ空いていた。
召喚譜式学教授、ユリアン・ヴェルクの席である。
「ヴェルク教授は、まだ来ておらんのか」
歌唱魔導科の老教授が、不機嫌そうに言った。
机の上には、数枚の資料が並べられている。
ローネ湖周辺異常の消失。
金色の獣らしき存在の目撃。
レスト侯爵令嬢の悪夢症状の快癒。
夢喰い獣に類する存在の顕現疑い。
そして、王都入りしたという人物。
シノ殿。
年齢も、性別も、所属も、正式な術式も書かれていない。
ただし、出席予定者の欄には、こうある。
レスト侯爵閣下。
シノ殿。
ならびに同道の者一名。
「同道の者、ですか」
「文書上は、そのように」
「ずいぶん伏せますな」
「神獣級存在に関わる者なら、身元を伏せるのも分からなくはない」
「あるいは、古い祈歌の家系か」
「在野の歌唱魔導士という可能性もある」
教授たちは、それぞれ勝手に人物像を膨らませていた。
謎があれば、学者は形を与えたがる。
形がなければ、自分の知っている箱へ入れたがる。
老教授が、また不機嫌そうに資料を叩いた。
「そもそも、ファルク君もまだ来ておらんのか」
「ヴェルク教授の研究室に呼ばれているそうです」
「歌唱魔導科の学生を、召喚譜式学がいつまで借りているつもりかね」
歌唱魔導科の老教授は、低く唸った。
「童謡雷唱の記録も、シノ殿に関する最初の記録も、本来なら我々の管轄でしょうに」
「ですが、顕現が関わるなら召喚譜式学も無関係ではありません」
「それは分かっておる。分かっておるが、ファルク君は歌唱魔導科の学生ではないか」
老教授の眉間には、深い皺が寄っていた。
エルン・ファルク。
王立魔導学園歌唱魔導科の学生。
新入生歓迎魔導大会で、童謡による異常な雷唱を記録した当事者。
その記録の中に、シノという名があった。
そのため、彼は今日の教授会に参考人として呼ばれている。
だが、その記録帳ごと、今はユリアン・ヴェルクの研究室にある。
歌唱魔導科の教授たちにとって、それは面白いことではなかった。
そこへ、会議室の扉が叩かれた。
「レスト侯爵閣下がお見えです」
学園長が立ち上がる。
「お通ししなさい」
扉が開いた。
入ってきたのは、レスト侯だった。
その後ろに、落ち着いた老婦人が続く。
灰色がかった髪を丁寧にまとめ、背筋はまっすぐ伸びている。
服は質素だが、乱れはない。
さらにその半歩後ろに、十二歳ほどの少女がいた。
濃い色の髪。
大きすぎない鞄。
王都の会議室に慣れていないのは明らかだったが、きょろきょろと落ち着きなく見回すことはしない。
少女は静かに、老婦人のそばに立っていた。
教授たちの視線は、自然と老婦人へ集まった。
無理もなかった。
王都が噂する謎の人物。
神獣級存在に関わり、夢喰い獣を呼び、レスト侯爵令嬢を救ったという人物。
その姿として、十二歳ほどの少女より、落ち着いた老婦人の方が、よほど想像に合っていた。
しかも、その老婦人には不思議な気配があった。
強い魔力ではない。
魔導士の波動でもない。
けれど、夜明け前の灯りのような、穏やかなマナをまとっていた。
魔導士たちには、それが何か分からなかった。
分からないからこそ、余計に意味ありげに見えた。
その隣の少女については、何人かの教授が一瞬だけ視線を向けた。
弟子だろうか。
あるいは、譜詩や旋律を記憶するための補助役か。
古い歌唱流派では、幼い頃から耳で歌を継がせるとも聞く。
勝手な推測が、またいくつか生まれた。
学園長が礼をした。
「レスト侯爵閣下。本日はご足労いただき、感謝いたします」
「娘の件で、ご心配をおかけした」
「どうぞ、お掛けください」
しかし、レスト侯が席に着く前に、魔導史の教授が口を開いた。
「閣下。まずローネ湖の件について確認を。金色の獣をご覧になったという報告がございますが」
別の教授がすぐに続く。
「湖の浄化反応は、閣下ご自身が確認されたのでしょうか」
「瘴気の消失は完全であったのですか」
「その場にシノ殿は?」
「歌唱は確認されましたか」
質問が、一斉にレスト侯へ向かった。
レスト侯は席につかず、立ったまま教授たちを見た。
「先に訂正しておく」
静かな声だった。
しかし、その場のざわめきを止めるだけの力があった。
「ローネ湖の異常消失について、私は報告を受けている。金色の獣の噂も聞いた。だが、私がその場で湖の浄化を見たわけではない」
教授たちが一瞬止まる。
「では、閣下が直接ご覧になったのは」
「娘の悪夢が消えた夜だ」
レスト侯は答えた。
「白く丸い獣が現れた。娘の悪夢を食べたと語った。私はそれを見た」
「夢喰い獣……」
「獏の類か」
「その獣は、シノ殿の歌によって?」
「そうだ。その後に現れた。私が断言できるのはそこまでだ」
治癒魔導の教授が身を乗り出す。
「令嬢の悪夢症状は、どの程度のものでしたか」
「長く眠れず、衰弱していた」
「その獣は悪夢そのものを食べたと?」
「そう語った」
「語った?」
「人の言葉で話した」
会議室がざわめいた。
「人語を解する夢喰い獣……」
「獏の上位種か」
「夢界系の霊獣という可能性も」
「それを呼んだのがシノ殿」
「呼んだとは言っていない」
レスト侯は、すぐに遮った。
「私は召喚術の専門家ではない。シノ殿が歌った。その後、白い獣が現れた。娘の悪夢を食べた。私が見た事実は、それだけだ」
教授たちは、少し黙った。
しかし、黙ったのはほんの一瞬だった。
「では、昨夜の件は」
静かに口を開いたのは、ゼヴランだった。
その言葉に、学園側の教授たちが一斉に彼を見る。
「昨夜の件?」
学園長が眉を上げた。
ゼヴランは落ち着いた声で答えた。
「レスト侯爵邸より、神殿へ正式文書が届いております。急患を一時保護したと」
レスト侯の表情が、わずかに険しくなる。
「神殿には正式に申し入れた。学園へは、必要があれば後ほど伝えるつもりだった」
「神殿だけに先に?」
教授の一人が呟く。
「急患を運んできたのが神官だったからだ」
その言葉で、会議室の奥に座っていた神官へ視線が集まった。
上級神官ゼヴラン・オルティス。
本来、この教授会は学園の会議である。
だが、神獣、夢喰い獣、髪飾りの護りが関わる以上、神殿の記録確認も必要である。
そう強く申し入れ、ゼヴランはこの場に同席していた。
教授たちの一部は不満そうだったが、レスト侯爵令嬢の診療を前日に担当した神官である以上、完全には拒めなかった。
「急患とは」
教授の声が鋭くなる。
レスト侯は答えた。
「下町の子どもだ。黒い水脈のような症状が出ていた。神殿で処置しきれず、神官ノエル殿が連れてきた」
「黒い水脈?」
「瘴気か」
「呪いか」
「水系の穢れかもしれん」
「それで、どうなったのです」
教授たちの声が重なる。
レスト侯は、ゆっくりと口を開いた。
「金色の神獣が現れ、清めた」
会議室が静まり返った。
先ほどまでのざわめきが、嘘のように止まった。
「閣下」
学園長が低く問う。
「それは、ご自身の目で?」
「見た」
レスト侯は、今度は迷わず言った。
「侯爵邸の客間で、私の目の前に現れた。子どもの黒い水脈を清め、去った」
教授たちは、言葉を探して互いの顔を見た。
「ローネ湖の金色の獣と、同一存在である可能性は」
「ローネの事案をこの目で見ていぬ以上、私には断じられぬ」
「その顕現時、シノ殿は」
「歌った」
「何を」
「私には分からぬ。少なくともマニール語ではなかった」
歌唱魔導科の老教授が、悔しそうに机の上の資料を掴んだ。
「その場にファルク君がいれば……」
「だから、なぜまだ来ておらんのだ」
別の教授が小声で言った。
その時、ゼヴランが静かに口を開いた。
「皆様、急いてはならないでしょう」
落ち着いた声だった。
「シノ殿は、昨日も長旅の後であり、診療に関わる混乱にも立ち会われた。さらに昨夜の急患。いきなり実演や詳細証言を求めるのは、神殿としても賛同いたしかねます」
その視線は、完全に老婦人へ向いていた。
老婦人が、わずかに困ったような顔をした。
少女は横で、瞬きをした。
レスト侯は、目を閉じた。
マルナをシノと誤認しているのはわかる。訂正すべきか。
今すべきか。
その一瞬の判断の前に、教授たちが動いた。
「なるほど。神殿も同意されるなら、実演は後日にしましょう」
「では、まずシノ殿ご本人に確認を」
「そうですな」
「シノ殿」
複数の教授の視線が、老婦人へ向いた。
老婦人は、静かに背筋を伸ばした。
「いえ、私は――」
「まず、昨夜の急患における歌についてお聞きしたい」
「外国語であったとのことですが、間違いございませんか」
「歌唱時、ご自身の魔力回路に変化は?」
「神獣との接続感覚は、通常の召喚契約に近いものでしたか」
「夢喰い獣の顕現時も、同様の歌唱でしたか」
質問が、雪崩のように老婦人へ降りかかった。
老婦人は、さすがに困った顔をした。
「いえ、そうではなく私は……」
「答えにくい内容であれば、後ほど非公開で」
「秘匿伝承に触れるのであれば、その範囲を指定していただければよい」
「神殿もおります。神獣関係の証言として扱えますぞ」
ゼヴランが静かに頷く。
「ご無理にとは申しません。ただ、神官として感じます。あなたのお力は、通常の治癒や祈祷とは異なる」
「ええと……」
老婦人は、珍しく言葉に詰まった。
それはそうである。
彼女は孤児院の院長であって、シノではない。
歌で神獣を呼んだ本人でもない。
マダムベルから加護を授かったのは事実だし、おそらく神官様はそれを感じての事だと思うが、それをどう説明すべきかも難しい。
シノは隣で、口を開きかけた。
これは自分のことだ。
ちゃんと言った方がいい。
そう思った。
けれど、レスト侯がわずかに手を上げた。
待つように。
シノは、その手を見て口を閉じた。
今、名乗れば、この場のすべての問いがシノへ向く。
レスト侯は、それを許さなかった。
レスト侯が立ち上がろうとした時だった。
会議室の扉が、再び叩かれた。
「遅れて失礼しました」
扉の向こうから、落ち着いた声がした。
学園長が顔を上げる。
「入りなさい」
扉が開く。
入ってきたのは、白衣を着た細身の教授だった。
召喚譜式学教授、ユリアン・ヴェルク。
その後ろに、一人の少年が続く。
茶色がかった髪。
きちんと整えられた学園制服。
両腕には、記録帳と数枚の資料を抱えている。
エルン・ファルクだった。
「ヴェルク教授」
歌唱魔導科の老教授が、冷たい声を出した。
「う、ち、の。歌唱魔導科の学生を連れて遅刻とは、ずいぶん余裕ですな」
ユリアンは、悪びれた様子もなく頭を下げた。
「失礼しました。資料と本人が同じ場所にいた方が、照合作業が早かったもので」
「ファルク君は歌唱魔導科の学生です」
「存じております。ですから歌唱記録としても優秀です」
老教授の眉間の皺がさらに深くなった。
ユリアンはそこで、会議室の空気を見た。
教授たちの視線が老婦人へ集中している。
老婦人は困っている。
レスト侯は何か言いかけている。
ゼヴランは、確信を持った顔で老婦人を見ている。
その隣に、静かに座っている少女がいる。
ユリアンは、ほんの少し目を細めた。
「……なるほど」
彼が何かを言うより早く、シノが立ち上がった。
ずっと知らない大人たちに囲まれていた。
王都の大きな建物。
難しい言葉。
自分の名前だけが、知らない形で先に歩いている場所。
その中で、初めてよく知っている顔を見つけた。
「エルン!」
シノの声が、会議室に響いた。
エルンもまた、顔を上げた。
教授たちの視線も、神官の視線も、会議の空気も、彼には一瞬入っていなかった。
そこにいたのは、ハウル村でろうそくを灯し、歌って、怒って、笑ったシノだった。
「シノ!」
その名が、教授会の中央に落ちた。
誰も、すぐには言葉を継げなかった。




