再召喚
シノは息を吸った。
胸の奥で、父の声がよみがえる。
遠い湖。
緑の丘。
きれいな水辺。
父が画面の向こうの景色を見せながら教えてくれた、異界の歌。
ローネ湖で、リンちゃんが初めて来てくれた歌。
黒い水を、澄ませてくれた歌。
シノは目を閉じた。
「By yon bonnie banks and by yon bonnie braes……」
異界の言葉が、部屋に落ちた。
ノエルが息を呑む。
侍女が両手で口元を押さえる。
シノは続けた。
「Where the sun shines bright on Loch Lomond……」
歌声は大きくなかった。
けれど、不思議と部屋の隅まで届いた。
水差しの中の水が、静かに揺れる。
濁っていた水の底から、光が差したように澄んでいく。
石の床の隙間から、草の匂いがした。
ここは王都の侯爵邸だ。
厚い壁の中の客間だ。
それなのに、朝の湖畔に立っているような空気が流れ込む。
遠くで水が鳴った。
金色の光が、床の上を走る。
子どもの体に浮かんでいた黒い筋が、びくりと震えた。
シノは歌い続けた。
誰かに見せるためではない。
誰かに証明するためでもない。
この子の中の濁りを、清めてほしい。
リンちゃんに届いてほしい。
ただ、それだけを思って歌った。
金色の光が、部屋の中央で形を結ぶ。
静かに、音もなく。
そこに、リンちゃんが立っていた。
金色のたてがみ。
澄んだ瞳。
凛とした角。
王都の客間に現れた神獣は、まずシノを見た。
ノエルは息をすることも忘れた。
神獣。
神殿の壁画に描かれ、古い典籍に名を残し、祈りの中でしか触れられぬはずの存在。
それが今、目の前にいる。
侯爵邸の客間に。
寝台のそばに。
苦しむ子どものために。
ノエルの膝から、力が抜けた。
神官として膝をついたのか、ただ立っていられなかったのか、自分でも分からなかった。
老婦人が、胸に三本線を引いた。
三神教において、神々へ祈りを捧げる時の所作だった。
神殿に連なる者ならば、誰もが知っている祈り。
だが、その指先はわずかに震えていた。
シノは歌を止め、小さく息を吐いた。
「リンちゃん」
その親しげな呼び名に、ノエルの胸がさらに震えた。
畏れ多い。
そう思った。
だが、神獣は怒らなかった。
むしろ、その名を受け入れるように、少しだけ頭を下げた。
ノエルは、その時ようやく理解した。
前日の応接室で、上級神官たちは老婦人を見ていた。
あの方こそがシノ殿ではないかと、そう思っていた。
ノエル自身も、そう考えかけた。
けれど、違った。
老婦人は、シノ殿ではなかった。
神殿の診療の場で、静かに隅に立っていた少女。
今、金色の神獣を前にして、その名を親しげに呼んだ少女。
その子こそが、シノ殿だった。
神殿が探り、学園が求め、王都が名だけを先に知ったその人は、目の前の少女だった。
偉大な老魔導士ではない。
神殿に隠された聖女でもない。
王都のどこかにいる高名な召喚士でもない。
苦しむ子どもを見て、怖がりながらも歌うことを選んだ少女だった。
驚きはあった。
だが、それ以上に、胸の奥がほどけるような安心があった。
この少女は、力を見せるために歌ったのではない。
この子が苦しんでいたから、歌ったのだ。
ノエルは声も出せず、ただ床に膝をついた。
リンちゃんは、寝台の子どもへ歩み寄る。
レスト侯もまた、深く頭を垂れた。
老婦人は子どもの額に手を置いたまま、静かに祈っていた。
リンちゃんの角から、金色の水のような光がこぼれた。
それは子どもの首元に触れ、黒い水脈へ流れ込む。
黒い筋は、焼かれたのではなかった。
裂かれたのでもない。
濁った水が、底から澄んでいくように、ゆっくりとほどけていった。
黒が薄くなる。
濁りが抜ける。
皮膚の下にあった冷たい流れが、光の中で透明になっていく。
子どもの胸が、大きく上下した。
「……っ」
初めて、まともな息が入った。
ノエルが震えた声で言う。
「息が……」
リンちゃんは、なおも光を注ぎ続ける。
やがて黒い筋はほとんど消え、子どもの頬にわずかな血色が戻った。
水差しの水は完全に澄んでいる。
部屋の空気から、冷たさが消えていた。
リンちゃんはそこで、ようやく顔を上げた。
そして、シノを見た。
『よく呼んだ』
久しぶりに聞く声だった。
低く、静かで、湖の底のように澄んでいる。
シノは胸がいっぱいになり、少しだけ笑った。
「来てくれて、ありがとう」
リンちゃんは何も言わない。
ただ、もう一度だけ頭を下げた。
それから、ノエルを見る。
ノエルは、床に両膝をついたまま動けなかった。
リンちゃんの瞳が、まっすぐに彼を映す。
『信じるところに従い、幼き命を運んだ』
ノエルの肩が震えた。
規則を破った。
上役の判断を待たなかった。
神官として正しかったのか、ずっと分からなかった。
けれど、目の前の神獣は、彼が何を思って走ったのかを見ていた。
『よい』
その一言で、ノエルは崩れるように頭を下げた。
「……ありがとうございます」
声は、涙で震えていた。
リンちゃんは次に、レスト侯を見た。
レスト侯は頭を上げる。
その顔には緊張があった。
だが、怯えはなかった。
『守るならば、名ではなく、その子を守れ』
レスト侯は深く礼をした。
「御意に」
リンちゃんは最後に、ノエルとレスト侯を含めた部屋全体へ向けるように、静かに告げた。
『見たままを違えるな』
それだけだった。
口止めでも、命令でもない。
けれど、その場の誰もが、その言葉の重さを感じていた。
最後にリンちゃんは、老婦人を見た。
老婦人は、子どもの額から手を離した。
その両手には、まだ淡い銀の余韻が残っている。
老婦人は胸に三本線を引き、深く頭を下げた。
リンちゃんは何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
金色の光が、少しずつ薄れていく。
湖の気配が遠ざかる。
草の匂いも、水音も、朝の光も、少しずつ部屋から消えていく。
最後に残ったのは、寝台の上で静かに息をする子どもと、完全に澄んだ水差しだけだった。
リンちゃんの姿は、もうなかった。
***
誰も、すぐには動けなかった。
ノエルは膝をついたまま、震えていた。
レスト侯が最初に口を開く。
「ノエル殿」
「は、はい」
「その子は、今夜ここで休ませる。神殿へ戻すにはまだ不安がある」
「ですが……」
「責任は私が持つ」
レスト侯の声に、迷いはなかった。
「あなたは神殿へ戻らねばならない。だが、今夜のことは、あなた一人の報告で扱える事案ではない」
ノエルは唇を噛んだ。
「戻れば、問われます」
「そうだろう」
「なぜ戻ったのか。どこへ行ったのか。この子はどうなったのか。私は、答えなければなりません」
ノエルの声は、苦しげだった。
神官として報告の義務がある。
だが、この場で見たものを不用意に語れば、神獣の言葉を違えることになる。
その間で揺れている。
レスト侯は静かに言った。
「神殿へは、私から明朝、正式文書を出す。急患を保護し、容体安定まで侯爵邸で預かるとな」
「正式文書……」
「あなたは、見たままを忘れるな。ただし今夜は、噂にも、手柄にも、恐れにもするな」
レスト侯は、澄んだ水差しを一度見た。
「これはレスト侯爵家が預かった事案だ。あなた一人に背負わせるつもりはない」
ノエルは、顔を上げた。
シノは、その横顔を見た。
彼は悪い人ではない。
この子を助けたいと思って、走ってきた人だ。
だから、苦しんでいる。
「ノエルさん」
シノが声をかけると、ノエルは顔を上げた。
「リンちゃんは、見たままを違えるなって言いました」
「はい」
「だから、ちゃんと話す場所で、見たまま話せばいいんだと思います。噂みたいに話すんじゃなくて」
ノエルは、呆然とシノを見た。
少女。
けれど、ただの少女ではない。
神獣を呼んだ子。
それでも、自分が何か偉大なことをしたとは思っていない子。
目の前の苦しむ子を見て、歌った子。
ノエルは、ゆっくりと頭を下げた。
「はい。……そう、いたします」
レスト侯は頷いた。
「ノエル殿。今夜は神殿へ戻りなさい。あなたが戻らねば、かえって騒ぎが大きくなる」
「はい」
「その子の容体については、私の名で神殿へ伝える。あなたは、余計な推測を加えず、問われれば『レスト侯爵家が正式に預かった』と答えればよい」
「承知しました」
レスト侯は、扉の外へ声をかけた。
「書記を。いや、略式でよい。私が書く」
執事がすぐに紙と封蝋を用意した。
レスト侯はその場で短い文を書いた。
下町水場にて発見された急患一名を、容体安定までレスト侯爵家にて一時保護すること。
神殿への正式な報告は、明朝、侯爵家より改めて送ること。
補佐神官ノエルは、急患搬送に際し、幼き命を守るため緊急の判断を行ったこと。
そこまで書き、レスト侯は筆を置いた。
封蝋に侯爵家の印が押される。
「これを持って戻りなさい」
ノエルは、差し出された書状を両手で受け取った。
「侯爵閣下……」
「あなた一人に背負わせるつもりはないと言ったはずだ」
レスト侯は静かに言った。
「ただし、しかるべき場で求められたなら、神獣様の言葉どおり、見たままを違えず語りなさい」
ノエルは、封書を胸に抱くようにして、深く頭を下げた。
「はい」
その時、寝台の子どもが小さく身じろぎした。
シノはすぐに近づく。
子どもの呼吸は落ち着いている。
まだ目は覚まさない。
だが、苦しげな音は消えていた。
「よかった」
シノは小さく言った。
見せるために歌ったのではない。
証明するためでもない。
この子が苦しそうだったから、歌った。
リンちゃんに届くと思ったから、歌った。
それだけだった。
けれど、それだけでは済まない場所に、自分はもう来ている。
王都。
大人たちが名を探す場所。
正しい言葉で、人を縛ろうとする場所。
シノは、澄んだ水差しを見た。
水の底まで、きれいに見える。
歌は、困っている人に届くもの。
それだけは、ここでも変えたくない。
***
夜が更ける頃、ノエルは神殿へ戻ることになった。
急患の子どもは侯爵邸で預かる。
侍女が寝具を整え、老婦人がしばらくそばにつくことになった。
その時、レスト侯が静かに言った。
「マルナ殿。しばらく、その子をお願いできますか」
「はい。もちろんです」
ノエルは、その名を聞いて、ようやく老婦人の名を知った。
マルナ。
シノ殿ではない。
だが、神獣の前で胸に三本線を引き、子どものそばを離れなかった人。
マルナという名の、老婦人。
ノエルはその名を、心に留めた。
部屋を出る前に、ノエルはシノへ向き直った。
「私は、あなたを探していたのだと思います」
シノは少し首を傾げた。
「わたしを?」
「はい。リーゼリア様を救った方がこの屋敷にいるなら、この子も助けていただけるかもしれないと、そう思って走りました」
ノエルは一度、言葉を切った。
「ですが、正直に申し上げます。私は、あなたのような方だとは思っていませんでした」
「そうなんですか?」
「もっと、偉大な術者か、神殿にも学園にも属さない高名な方を想像していました」
シノは困ったように眉を下げた。
「わたしは、そういう人じゃありません」
「はい」
ノエルは静かに頷いた。
「それが、今は少し安心しています」
「安心?」
「はい。あなたは、力を見せるために歌ったのではありませんでした。この子を見て、苦しそうだから歌ってくださった」
ノエルの声は穏やかだった。
「だから、私は見たままを違えず伝えます。しかるべき場で、問われた時に」
「お願いします」
ノエルは深く礼をし、部屋を出ていった。
廊下の足音が遠ざかる。
レスト侯は、閉じた扉を見つめていた。
「明日は、騒がしくなるでしょうな」
マルナ院長が静かに答える。
「今日も、十分騒がしかったと思います」
レスト侯は、少しだけ苦笑した。
「違いありません」
シノは寝台の子どもを見た。
もう苦しそうではない。
それだけで、少しだけ胸の中が温かくなった。
けれど、明日。
しかるべき場。
ノエルが何を問われるのか。
シノが何を問われるのか。
まだ分からない。
ただ、金色の神獣は言った。
見たままを、違えず伝えよ。
その言葉だけが、澄んだ水のように、シノの胸に残っていた。




