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黒い水脈



 扉の外で、子どもの苦しげな息が聞こえた。


 シノは立ち上がった。


「院長先生」


「はい」


「治せるかは、分からない」


 もう一度、廊下の向こうでかすれた息が鳴る。


 眠っている息ではない。


 悪い夢にうなされている声でもない。


 もっと冷たくて、胸の奥を細い指で掴まれているような音だった。


「でも、その子が苦しそうなら、見てもいい?」


 マルナ院長は、一瞬だけ目を伏せた。


 それから、マダムベルに加護を授かった両手を見た。


「一緒に行きましょう」


「うん」


 マルナ院長が扉を開けると、廊下には侯爵家の執事と、神殿の若い補佐神官ノエルがいた。


 ノエルの神官服は乱れていた。


 白い袖には土の跡がつき、額には汗が浮かんでいる。


 その腕の中に、小さな子どもが抱かれていた。


 八つか九つくらいだろうか。


 男の子か女の子か、すぐには分からないほど顔色が悪い。


 唇は青く、閉じたまぶたが小刻みに震えている。


 首元から腕にかけて、黒い筋のようなものが浮かんでいた。


 血管ではない。


 まるで濁った水が、皮膚の下を細く流れているようだった。


 ノエルはシノたちを見るなり、膝をついた。


「非礼をお許しください。ですが、どうか……どうか、この子を」


 執事が低い声で言う。


「ノエル殿。まずは侯爵閣下に――」


「私が聞こう」


 廊下の奥から、レスト侯が現れた。


 休んでいたはずだが、先ほどの声を聞いて出てきたのだろう。


 その表情は厳しかった。


「何があった」


 ノエルは、子どもを抱えたまま頭を下げた。


「神殿の治癒室へ運ばれてきた子です。下町の水場で倒れていたと。呪いか、瘴気か、判断がつきません。祓いを行いましたが、弱まってもすぐに戻ります」


「神殿で処置できぬものを、なぜここへ連れてきた」


 レスト侯の声は静かだった。


 怒鳴ってはいない。


 だが、神官が侯爵邸へ急患を連れ込むことが、ただ事ではないと分かる声だった。


 ノエルは唇を噛んだ。


「本来なら、許されることではありません。上役の判断を待つべきでした」


「ならば、なぜ来た」


「待てば、この子が死ぬと思いました」


 廊下が静まった。


 ノエルの腕の中で、子どもが小さく息を詰まらせる。


 その黒い筋が、首元でじわりと広がった。


 シノは一歩近づいた。


 ノエルは反射的に顔を上げる。


 その目は、前に応接室で見た時と違っていた。


 知りたがる目ではない。


 すがる目だった。


「シノ」


 マルナ院長が小さく呼ぶ。


「うん。見るだけ」


 シノは、ノエルの腕の中の子を見つめた。


 悪い夢ではない。


 リーゼリアの時のような、眠りの奥に絡みつく黒い糸ではない。


 眠り霧でもない。


 マダムベルが起こした、あの白い霧とも違う。


 これは、もっと重い。


 冷たい。


 濁っている。


 水差しの水が腐っていく時のような、底に沈んだ泥が巻き上がるような、黒いもの。


 シノは、ローネ湖を思い出した。


 黒く濁った湖。


 湖面に浮かんだ、嫌な気配。


 そして、金色の角。


 静かに立っていたリンちゃん。


「院長先生」


「はい」


「これは、バッくんじゃないと思う」


 マルナ院長は頷いた。


「ええ」


「マダムベルの朝の歌でもない」


「そう見えますね」


「黒く濁った水みたい。ローネ湖の時に、少し似てる」


 ノエルが息を止める。


 レスト侯の視線が、シノに向いた。


 シノはその視線を受け止めてから、丁寧に頭を下げた。


「侯爵様。部屋をお借りしてもいいですか。このまま廊下では、その子がつらそうです」


 レスト侯はすぐに執事へ命じた。


「近い客間を開けろ。人払いをする。騒ぎにするな」


「かしこまりました」


「ノエル殿。その子を運びなさい」


「はい」


 ノエルは立ち上がろうとして、ふらついた。


 レスト侯の護衛が支える。


 シノは、その様子を見ながら、自分の手を胸の前で握った。


 歌うのか。


 歌えるのか。


 分からない。


 けれど、何の歌かは、少しだけ分かる気がした。


     ***


 客間には、寝台が一つ用意された。


 急患の子どもは、そこへ横たえられた。


 レスト侯が人払いを命じたため、部屋にいるのはごく少数だった。


 レスト侯。


 マルナ院長。


 シノ。


 ノエル。


 それに、控えている侍女が一人。


 扉の外には執事と護衛がいる。


 リーゼリアは呼ばれていない。


 休ませるべきだと、レスト侯が判断したからだ。


 子どもの呼吸は浅い。


 黒い水脈のような筋は、首元から鎖骨へ、そこから腕へと伸びていた。


 部屋の水差しの中の水が、かすかに濁っている。


 シノはそれを見て、胸の奥が冷たくなった。


 やはり、水だ。


 きれいでなければいけないものが、濁っていく。


 マルナ院長が寝台のそばに膝をついた。


「まず、私が」


 シノは頷いた。


 マルナ院長は、子どもの額へそっと手を置いた。


 その手から、淡い銀色の光がこぼれる。


 マダムベルから授かった加護。


 悪い夢を消す力ではない。


 すべてを治す力でもない。


 それでも、怖い夜をひとりで越えさせないための灯り。


「大丈夫です」


 マルナ院長は静かに言った。


「あなたは、ひとりではありません」


 子どもの眉間の皺が、ほんの少し緩んだ。


 荒かった呼吸が、一度だけ深く入る。


 ノエルの目に、涙が浮かんだ。


「すごい……」


 だが、黒い筋は消えなかった。


 むしろ、一度静まったことで、今度ははっきりと見えるようになった。


 濁った水が、細い流れになって体を巡っている。


 マルナ院長の手の光は、その子を支えている。


 けれど、濁りそのものを清める力ではない。


 シノには、それが分かった。


「院長先生の手は、そばにいてくれる手なんだね」


 マルナ院長が、子どもの額から手を離さずに微笑んだ。


「そうですね。マダムベル様は、そういう灯りをくださいました」


「うん」


 シノは寝台のそばへ歩いた。


 ノエルが、すがるように見上げる。


「あの……」


「治せるとは言えません」


 シノは、はっきり言った。


「わたしは、治癒神官じゃありません。魔導士でもありません」


「はい」


「でも、この黒いものには……リンちゃんに届く歌が合う気がします」


 ノエルは、言葉の意味をすぐには理解できなかったようだった。


「リンちゃん……?」


 レスト侯が静かに言った。


「金色の神獣だ」


 ノエルの顔色が変わる。


 金色の神獣。


 ローネ湖の噂。


 神殿で誰もが声を潜めて語っていた、あの名もなき奇跡。


 シノはレスト侯へ向き直った。


「侯爵様。歌っても、いいですか」


 その言葉に、ノエルは息を止めた。


 歌う。


 今、この場で。


 苦しむ子どもの前で。


 レスト侯は驚かなかった。


 マルナ院長も止めなかった。


 むしろ二人は、その一言を待っていたように見えた。


 ノエルの胸の奥で、前日の違和感がひとつにつながりかける。


 老婦人ではないのか。


 レスト侯が守ろうとしていたのは、老婦人だけではない。


 神殿の診療の場で、静かに隅に立っていた少女。


 あの子が。


 まさか。


 ノエルは声に出せなかった。


 シノは、レスト侯だけを見ていた。


 それは、命じられて歌うのではなかった。


 頼まれたからでもない。


 見せるためでもない。


 シノが、自分で決めて言った言葉だった。


 レスト侯は、そのことを理解したように頷いた。


「シノ殿が、そうするべきだと思うなら」


「はい」


 シノは胸の前で、そっと手を握った。


 歌は、困っている人に届くもの。


 ここが王都でも。


 目の前にいるのが誰か知らない子でも。


 大人たちが、どんな名前で呼ぼうとしても。


 それだけは、変えたくなかった。


 シノは、小さく息を吸った。


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