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神殿の使者



 リーゼリアが少し休んだ後、神殿から神官たちが到着した。


 レスト侯爵邸の応接室には、白い神官服の者が四人通された。


 一人は、派遣の責任者である上級神官セヴラン・オルティス。


 年の頃は五十前後。


 銀に近い髪を後ろで束ね、物腰は丁寧だった。


 もう一人は、診療を担当する治癒神官。


 残る二人は記録係と補佐役で、そのうち若い補佐神官はノエルと名乗った。


 ノエルはまだ二十歳前後に見える。


 緊張しているのか、診療具の入った小箱を両手で大事そうに抱えていた。


 セヴランは、レスト侯へ深く頭を下げた。


「お招きいただき、ありがとうございます。レスト侯爵閣下。本日は、リーゼリア様の診療と経過確認として伺っております」


「その通りだ」


「神殿へは、長期の悪夢症状と不眠、ならびに回復後の確認と伺っております」


 セヴランの声は穏やかだった。


 だが、その目はただの診療だけを見ている者のものではなかった。


 レスト侯はそれを見抜いていた。


 おそらく、神殿の上層から言われているのだろう。


 丁寧に。


 だが、可能な限り情報を取れ、と。


「まず娘を見ていただきたい」


「もちろんでございます」


 リーゼリアは椅子に座り、静かに診療を受けた。


 シノとマルナ院長は、少し離れた席に通された。


 シノは足をそろえ、膝の上に手を置いた。


 レスト侯爵家の椅子は、ふかふかしている。


 少し落ち着かない。


 けれど、ここでそわそわすれば、リーゼリアが気にするかもしれない。


 シノは背を伸ばし、黙って見守ることにした。


 治癒神官がリーゼリアの額に手をかざした。


 淡い光が灯る。


 リーゼリアは目を閉じた。


 部屋は静かだった。


 やがて、治癒神官が小さく息を吐いた。


「お身体の衰弱はありますが、危険な状態ではありません。長く眠れなかった方としては、むしろ安定しています」


 レスト侯の肩が、わずかに下がった。


「そうか」


「はい。ただ……」


 治癒神官は、リーゼリアの顔をもう一度見た。


「悪夢に悩まされていたとのことですが、現在、眠りに対する強い恐怖反応は見えません。ご本人の精神も落ち着いておられます」


 リーゼリアは目を開けた。


「怖くなくなりました」


 治癒神官が、少し驚いたように彼女を見る。


「怖くなくなった?」


「はい」


 セヴランが、静かにレスト侯へ向いた。


「侯爵閣下。差し支えなければ、回復までの経緯をお聞かせ願えますか」


 レスト侯は、馬車の中で交わした言葉を思い出した。


 見たことは話す。


 解釈は急がせない。


 シノを力として差し出さない。


「娘は、シノ殿に助けられた」


 セヴランの目が少しだけ細くなる。


 その名が出た瞬間、神官たちの間に小さな波が走った。


 ノエルが、抱えていた小箱を少し強く握る。


 セヴランは声を落とした。


「シノ殿。王立魔導学園でも、その名が出ていると聞いております」


「そうか」


 レスト侯は短く返した。


 それ以上は渡さない。


「王都の歌唱魔導士ではないのですか」


「違う」


「地方の神殿所属の祈祷士でも」


「違う」


 セヴランは、そこで一度口を閉じた。


 記録係の筆が走る音だけが響く。


「シノ殿が、何をなさったのですか」


「歌っていただいた」


 治癒神官が顔を上げる。


「歌唱魔導ですか」


「私は魔導には疎い。断じられぬ」


 レスト侯は即答した。


「ただ、シノ殿が歌った。その後、白い獣が現れた」


「白い獣」


 ノエルが小さく呟いた。


 セヴランが彼を見たので、ノエルは慌てて口を閉じる。


 レスト侯は続けた。


「白く、丸い獣だった。娘の悪夢を食べたと、その場で語った。私はそれを見ている」


 今度こそ、神官たちの表情が変わった。


「侯爵閣下ご自身が、ご覧になったのですか」


「そうだ」


「その獣は、今どちらに」


「ここにはいない」


「去った、ということですか」


「そう聞いている」


 セヴランは、慎重に言葉を選ぶように、ゆっくり頷いた。


「夢喰いの伝承に類似する話は、神殿にもございます。しかし、実見例は多くありません」


「それが何であるかを、私が断じるつもりはない」


 レスト侯は言った。


「確かなのは、娘が救われたということだけだ」


 その言葉に、リーゼリアが静かに頷いた。


「はい。バッくん様は、悪い夢だけを食べてくださいました」


「バッくん様」


 セヴランが繰り返す。


 ノエルの目が、少しだけ丸くなった。


 しかし誰も、それを笑わなかった。


 侯爵令嬢が真剣にそう呼んだからだ。


 そして、その父である侯爵が否定しなかったからだ。


「名は、そのように呼ばれていた」


 レスト侯が補う。


「誰が、その名を?」


 セヴランが尋ねる。


 レスト侯は一拍置いた。


「シノ殿がそう呼んだ」


 また、筆の音が止まった。


 シノは、静かに視線を上げた。


 自分の名が出たからではない。


 バッくんの名前の話になったからだ。


 バッくん。


 あの白くて丸い、少し眠そうな夢喰い。


 名前をつけた時、難しいことを考えていたわけではない。


 でも、あの子はその名前を受け取ってくれた。


 ならば、その名を軽く扱われるのは嫌だった。


 それでもシノは、口を挟まなかった。


 今は、レスト侯が話している。


 そう決めていた。


 レスト侯も、それ以上は語らなかった。


 名付けが何を意味するのか。


 それをこちらから語る必要はない。


 そもそも自分にも、すべて分かっているわけではない。


 セヴランも、そこを無理には踏み込まなかった。


「承知しました。診療記録としては、悪夢症状の消失、睡眠状態の改善、精神状態の安定、と記します」


「それでよい」


「ただし、回復経緯については、別途確認が必要になるかと存じます」


「確認の場は、後日あらためる」


 レスト侯は、はっきり言った。


「今日は娘の診療だ。娘を救った者を、診療の場で詰問させるつもりはない」


 セヴランは、少しだけ目を伏せた。


「……承知しました」


 悪人ではない。


 だが、神殿の者だ。


 神殿の記録を背負っている。


 レスト侯はそう判断した。


     ***


「もう一点、よろしいでしょうか」


 セヴランが言った。


「ご依頼の文に、髪飾りの確認も希望するとございました」


 レスト侯は懐から、布に包んだものを取り出した。


 青い石の髪飾りだった。


 リーゼリアが、少しだけ息を止める。


 シノも、その青い石を見た。


 神官たちはそこで初めて、髪飾りへ視線を向けた。


「これが、娘の悪夢と関わっていた可能性がある」


「可能性、ですか」


「私は専門家ではない。ただ、シノ殿はこれを気にしていた」


「シノ殿が」


「そして、娘の悪夢が消えたあと、別の存在がこれに護りを残した」


 セヴランの顔つきが変わった。


「別の存在」


 レスト侯は、部屋を見回した。


 リーゼリア。


 マルナ院長。


 シノ。


 神官たち。


 使用人。


「ここで話す内容は、まだ外へ広めるものではない」


「神殿記録には、必要な範囲で残します」


「診療に必要な範囲でだ」


 セヴランは、慎重に頷いた。


 レスト侯は続けた。


「ローネ湖で、金色の獣が現れた」


 神官たちの空気がはっきり変わった。


 ノエルが息を呑む。


 セヴランの表情にも、初めて驚きが出た。


「金色の獣。ローネ湖の噂と、同じものですか」


「噂の内容を私は知らぬ。が事実としてのローネの報告は受けている。少なくとも私が見たのは金色の獣だ」


「その存在が、この髪飾りに護りを?」


「そう見えた」


 治癒神官が髪飾りへ手を伸ばしかけ、止めた。


「触れても?」


「慎重に頼む」


 治癒神官は青い石に手をかざした。


 淡い光が触れる。


 しばらく何も言わない。


 額に、かすかな汗が浮かんだ。


「……神殿式の護符ではありません」


 誰も口を挟まない。


「ですが、穢れを遠ざける働きがあります。弱くはありません。むしろ……」


 治癒神官は言葉を切った。


「むしろ?」


 セヴランが促す。


「私が、判じてよいものではないかもしれません」


 その言葉で、部屋が静まった。


 神殿の者が判じてよいものではない。


 それは、ただ強いという意味ではなかった。


 神殿の形式の外にありながら、軽々しく名をつけられないもの。


 シノは、その空気を見ていた。


 難しいことは分からない。


 でも、あの髪飾りがリーゼリアを守ってくれていることは分かる。


 リンちゃんが残してくれたものを、怖がられるのは少しだけ寂しかった。


 シノは、膝の上で手を握る。


 今は黙っている。


 ここは、レスト侯と院長先生が話す場だ。


 そう決めて、口を閉じた。


 レスト侯は髪飾りを布に戻した。


「娘の診療は終わったな」


「はい」


「ならば、今日はここまでだ」


 セヴランはすぐには答えなかった。


 上から命じられていることがあるのだろう。


 だが、侯爵の言葉は明確だった。


 ここから先は診療ではなく、聞き取りになる。


 セヴランは深く頭を下げた。


「承知しました。本日は診療記録に留めます」


 レスト侯は頷いた。


「シノ殿への接触は、特別な事情がある以外基本的に認めない。接触時は侯爵家が用意した従者を付ける。また、歌を求めることも認めない。」


 その言葉に、神官たちの視線が初めてマルナ院長へ向いた。


 マルナ院長は静かに頭を下げる。


 ただの付き添いの老婦人ではない。


 少なくとも、レスト侯はそう扱っていない。

 

 不思議な雰囲気のある女性だ「シノ殿」は彼女かもしれない。


 紹介がないのは何かわけがありそうだ。


 セヴランは、探りたい気持ちを抑え平然を装った。


「承りました」


     ***


 神殿の診療が終わる頃、応接室の外が慌ただしくなった。


 執事が入室し、レスト侯へ低く告げる。


「王立魔導学園より、使者がお見えでございます」


 レスト侯は目を閉じた。


「さすがに耳も眼も早い」


「はい。教授会へのご出席をお願いしたいとのことです」


 セヴランが反応する。


「学園が?」


 執事は淡々と続けた。


「ローネ湖周辺の異常、および歌唱魔導に関わる事象について、事情を伺いたいと」


 応接室に、別の緊張が生まれた。


 神殿は奇跡と神獣の記録を求める。


 学園は魔導現象としての解析を求める。


 レスト侯は娘を休ませたい。


 リーゼリアは困ったように父を見ている。


 そしてシノは、部屋の隅で小さくマルナ院長に小さく囁いた。


「院長先生」


「はい」


「リーゼリア様は、休んだ方がいいと思います」


 シノは、リーゼリアを見た。


「ずっと馬車でしたし、神殿の方にも見てもらいました。今日はもう、休んだ方がいいと思います」


 マルナ院長は、少しだけ微笑んだ。外向けに気を遣ってくれている。シノは随分大人になった。


「そうですね」


 レスト侯が立ち上がる。


「本日はここまでだ」


 その一言で、場の流れが決まった。


「神殿には診療記録をまとめていただく。学園には、明日以降、正式に返答する。娘は長旅の後だ。同行者も同じく疲れている」


 セヴランは深く頭を下げた。


「本日は、失礼いたします」


 ノエルも慌てて頭を下げる。


 去り際、彼の視線が一瞬だけシノの方へ向いた。


 シノはそれに気づいた。


 けれど、何も言わなかった。


 ノエルの目は怖くなかった。


 何かを知りたがっている目だった。


 それでも、今は話さない。


 そう決めたから、シノはマルナ院長のそばに座ったまま、静かに見送った。


 レスト侯は、その一瞬も見逃さなかった。


     ***


 神殿の者たちが帰り、学園の使者もいったん引き取った後、侯爵邸はようやく静かになった。


 リーゼリアは自室へ戻り、休むことになった。


 マルナ院長とシノにも、客室が用意された。


 シノは、ふかふかの絨毯を踏まないように、なぜか端を歩いた。


「シノ、普通に歩いて大丈夫ですよ」


「汚したら大変かなって」


「靴は拭いてあります」


「はぁい」


 それでも、シノはそっと歩いた。


 マルナ院長は少しだけ笑った。


 客室に入ると、大きな窓から王都の屋根が見えた。


 夕方の光が、屋根瓦を赤く染めている。


 遠くに、王城の塔が見えた。


 さらに向こうに、別の大きな建物の屋根が見える。


「あれ、学園かな」


「どうでしょう。私には分かりません」


「エルンに、会えるかな」


「きっと、会えます」


 マルナ院長が答えた。


「でも、今日はまず休みましょう。長い一日でした」


「うん」


 シノは頷いた。


 けれど、落ち着かなかった。


 王都に着いた。


 たくさんの大人がいた。


 みんな、シノという人を探していた。


 そして、そのシノは自分だった。


 その事実だけが不思議と自分と似つかわしくないとシノは感じていた。



 数時間が経ったころ


 廊下の向こうで、慌ただしい足音がした。


 侯爵家の使用人の足音とは違う。


 もっと乱れて、急いでいる足音。


 扉の外で、執事の声が響く。


「お待ちください。侯爵閣下は、今――」


「お願いです!」


 若い声だった。


 震えている。


 泣きそうで、それでも必死に抑えている声。


「先ほど診療に伺った、神殿のノエルです。非礼は承知しています。ですが、シノ殿にどうしてもお目通りを――」


 シノとマルナ院長は、顔を見合わせた。


 廊下の向こうで、声が続く。


「どうか、助けてください。神殿では、もう……」


 その言葉の後、子どもの苦しげな息が聞こえた。


 シノは、立ち上がった。


「院長先生」


「はい」


「治せるかは、分からない」


 シノは扉を見た。


 苦しげな息が、もう一度聞こえる。


「でも、その子が苦しそうなら、見るだけでもさせて」


 マルナ院長は、一瞬だけ目を伏せた。


 それから、マダムベルに加護を授かった両手を見た。


「一緒に行きましょう」


「はい」


 王都に着いたその日。


 シノ師は、まだ誰にも見つかっていない。


 けれど、助けを求める声は、もうその扉の前まで来ていた。


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