シノ師、王都に着く
王都の城壁が見え始めた頃、レスト侯はしばらく窓の外を見ていた。
灰色の石壁。
門の上に掲げられた王国の旗。
そこへ続く馬車と人の列。
リーゼリアは向かいの席で、少し緊張した顔をしている。
シノは窓に近づきすぎないようにしながら、それでも外を見たくて、何度も背を伸ばしていた。
「大きい……」
小さな声がこぼれる。
レスト侯は、その声を聞いていた。
この子を、王都へ連れてきた。
娘のためだった。
もしリーゼリアが再び悪夢に囚われたら。
もし、あの夜のように眠れなくなったら。
その時、自分にはシノの歌にすがるしかないと思った。
だから同行を願った。
だが、王都は領地のようにはいかない。
王都に着けば、神殿が問う。
学園も問う。
王宮の耳にも届く。
シノが歌い、白い獣が現れ、娘の悪夢を食べた。
金色の神獣が湖を清め、娘に護りを残した。
白銀の霊獣が霧を起こし、マルナに神託を与えた。
そのどれもが、王都ではただの土産話では済まない。
レスト侯は、静かに口を開いた。
「マルナ殿」
マルナ院長が顔を上げる。
「はい」
「王都に着けば、神殿も学園も黙ってはいだろう」
シノが、こちらを見る。
何の話か、すべて分かったわけではない。
けれど、自分のことを話しているのだということは分かった。
レスト侯は、その視線を一度受け止め、それからマルナ院長へ戻した。
「私は、それを承知のうえで、シノ殿に同行を願いました」
マルナ院長は、すぐには答えなかった。
膝の上で、両手を重ねている。
その手にはもう光は見えない。
けれど、マダムベルから授かった小さな護りは、確かにそこにあるのだと、レスト侯にも分かる気がした。
「娘が、また悪夢に囚われた時。私は、あの子の歌にすがるしかないと思いました」
「侯爵様」
「だからこそ、王都では私が守らねばならない。娘のために来てくれた子を、王都の好奇に差し出すわけにはいかん」
シノは、膝の上の手を見た。
好奇。
その言葉の意味は分かる。
珍しいものを見る目だ。
でも、シノは珍しいものになりたいわけではない。
歌ったのは、リーゼリアが眠れなかったからだ。
バッくんが来てくれたのも、リンちゃんが護ってくれたのも、シノが偉いからではない。
困っている子がいて、歌が届いた。
それだけなのだと思う。
マルナ院長は、ゆっくり頷いた。
「侯爵様。隠しすぎては、リーゼリア様の診療になりません」
「そうでしょうな」
「けれど、シノを力として差し出してはなりません」
レスト侯は目を細めた。
その言葉は、彼が胸の内で恐れていたものと同じだった。
力。
王都の大人たちは、きっとそう見る。
娘を救った歌ではなく。
子どもの祈りではなく。
利用できる力として。
「シノが歌ったこと。白い獣が現れ、リーゼリア様の悪夢を食べたこと。金色の神獣様が護りを残してくださったこと。それは、侯爵様が見た事実としてお話しください」
「解釈は?」
「急がせてはなりません」
マルナ院長の声は静かだった。
「召喚だとも、歌唱魔導だとも、神殿に属する奇跡だとも、こちらからは言わない方がよろしいかと」
「シノ殿については」
「子どもです」
マルナ院長は、はっきり言った。
「まず、それを忘れぬようにしていただきたいのです」
レスト侯は深く頷いた。
「本人への接触は、私とマルナ殿の同席なしには認めない。歌を求めることも認めない。そう伝えよう」
「お願いいたします」
「マルナ殿」
「はい」
「私は、娘のためにこの子を王都へ連れてきた。その責任は、私にある」
マルナ院長は、シノの肩にそっと手を置いた。
「では、その責任を、私にも分けてください。シノは、私の孤児院の子です」
レスト侯は、その言葉に頭を下げた。
「マルナ殿、感謝する」
シノは、二人を見た。
「わたしも、話していいですか」
マルナ院長が、少しだけ驚いたようにシノを見る。
「シノ?」
「難しいことは、たぶん分かりません。神殿とか、学園とか、歌唱魔導とかは分かりません」
シノは、自分の胸に手を当てた。
「でも、リーゼリア様が眠れるようになったことは本当です。バッくんが来てくれたことも、リンちゃんが護ってくれたことも、本当です」
「はい」
「だから、聞かれたら、そこはちゃんと答えたいです」
レスト侯は、黙ってシノを見た。
「でも」
シノは、少し言葉を探した。
前世で父が集めてくれた歌。
病室で聞いた歌。
孤児院で子どもたちと歌った歌。
リンちゃんやバッくんやマダムベルに届いた歌。
歌は、誰かを怖がらせるためのものではない。
誰かを閉じ込めるためのものでもない。
「歌ってくださいって言われて歌うのは、違うと思います」
マルナ院長の目が、静かに細められた。
「なぜ、そう思うのですか」
「私の歌に不思議な何かがあるとして、それはいつも困っている人に届くものだと思うからです」
シノは答えた。
「リーゼリア様が眠れなかったから、歌いました。霧でみんなが眠りそうだったから、歌いました。だから……見せてほしいと言われて歌うのは、違うと思います」
レスト侯は、小さく息を吐いた。
それは安堵に近い息だった。
「シノ殿。その考えは、忘れないでいただきたい」
「はい。忘れません」
「大人は、時に言葉を整えて頼んでくる。正しいことのように聞こえる言葉で、望むものを差し出させようとする」
シノは少しだけ眉を寄せた。
「正しい言葉なのに、ですか」
「正しい言葉ほど、断りにくいことがある」
レスト侯は言った。
「だから、迷った時は、マルナ殿と私に相談してほしい」
「はい。そうします」
シノは頷いた。
その顔は、王都の大きさに驚いていた時より、少しだけ落ち着いていた。
レスト侯は、窓の外へ視線を戻した。
王都の門が、近づいていた。
***
レスト侯爵家の馬車は、王都の門を通った。
門番は侯爵家の紋章を見ると、すぐに姿勢を正した。
馬車の中を確認する時、ほんの少し視線が揺れる。
レスト侯。
リーゼリア。
落ち着いた老婦人。
小さな少女。
それだけだった。
門番は何かを確かめたそうにしたが、結局、口を閉じた。
「お通りください」
馬車は王都へ入った。
シノは窓の外を見続けた。
道の両側には店が並び、布を売る人、果物を運ぶ人、水を撒く人、荷を引く馬がいた。
遠くに、塔が見える。
あれが王城なのか、学園なのか、シノには分からない。
ただ、大きいと思った。
全部が、大きい。
「ここに、エルンがいるんだね」
「はい。王立魔導学園にいらっしゃるはずです」
リーゼリアが答える。
シノは、少しだけ笑った。
リンちゃんはもういない。
バッくんもいない。
マダムベルもいない。
けれど、不安だけではなかった。
帰る場所がある。
呼びたい時に、届く歌がある。
そう言われた言葉が、胸の奥に残っている。
やがて馬車は、貴族街の一角にあるレスト侯爵家の王都邸へ入った。
門が開き、整えられた庭が見える。
屋敷の玄関前には、使用人たちが並んでいた。
馬車の扉が開く。
まずレスト侯が降りた。
続いて、リーゼリアが姿を見せた。
その瞬間、並んでいた使用人たちの空気が変わった。
「お嬢様……」
年配の侍女が、口元に手を当てた。
別の侍女が、息を呑む。
リーゼリアは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「心配をかけました」
それだけで、侍女の一人が目を潤ませた。
レスト侯は娘の肩に手を添えた。
「長旅の後だ。まず休ませる」
「はい、旦那様」
「神殿への使いは」
「すでに。診療の件として、お伝えしております」
「よい」
レスト侯は短く頷いた。
シノは馬車から降りて、屋敷を見上げた。
大きい。
窓がたくさんある。
扉も大きい。
庭には花壇があり、水盤には空が映っていた。
「王都って、家も大きいんだね」
シノが呟くと、マルナ院長が小さく答えた。
「ここは侯爵家のお屋敷ですからね」
「侯爵家ってすごいね」
「はい。ですから、走り回ってはいけませんよ」
「はい」
シノは真面目に頷いた。
近くの侍女が、少しだけ微笑んだ。
その視線はやさしかった。
侯爵令嬢についてきた、地方の子。
たぶん、それくらいに見えているのだろう。
マルナ院長は、控えめに会釈した。
こちらも、令嬢の付き添いの老婦人として扱われている。
誰も、それ以上のことは尋ねなかった。
屋敷の中へ案内される途中、シノは振り返って王都の空を見た。
石造りの街。
高い屋根。
知らない人たちの声。
この街では、シノという名前が、自分より先に歩いている。
けれど、シノは自分の手をぎゅっと握った。
歌は、困っている人に届くもの。
それだけは、王都に来ても変わらない。
そう思いながら、シノはレスト侯爵邸の扉をくぐった。




