王国の盾
王都貴族街の奥に、その屋敷はあった。
夜更けにもかかわらず、最奥の会議室には灯りがともっている。
窓には厚い幕が下ろされ、扉の外には二人の私兵が立っていた。
長い卓の上には、王国の地図が広げられている。
国境。
魔物の出没地。
古戦場。
王都へ続く街道。
そして、ローネ湖周辺。
地図の端には、黒い盾に銀の鎖が巻きついた紋章が置かれていた。
「ローネ湖周辺の報告は、事実か」
上座に座る男が言った。
低く、よく通る声だった。
黒に近い藍色の礼服。
胸元には、銀鎖の飾り。
王国防衛派の中心人物、アルベリヒ・グランツ公爵である。
「ローネ湖の異常消失。金色の神獣らしき存在の目撃。レスト侯爵令嬢の回復。そして、王都街道に発生した眠り霧の消滅」
卓の右側に座る老貴族が、紙束をめくりながら答えた。
「いずれも確認中です。ただし、レスト侯がその者を王都へ連れてきているのは確かです」
「その者?」
若い貴族が鼻で笑った。
「シノ師、でしたか。学園で噂の謎の歌唱魔導士」
「人物像は」
グランツ公爵が問う。
老貴族は、紙束へ目を落とした。
「不明です」
「年齢は」
「不明」
「性別は」
「不明」
「出身は」
「不明」
若い貴族が、わざとらしく肩をすくめた。
「ずいぶん役に立たぬ議事録ですな」
「学園側が、意図的に人物情報を伏せています」
老貴族は、淡々と答えた。
「人物像を先に置けば観察が歪むため、現象を中心に扱うべきである、と」
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
グランツ公爵は、薄く笑った。
「現象だけ、か」
「学者らしい言葉です」
「ならば、学園は現象を見ればよい」
グランツ公爵は、地図の上に置かれた銀鎖の紋章へ視線を落とした。
「我らは人物を見る」
若い貴族が笑みを深める。
「老練な術者なら、交渉できます」
老貴族が続けた。
「貴族なら、家ごと抱き込めます」
「平民なら、保護できる」
若い貴族が言った。
「身寄りなき者なら、国家が後見すればよい」
「相手が何者であれ、神獣級存在と接触できる者を野放しにはできん」
グランツ公爵の声は静かだった。
「レスト侯が反対するのでは」
老貴族が言う。
「あの男の宝は娘と聞く。恩人ともなれば獣より牙を剥くだろう」
「ならば、レスト侯ごと説得すればよろしい。娘の安全。王都の安全。王国の安全。正しい言葉はいくらでもあります」
「正しい言葉ほど、人を縛る鎖になる」
グランツ公爵が言った。
燭台の火が、銀色の鎖を赤く照らす。
「神殿からの報告は」
公爵が言うと、部屋の隅に座っていた男が顔を上げた。
白い神官服。
だが、その上に羽織る外套は高価な黒絹で、胸元には小さな銀鎖の留め具がある。
神殿記録院副監、オルド・シグリア。
三神教に仕える神官であり、神獣記録と古聖典の管理を任される立場にある男だった。
「ローネ湖の金色の神獣については、麒麟様に類する存在である可能性が高いでしょう」
オルドは、淡々と言った。
「神殿内では、まだ正式認定には至っておりません。しかし、浄化、水脈、土地の清め。記録と一致する点が多い」
「夢を食う白い獣は?」
「獏様、または夢貘様の幼体に近いかと」
若い貴族が肩をすくめた。
「神獣だの霊獣だの、ずいぶん増えたものだ」
「増えたのではありません」
オルドは穏やかに訂正した。
「現れたのです。あるいは、呼び出された」
「神殿としては、さぞ喜ばしい奇跡でしょうな」
老貴族の言葉には、皮肉が混じっていた。
オルドは微笑した。
「奇跡は、記録されて初めて権威になります」
その言葉に、若い貴族が笑った。
「さすが神殿の方だ。信仰にも台帳がある」
「信仰は人を救います。ですが、神獣の出現記録は神殿の権限を広げる」
オルドは、少しも恥じなかった。
「神獣級存在の認定、聖域指定、巡礼路の整備、護符の発行、祈祷権の管理。いずれも神殿の管轄となり得ます」
「つまり、金になる」
「信仰維持には費用がかかりますので」
グランツ公爵は、そのやり取りを止めなかった。
ただ静かに、地図を見ている。
「神殿は、シノ師をどう扱う」
「表向きには、慎重に。奇跡を乱用する者として断じるには早く、聖者として抱え込むにも情報が足りません」
「裏では?」
「歌によって神獣と縁を結ぶ者であれば、神殿は必ず関与すべきです。少なくとも、学園に独占させるべきではない」
「神殿も、取り分を求めるか」
「信仰の正しい管理を求めます」
オルドは微笑した。
その笑みは、祈る者のものではなかった。
「正しい管理、か」
グランツ公爵が呟いた。
「どこも同じだな」
若い貴族が卓へ身を乗り出した。
「王宮契約士どもも、神殿も、学園も、結局は管轄を主張するでしょう。ならば、最初から上に立つ者が必要です」
「上に立つ者」
「我々です」
若い貴族の声は、熱を帯びていた。
「神獣級存在を国家防衛に組み込めば、王国の軍制は一変します。国境要塞への配備、魔物侵攻への即応、隣国への抑止。新たな予算、新たな爵位、新たな契約権。王国防衛派が中心に立てば、古い家門の時代は終わる」
「本音が出たな」
老貴族が言う。
「権利が欲しいか」
「権利なしに国は動きません」
「金もか」
「金なしに軍は動きません」
「地位もか」
「地位なしに人は従いません」
若い貴族は笑った。
「綺麗事だけで国を守れるなら、神殿に槍を持たせればいい」
オルドが軽く眉を動かした。
「神殿は槍を持ちません」
「だから我々が持つ」
若い貴族が言った。
「陛下は、またお迷いになるでしょう。神獣級の力を、個人の情に委ねるべきではない」
「神殿は祀れと言う」
老貴族が続けた。
「学園は観察しろと言う」
オルドが静かに言う。
「王は保護せよと言うでしょう」
「どれも間に合わぬ」
グランツ公爵が言った。
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
「では?」
若い貴族が問う。
「運用する」
グランツ公爵は、短く答えた。
「神獣を、ですか」
「王国を守るためだ」
「王国を守る盾、ですな」
「盾は、掲げる者を選ぶ」
グランツ公爵は地図の上、王都の位置に指を置いた。
「陛下が掲げぬなら、掲げられる者が掲げる」
老貴族が低く言った。
「王命なしに軍を動かせば、反逆です」
「軍ではない。防衛行動だ」
「王城を囲むことも?」
「守るために囲む」
「玉座を?」
「王国を」
沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、燭台の火が揺れる。
若い貴族の顔から、さきほどまでの軽薄な笑みが消えていた。
「……陛下を、退けるおつもりですか」
「退けぬ」
グランツ公爵は言った。
「お守りする」
「権限を奪って?」
「国防非常権限を一時的に移すだけだ」
オルドが静かに目を伏せた。
「神殿は、王権の停止を認めません」
「神殿は認めぬだろう」
グランツ公爵の視線が、オルドへ向く。
「だが、神殿の一部は理解する」
オルドは何も言わなかった。
ただ、胸元の銀鎖の留め具に指を触れた。
老貴族が口を開く。
「辺境焼失の時も、王都の遅れがすべてでした」
その言葉に、グランツ公爵の指が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……そうだ」
公爵は言った。
「遅れが、すべてだった」
「閣下は、あの悲劇を二度と繰り返さぬために」
「二度と、誰にも迷わせぬ」
グランツ公爵の声は、低かった。
怒りではない。
悔恨でもない。
もっと深い場所に押し込めたものが、硬く固まった声だった。
「迷いは国を殺す。祈りは遅い。学問はためらう。王は優しすぎる」
彼は地図の上で、王都から国境へ指を滑らせた。
「ならば、迷わぬ国を作る」
「祈りの国から、盾の国へ」
若い貴族が呟く。
「守られる王国ではなく、守る王国へ」
老貴族が頷いた。
オルドは、微笑した。
「神獣は、その旗印になります」
「旗印では足りぬ」
グランツ公爵は言った。
「神獣を祀る時代は終わる」
その声に、オルドの眉がわずかに動いた。
だが、反論はしなかった。
「これからは、神獣を運用する時代だ」
グランツ公爵の指が、銀鎖の紋章を押さえる。
「王国の盾として、神獣を鎖につなぐ」
若い貴族が、ゆっくり頷いた。
「そのためには、シノ師を」
「保護する」
グランツ公爵は即座に言った。
「保護し、観察し、必要なら隔離する」
「何者かも分からぬ相手をですか」
「何者か分からぬからだ」
公爵は、迷わず答えた。
「老練な術者であれ、在野の歌唱師であれ、神殿外の祈歌師であれ、王国の管理外にある神獣級の力は危険に過ぎる」
「本人が拒めば?」
「危険な力を持つ者の拒絶は、国防の前では軽い」
オルドが小さく笑った。
「実に正しい言葉です」
「正しい言葉ほど、人を縛る」
グランツ公爵は言った。
「だから使える」
その時、卓の端に控えていた従者が、一通の書類束を差し出した。
封はすでに解かれている。
表紙には、王立魔導学園の印と、会議記録を示す整理番号があった。
「学園の議事録は?」
「写しを入手しております」
老貴族が書類を開いた。
「本物か」
「書記官の印があります。少なくとも体裁は本物です」
「内容は」
「ローネ湖周辺における神獣顕現の可能性。夢喰い獣に類する存在の顕現。シノ師と呼ばれる人物の王都来訪予定。そして、到着後の面会に関する制限です」
「制限?」
「勝手な接触は禁止。学園長立ち会いのもと、本人および保護者同席で聞き取りを行う方針」
「慎重だな」
「さらに、このような記述が」
「読め」
老貴族は紙面へ目を落とした。
「――人物像を先に置けば観察が歪むため、現象を中心に扱うべきである、と」
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
グランツ公爵は、薄く笑った。
「現象だけ、か」
「やはり学者らしい言葉です」
「ならば、やはり学園は現象を見ればよい」
公爵は、書類を卓へ戻した。
「我らは人物を押さえる」
若い貴族が、声を潜めて笑った。
「学園は面会を待つ。神殿は認定を待つ。王は報告を待つ」
グランツ公爵は言った。
「待つ者は、遅れる」
老貴族が頷く。
「では御前会議では?」
「まず保護を唱える」
公爵は静かに言った。
「神獣級存在を、出自不明の個人に委ねるのは危険。王国が責任を持って保護すべき。神殿は記録と認定を。学園は分析を。軍務は警備を。誰も反対できぬ」
「そして、その全てを防衛派が束ねる」
「王国のために」
若い貴族が微笑する。
「王国のために」
老貴族が続ける。
「信仰の秩序のために」
オルドが言う。
グランツ公爵は、最後に言った。
「迷わぬ国のために」
遠くで鐘が鳴った。
夜半を告げる王都の鐘だった。
その音は、厚い幕に遮られ、会議室の中ではひどく鈍く聞こえた。
グランツ公爵は、黒い盾に巻きつく銀鎖の紋章を指先で押さえた。
「王国の盾は、我らが持つ」
誰も異を唱えなかった。
その部屋にいる者たちは、まだ知らない。
鎖の音は、すでに夢と目覚めの境にまで響いていたことを。
そして、遠い街道でその音を聞いた白銀の貴婦人が、ひどく不機嫌そうに鈴を鳴らしていたことを。




