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院長先生、加護と神託を授かる


 霧が晴れたあと、一行は街道脇の少し開けた場所で休むことになった。


 道はもう眠っていない。


 馬たちは耳を動かし、トマは御者台から何度も周囲を確かめていた。


「本当に、申し訳ございません、旦那様」


「お前のせいではない」


 レスト侯は短く言った。


「全員、無事ならそれでいい」


 護衛たちも馬から降り、馬の首筋を撫でている。


 リーゼリアは馬車のそばで、まだ少しぼんやりしていた。


 けれど、あの霧の中にいた時の眠気はもう消えている。


 シノは、道端の石の上に優雅に立つマダムベルを見ていた。


 白銀の毛並み。


 首元の金の鈴。


 上品な声。


 そして、時々つく「ザマス」。


 すごい方なのは分かる。


 でも、どういうすごさなのかは、まだよく分からなかった。


「確認しなければなりません」


 マルナ院長が、馬車の中から一冊の本を取り出した。


 『神獣大全』である。


 院長の顔は真剣だった。


 シノは少しだけ身を乗り出した。


「院長先生?」


「夢。目覚め。鈴。朝。白銀……」


 マルナ院長は震える指でページをめくった。


 バッくんは毛布の端から顔を出している。


 マダムベルは黙ってその様子を見ていた。


 やがて、マルナ院長の手が止まる。


 その顔色が変わった。


「……暁夢貘ぎょうむばく


「ぎょうむばく?」


 シノが首をかしげる。


 マルナ院長は、かすれた声で読み上げた。


「夢と目覚めの境に棲み、夜明けの鐘を鳴らすもの。眠りに沈みすぎた魂を起こし、迷い込んだ夢路を正す。悪夢を食らう獏とは近縁なれど、その役目は食らうことにあらず。起こすことにあり……」


 そこまで読んで、マルナ院長は本を閉じた。


 そして、その場に膝をついた。


「ははーっ」


「院長先生!?」


 シノが慌てる。


 マルナ院長は、街道の土の上に両手をついて頭を下げていた。


「シノ。こちらの方は、神獣大全に記される暁夢貘様です。夢と目覚めを司る、たいへん尊い霊獣様です」


「マダムベルだよ?」


「マダムベル様です」


 マルナ院長は即答した。


 その声を聞いたレスト侯の表情が変わった。


 侯爵はすぐに馬車から離れ、リーゼリアへ手を差し出す。


「リーゼ」


「はい、お父様」


 リーゼリアも父に支えられながら、静かに膝をついた。


 護衛たちも、遅れて膝をつく。


 トマは御者台から慌てて降り、深く頭を下げた。


 レスト侯爵家の者たちが、街道の上で一斉に頭を垂れる。


 シノだけが、少し遅れて周りを見た。


「えっと……」


 マダムベルは、そんな一行をゆっくり眺めた。


 そして、マルナ院長へ視線を戻す。


『顔をお上げなさいな』


 マルナ院長は、ゆっくり顔を上げた。


『信仰の人よ』


 その一言で、マルナ院長の肩が震えた。


『あなたは、よく夜を越えさせてきたザマス』


 シノは、マルナ院長を見た。


 院長は何も言わない。


 ただ、マダムベルを見上げている。


『泣き疲れて眠った子。熱でうなされた子。母の名を呼んで目を覚ました子。怖い夢を見たと言えず、ただ布団の端を握っていた子』


 マダムベルの声は、静かだった。


『あなたは、その子らのそばにいた。水を飲ませ、額を拭き、灯りを落とし、朝まで名前を呼び続けた』


 マルナ院長の目に、涙が浮かんだ。


『祈りながら、手を動かしてきた。神に願いながら、子どもの手を離さなかった』


 マダムベルは、鈴を小さく鳴らした。


『素晴らしい信徒ザマス』


 マルナ院長は唇を震わせた。


「もったいない……お言葉です」


『もったいなくなどないザマス。ですから、褒美をあげましょう』


「褒美……?」


『神託と、少しばかりの護りを』


 マダムベルの鈴が、淡く光った。


『子どもの眠りを軽んじてはなりません』


 その声は、街道の空気を変えた。


 レスト侯も、リーゼリアも、護衛も、自然とさらに深く頭を下げる。


『よく眠る子は、よく朝を迎えます。悪い夢を見た子を叱ってはなりません。怖かった夜を笑ってはなりません』


 マルナ院長は、両手を胸の前で組んだ。


『起きた子には、水を飲ませ、光を見せ、抱きしめてやるとよろしいザマス』


「はい」


『寝具は干しなさい。枕は清めなさい。寝る前の言葉は、できるだけやさしく』


「はい」


『夜の不安は、朝になっても残るものザマス』


「はい」


 マダムベルが一歩、マルナ院長へ近づいた。


 白銀の光が、院長の両手に降りる。


 ふわりと、朝の霧が晴れる時のような光だった。


『眠れぬ子の額に触れるとよろしいザマス』


 マルナ院長の両手に、淡い銀色の光が宿った。


『悪い夢を消す力ではありません。けれど、朝までひとりではないと伝えるくらいの灯りにはなるでしょう』


「私に、そのような……」


『あなたは、すでにしていたザマス』


 マダムベルは、やさしく言った。


『わたくしは、少し見えやすくしただけ』


 マルナ院長は、深く頭を下げた。


 シノは胸が温かくなった。


 院長先生は、いつもそうだった。


 夜に泣いた子がいれば、そばにいた。


 熱を出した子がいれば、水を飲ませていた。


 怖い夢を見た子がいれば、朝まで手を握っていた。


 神獣に褒められたのは、特別なことをしたからではない。


 ずっとしてきたことを、ちゃんと見てくれる人がいたからだ。


『それと』


 マダムベルの声が、少しだけ鋭くなった。


『あの子には、ふかふかを与えすぎないように』


 全員の視線が、バッくんへ向いた。


 バッくんは毛布を抱えたまま固まった。


「えー」


『大事な神託ザマス』


 マルナ院長は真剣に頷いた。


「ふかふかは、ほどほどに」


「院長先生、それも守るの?」


「神託ですから」


 シノは困った顔をした。


 バッくんは絶望した顔で毛布に頬をこすりつけている。


     ***


 しばらくして、マダムベルはバッくんのそばへ歩いていった。


『さて、帰るザマス』


「えー」


『えー、ではないザマス』


「でも、リーゼちゃんの悪い夢が戻ったらー」


 バッくんがそう言うと、リーゼリアが不安そうに顔を上げた。


「バッくん様が帰ってしまったら……また悪い夢を見た時は……」


 その時、リンちゃんが静かに近づいた。


 金色の神獣は、何も言わない。


 ただ、リーゼリアの髪飾りへ顔を寄せた。


 金色の光が、小さな輪になって青い石へ宿る。


 リーゼリアが息を呑んだ。


 マダムベルが目を細める。


『麒麟様の護りザマスね』


「リンちゃんの?」


『悪い夢が入り込む前に、道を正す結界ザマス。さすが、無口でも仕事が早いザマス』


 リンちゃんは何も言わなかった。


 ただ、静かに瞬きをした。


 バッくんが、ふにゃりと笑う。


「これならだいじょーぶー。悪い夢、入りにくいねー。でも、もし入り込んだら呼んでねー。食べに来るよー」


「呼んだら、来てくださるのですか」


 リーゼリアが尋ねる。


「うんー。たぶんー」


『たぶんではなく、来るべき時に来るザマス』


 マダムベルが言った。


 それから、リンちゃんへ顔を向ける。


『そういえば、麒麟様』


 リンちゃんの金色の耳が、ほんの少し動いた。


『ここへ来る途中、瑞界ずいかいのものが、あなたを探しておりましたわ』


「ずいかい?」


 シノが聞き返す。


『麒麟様のような瑞兆を司るものたちが行き交う界ザマス。清め、正し、よき道を示すものたちの場所、と言えばよろしいかしら』


 シノには全部は分からなかった。


 でも、リンちゃんにも帰る場所があるのだと分かった。


「リンちゃんを、探してるの?」


『ずいぶん長く現世においでなのでしょう。瑞界も、留守番ばかりでは困るザマス』


 リンちゃんは何も言わない。


 けれど、静かにシノを見た。


「リンちゃん、帰るの?」


 シノが尋ねると、リンちゃんは少しだけ頭を下げた。


 寂しい。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


 リンちゃんは消えてしまうのではない。


 帰るのだ。


『名をいただいた縁は残ります』


 マダムベルが言った。


『けれど、縁とは鎖ではございませんわ』


 シノは、その言葉を聞いて、顔を上げた。


『呼びたい時に呼ぶ。来るべき時に来る。帰るべき時には帰る。それでよろしいザマス』


 バッくんは名残惜しそうに毛布を見た。


『バッくん』


「はいー」


『毛布は置いていくザマス』


「そんなー」


『当然ザマス』


 シノはバッくんの前にしゃがんだ。


「バッくん、ありがとう」


「うんー。シノちゃんの歌、また聞こえたら来るねー」


「うん」


「でも、ふかふか少なめはいやだなー」


「院長先生に聞いてみるね」


「だめそうー」


 バッくんは悲しそうに言った。


 マダムベルが鈴を鳴らす。


 ちりん。


 白銀の光が、バッくんを包む。


 夢から覚める時のように、輪郭が少しずつ薄くなる。


 マダムベルもまた、朝の霧に溶けるように淡くなっていく。


 リンちゃんの金色の姿も、朝の光に少しずつ透け始めた。


 最後に、マダムベルはシノを見た。


『シノ』


「はい」


『歌は、届くものザマス』


 シノは、息を止めた。


『だからこそ、何を届けたいのかを忘れてはなりません』


「何を……届けたいのか」


『そうザマス』


 マダムベルは、優雅に頷いた。


『今日の歌は、起こす歌でした。よろしい歌でしたわ』


 鈴が、最後に一度鳴った。


 ちりん。

マダムベルが鈴を鳴らす。


『Frère Jacques, frère Jacques……』


 それは、先ほどシノが歌った異界の朝の歌だった。


 マダムベルはひどく上機嫌に、鼻歌のように口ずさんでいる。


『よい歌でしたわ。朝の鐘は、こうでなくてはならないザマス』


「姉さま、ご機嫌ー」


『当然ザマス。よい歌に呼ばれた朝は、夢界の品位が上がるザマス』


 白銀の光が、バッくんを包む。


「あー、帰るー」


『帰るのではありません。帰還ザマス』


 次の瞬間、マダムベルとバッくんの姿は消えていた。


 リンちゃんは、まだ少しだけそこにいた。


 シノのそばへ来て、鼻先をそっと寄せる。


「リンちゃん」


 シノが手を伸ばすと、金色の毛並みに触れた気がした。


 けれど、次の瞬間には、朝の光だけが残っていた。


 白い霧も、もうどこにもない。


 街道には、いつもの昼の光が戻っていた。


 シノは、しばらく何も言えなかった。


 歌は、届くもの。


 何を届けたいのかを忘れてはいけない。


 シノは、自分の両手を見た。


 魔力はない。


 魔法も使えない。


 でも、歌は届く。


 どこかへ。


 誰かへ。


 それが少し嬉しくて、少しだけ怖かった。


 馬車へ戻る前に、シノは王都へ続く道を見た。


 エルンが待っている。


 そう思うと、少しだけ胸が温かくなる。


 けれど、シノはまだ知らない。


 王都ではすでに、シノ師という名が、本人よりずっと大きくなって待っていることを。


 そして、眠りの奥で聞こえた鎖の音が、王都の影へ続いていることを。


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