マダムベル
「……姉さまー」
白い霧の中で、バッくんは毛布から顔だけ出したまま、情けない声を出した。
白銀の獣は、霧の中でぴたりと足を止める。
首元の金の鈴が、ちりんと鳴った。
『姉さまー、ではないザマス』
上品な声だった。
けれど、はっきり怒っていた。
『あなた、またこんなところで寝ていたザマスね』
「寝てないよー」
『寝ていたザマス』
「ちょっとだけー」
『ちょっとだけ、を百回繰り返せば大寝坊ザマス』
バッくんは、毛布の中へさらに沈んだ。
シノは、霧の中に立つ白銀の獣を見上げていた。
リンちゃんとは違う。
バッくんとも違う。
金色ではなく、白銀。
静かな水の光ではなく、朝の鐘のような光。
怖くはない。
けれど、背筋が自然に伸びる。
「あの……」
シノが声を出すと、白銀の獣がこちらを見た。
長い耳が、ふわりと揺れる。
『あなたが、今の歌を歌った子ザマスね』
「うん」
『よく響いたザマス』
「響いた?」
『夢と目覚めの境まで届いたザマス。朝の鐘を鳴らすには、なかなか良い歌ザマス』
シノは自分の口元に手を当てた。
歌が、届いた。
リンちゃんが来た時も、歌っていた。
リーゼリアを助けようとした時も、歌っていた。
今も、歌ったら、この白銀の獣が来た。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。
嬉しいような。
でも、少し怖いような。
自分の歌が、どこまで届いているのか分からない。
白銀の獣は、ふとバッくんへ目を戻した。
『それにしても、あなた』
「なにー?」
『名をいただいているザマスね』
バッくんは毛布の中で、少しだけ嬉しそうに丸くなった。
「うんー」
『誰からザマス』
「シノちゃんからー」
白銀の獣の視線が、もう一度シノへ向く。
シノは少しだけ手を上げた。
「バッくんっていうの」
『……バッくん』
白銀の獣は、ゆっくりその名を繰り返した。
『ずいぶん、ふかふかした名をいただいたザマスね』
「いい名前でしょー」
『否定はしないザマス。けれど、その名をいただいたなら、なおさら現世で寝こけていてはいけないザマス』
「ふかふかがあったからー」
『ふかふかに負けるんじゃないザマス』
「それは難しいー」
『難しくないザマス』
バッくんは小さくしぼんだ。
シノは、白い霧の奥を見た。
トマも、護衛たちも、まだ完全には目を覚ましていない。
馬たちも、首を下げたままだ。
「みんな、眠っちゃいそうなの」
シノは言った。
「起こせる?」
『そのために来たザマス』
白銀の獣は、すっと胸を張った。
『まったく。道まで寝かせるなど、夢界の礼儀を知らぬ霧ザマス』
「夢界?」
「姉さまー、それ言っちゃうのー?」
バッくんが毛布の中から言う。
白銀の獣は、きっぱり答えた。
『あなたは黙っていなさい。ふかふかに負けて現世で寝こけていた獏に、発言権は少ないザマス』
「ひどいー」
『事実ザマス』
バッくんは小さく丸まった。
白銀の獣は、霧の方へ向き直る。
金の鈴が、ちりんと鳴った。
その音は小さいのに、霧の奥までまっすぐ通っていった。
『起きなさい』
白銀の獣が言った。
『ここは夢路ではございませんわ。人の道ザマス』
霧が揺れた。
白い布のように厚く重なっていた霧が、少しずつほぐれていく。
シノは息を呑んだ。
鈴の音が、もう一度鳴る。
ちりん。
『眠るべき場所へ帰りなさい。目覚めるべき者を、これ以上連れていくものではございません』
霧の中から、低い音がした。
獣の唸り声ではない。
風の音でもない。
寝息に似ていた。
大きな何かが、遠くで眠ったまま息をしているような音。
バッくんが、少しだけ真面目な顔になった。
「やっぱり、おっきい子の寝息だねー」
白銀の獣の耳がぴくりと動く。
『誰かが、眠っている大きなものへ手を伸ばしたザマス』
「手?」
シノが尋ねる。
『届かなかった手ザマス』
白銀の獣は、霧の奥を見据えた。
『届かないのに、無理に伸ばした。けれど届かなかった。だから、指先に引っかかった眠りだけが、こちらへこぼれたザマス』
シノには、少し難しかった。
でも、良くないことが起きているのは分かった。
誰かが、何かを呼ぼうとした。
けれど、ちゃんとは届かなかった。
その失敗したものが、霧になって道へこぼれた。
リンちゃんが、霧の向こうで静かに立っていた。
金色の目が、王都の方を見ている。
バッくんも同じ方を見た。
「鎖の音がするねー」
その言葉に、白銀の獣が鋭く振り向いた。
『バッくん』
「はーい」
『今は、この無作法な霧を起こすのが先ザマス』
「はーい」
バッくんは素直に返事をした。
シノは、王都の方を見た。
鎖の音。
霧の奥。
眠っている大きなもの。
分からない言葉が並んでいる。
けれど、なぜか胸が少し冷たくなった。
白銀の獣が、シノを見る。
『シノ』
「はい」
『もう一度、今の朝の歌を歌うザマス。わたくしが鐘を鳴らします。あなたの歌が道に届き、わたくしの鈴が霧を起こすザマス』
「うん」
シノは頷いた。
少しだけ、手が震えていた。
でも、歌う理由は分かっている。
誰かを呼びたいからではない。
みんなを起こしたいから。
眠ってはいけない人たちに、朝を届けたいから。
シノは息を吸った。
「Frère Jacques, frère Jacques……」
歌が霧へ溶けていく。
白銀の獣の鈴が、歌に合わせるように鳴った。
ちりん。
「Dormez-vous, dormez-vous……」
霧が薄くなる。
トマが御者台で大きく息を吸った。
「……はっ」
馬が耳を立てる。
護衛の一人が、はっと顔を上げた。
「眠っていた……?」
「まだ寝てないよー」
バッくんが言う。
『寝かけていたザマス』
白銀の獣が訂正した。
シノは歌い続けた。
朝だよ。
起きて。
鐘が鳴っているよ。
父が教えてくれた歌の意味を、心の中で思い出しながら歌う。
鈴の音が、三度鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
最後の音が消えた時、白い霧はすっかり薄くなっていた。
道の石が見える。
木々の葉が見える。
馬車の輪郭が、はっきり戻ってくる。
白く眠っていた道が、朝の光を受けて目を覚ましたようだった。
トマが御者台で深く頭を下げる。
「申し訳ございません、旦那様。あやうく……」
「無事ならいい」
レスト侯は短く言った。
その声には、安堵がにじんでいた。
リーゼリアも、眠気が抜けたように顔を上げる。
「シノさん……」
「大丈夫?」
「はい。もう眠くありません」
マルナ院長は、馬車の扉のそばで胸を押さえていた。
それから、白銀の獣へ深く頭を下げる。
「お助けいただき、ありがとうございます」
『礼には及ばないザマス』
白銀の獣は、優雅に鼻先を上げた。
『眠るべきでない時に眠らせる霧を起こす。それは夢界の品位にも関わることザマス』
「夢界の品位……」
シノはよく分からないまま繰り返した。
バッくんが小さく言う。
「姉さま、そういうの好きだからー」
『バッくん』
「はいー」
『食べたら働く。寝るなら帰って寝る。夢界の基本ザマス』
「はいー」
『ふかふかに負けるんじゃないザマス』
「それは難しいー」
『難しくないザマス』
白銀の獣は、ふん、と鼻を鳴らした。
その仕草は本当に貴婦人のようで、シノは思わず少し笑った。
白銀の獣が、再びシノへ向き直る。
『それで、シノ』
「はい」
『わたくしを何と呼ぶザマス?』
「え?」
『呼び名ザマス。この子に名を与えたあなたなら、わたくしにも何かあるのでしょう?』
バッくんが、毛布の中から少し誇らしげに顔を出した。
シノは白銀の獣を見た。
白銀の毛並み。
首元の金の鈴。
朝の歌に応えて来てくれた、夢と目覚めの境の獣。
「朝の鐘みたい」
シノは呟いた。
『ほう』
「あと、話し方が……えっと、すごく、上品」
『当然ザマス』
「マダム、みたい」
『続けるザマス』
「ベル……鈴だから」
シノは少し考えて、顔を上げた。
「マダムベルさん?」
白銀の獣は、しばらく黙った。
鈴が、ちりんと鳴る。
『マダムベル』
「うん」
『続けて呼ぶとよろしいザマス』
「マダムベル?」
『よろしい響きザマス』
マダムベルは満足げに頷いた。
『夢界の貴婦人にふさわしく、朝の鐘にもふさわしい名ですわ』
バッくんが小さく呟く。
「姉さま、気に入ってるー」
『バッくん』
「はいー」
白い霧は晴れ、道はもう眠っていない。
けれど、シノの胸の奥には、まだ鈴の音が残っていた。
歌は届いた。
そして、また誰かが来てくれた。
それが嬉しくて、ほんの少しだけ、怖かった。




