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眠りの霧と朝の歌




 馬車は、ハウル村を離れ、王都へ続く街道へ入った。


 はじめのうちは、道の両側に畑が広がっていた。


 やがて畑は少なくなり、ゆるやかな丘と木立が増えていく。


 シノは窓の外を見ていた。


 知らない景色が続く。


 前世で父が見せてくれた映像の中にも、こんな道があった気がする。


 でも、画面越しではない。


 今は、自分の目で見ている。


 馬車の揺れも、車輪の音も、窓から入る風も、全部ここにある。


「シノさん」


 向かいの席で、リーゼリアが小さく呼んだ。


「なあに?」


「王都に着いたら、学園の方にもご挨拶すると思います」


「うん」


「少し、怖いです」


 リーゼリアは膝の上で手を重ねた。


「私は、本当ならもっと早く王都へ行くはずでした。でも、眠れなくなって……行けなくなって……」


 言葉がそこで止まる。


 シノは、少し考えた。


「でも、今は行こうとしてる」


 リーゼリアが顔を上げる。


「眠れなかったのに、行こうとしてるんだから、弱くないと思う」


 リーゼリアの目が、少しだけ丸くなった。


 それから、ゆっくり笑う。


「シノさんは、不思議なことを言いますね」


「そうかな」


「はい。でも、少し楽になります」


 シノはほっとした。


 バッくんが籠の中で寝返りを打つ。


「いい夢……五割増し……」


「寝言まで夢なんだね」


「夢喰いですから」


 リーゼリアが真面目に答えたので、シノは少し笑った。


 馬車の外では、リンちゃんがしばらく並んで歩いていた。


 護衛の馬も、最初は金色の神獣を気にしていたが、いつの間にか落ち着いている。


 御者台に座るトマも、何度か後ろを振り返っては、不思議そうに首をかしげていた。


 だが、リンちゃんは何も言わない。


 ただ、道の先を見ていた。


     ***


 昼を過ぎた頃、街道は低い峠道へ入った。


 木々が近くなり、道の左右に白い石が増える。


 風が少し冷たくなった。


 シノは、窓の外を見て眉を寄せた。


「霧?」


 道の先が、白く霞んでいる。


 最初は薄い靄のようだった。


 けれど、馬車が進むにつれて、白さは少しずつ濃くなっていく。


 御者のトマが手綱を引いた。


「旦那様、少し霧が出てきました」


 レスト侯が窓の外を見る。


「この辺りで霧は珍しいのか」


「まったく無いわけではありませんが……昼過ぎにこれだけ出るのは、あまり」


 護衛の一人が馬を寄せた。


「速度を落とします」


「そうしてくれ」


 馬車はゆっくり進み始めた。


 白い霧が、車輪の下から湧くように流れてくる。


 音が遠くなった。


 馬の蹄の音も、車輪の音も、布を一枚かけられたように鈍くなる。


 シノは窓に手を添えた。


 冷たい。


 けれど、ただの冷たさではなかった。


 眠る前の部屋の空気に似ている。


 灯りを落とした後の、静かすぎる夜に似ている。


「なんか……眠い」


 リーゼリアが小さく呟いた。


 その声に、レスト侯がすぐ反応した。


「リーゼ」


「大丈夫です。でも、急に……」


 御者台の方で、トマが大きく頭を振った。


「妙だな……さっきから、まぶたが……」


 護衛の馬が一頭、足を止めかける。


 護衛自身も、ぼんやりと手綱を見下ろしていた。


 レスト侯の表情が険しくなる。


「止まれ。全員、眠るな」


 だが、その声すら霧に吸われるようだった。


 籠の中で、バッくんがむくりと起きた。


 白いもふもふが、毛布から顔を出す。


「……んー」


「バッくん?」


 シノが覗き込むと、バッくんは鼻をひくひく動かした。


「悪い夢じゃない」


「夢じゃないの?」


「うん。夢なら食べられる。でも、これは夢じゃない」


 バッくんは目をこすりながら、窓の外を見た。


「おっきい子の、寝息みたいな匂い」


「寝息?」


 シノは霧を見た。


 白い霧は、馬車の周りをゆっくり回っている。


 まるで、道そのものが眠っているみたいだった。


 トマがまた頭を揺らす。


「すみません、旦那様……どうにも、意識が……」


「交代しろ」


 レスト侯が護衛へ命じる。


 だが、その護衛も返事が遅れた。


 シノの胸が、きゅっと縮む。


 このままでは、みんな眠ってしまう。


 霧の中で眠ってしまったら、どうなるのか分からない。


「バッくん、食べられないの?」


「夢じゃないから、無理ー」


「リンちゃんは?」


 シノは窓の外を見た。


 金色の姿は、霧の向こうにいる。


 でも、遠い。


 リンちゃんは道の先を見ていた。


 まるで、何かを探しているように。


「シノさん……」


 リーゼリアが、眠気に揺れる声で言った。


「歌は……ありませんか」


「歌……?」


 シノは、白い霧を見た。


 こんな時に歌うなんて、変かもしれない。


 歌っている場合ではないのかもしれない。


 歌でどうにかなるのかも、分からない。


「でも、これは悪い夢じゃないって、バッくんが……」


「夢じゃないよー」


 籠の中で、バッくんが半分だけ目を開けた。


「だから食べられないー。でもー」


「でも?」


「歌は届くよー。たぶんー」


 それだけ言って、バッくんはまた毛布に沈みかけた。


「たぶんって……」


 シノが困った顔をすると、マルナ院長が静かに肩へ手を置いた。


「シノ」


 その声は、霧の中でも落ち着いていた。


「リンちゃん様がおいでになった時も、あなたは歌ったというではありませんか。バッくん様の時は私も近くでみましたし。」


 シノは院長を見た。


「歌えば必ず何かが起きる、と言うつもりはありません」


 マルナ院長は、御者台でうつむきかけているトマを見た。


「けれど、あなたの歌は、困っている場所へ届いてきました」


「困っている場所へ……」


「ならば今は、眠ってはいけない人たちへ届く歌を、探してみてもよいのではありませんか」


 シノは、もう一度霧を見た。


 眠らせる霧。


 起きなければいけない道。


 眠ってはいけない人たち。


 起こす歌。


 その言葉で、シノの胸の奥に、ひとつの景色が浮かんだ。


 前世の父、月森奏一郎が見せてくれた映像。


 古い石造りの教会。


 朝の鐘。


 笑いながら歌う子どもたち。


 父は言っていた。


 これは、フランスの古い歌だよ。


 朝だよ、起きなさいって呼ぶ歌なんだ。


 シノは、ゆっくり顔を上げた。


「起こす歌……」


 マルナ院長が頷く。


 シノは扉の方を見た。


「外で歌ってもいい?」


「外?」


「霧に聞こえるように」


 マルナ院長の顔が強張る。


「危険です」


「でも、中だと届かない気がする」


 レスト侯がすぐに言った。


「馬車は止める。扉の前に護衛をつける。遠くへは出さない」


「侯爵様」


「このまま眠る方が危険だ」


 マルナ院長は、シノを見た。


 シノも、まっすぐ見返した。


 少し怖い。


 でも、歌える。


 マルナ院長は深く息を吐いた。


「扉のすぐそばだけです」


「うん」


 馬車が止まる。


 扉が開くと、白い霧がふわりと入り込んできた。


 シノは、護衛に支えられながら御者台の近くへ立った。


 霧は冷たい。


 足元が白く見えない。


 道の先も、後ろも、全部が眠ったように静かだった。


 トマが御者台で必死に目を開けている。


 馬たちも首を下げかけていた。


 シノは息を吸った。


 父が教えてくれた、朝の歌。


 眠っている人を起こす歌。


「Frère Jacques, frère Jacques……」


 異界の言葉が、霧の中に落ちた。


 白い空気が、わずかに揺れる。


「Dormez-vous, dormez-vous……」


 歌声は大きくなかった。


 けれど、霧の中で、不思議とはっきり響いた。


 トマのまぶたが少し上がる。


 馬が耳を動かす。


 バッくんが馬車の中から顔を出し、ぼんやり目を細めた。


「朝の匂い……」


 シノは歌い続けた。


 起きて。


 朝だよ。


 鐘が鳴るよ。


 そう言っている歌だと、父は教えてくれた。


 シノは歌詞の意味を全部覚えているわけではない。


 けれど、その歌が持っている明るさを覚えていた。


 朝の窓。


 遠くの鐘。


 眠たい誰かを、笑いながら起こす声。


 白い霧の奥で、ちりん、と音がした。


 シノは歌を止めなかった。


 もう一度、鈴の音。


 ちりん。


 霧の向こうに、白銀の光が見えた。


 リンちゃんの金色とは違う。


 もっと淡く、月の光に似ている。


 バッくんが、馬車の中で固まった。


「あ」


 霧が左右に割れる。


 そこから、一頭の獣が現れた。


 白銀の毛並み。


 長い耳。


 丸みを帯びた身体。


 首元には、小さな金の鈴。


 足取りは優雅で、背筋を伸ばした貴婦人のようだった。


 その獣は、霧の真ん中でぴたりと足を止めた。


 そして、鼻先を少し上げる。


『まあまあまあ』


 声は上品だった。


 けれど、少し怒っていた。


『道まで寝かせてしまうなんて、ずいぶん行儀の悪い霧ザマス』


 シノは目を丸くした。


「しゃべった」


 白銀の獣は、シノを見た。


 それから、馬車の中のバッくんへ視線を向けた。


 バッくんは、そろそろと毛布の中へ戻ろうとしていた。


 白銀の獣の目が細くなる。


『……あんた』


 鈴が、ちりんと鳴った。


『またこんなところにいたの?』


 バッくんは、毛布から顔だけ出して、情けない声を出した。


「……姉さまー」


 白い霧の中で、金の鈴がもう一度鳴った。


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