教授会
翌朝。
王立魔導学園の小会議室には、いつもより早い時間から教授たちが集められていた。
長い楕円形の机。
壁際に並ぶ書架。
窓の外には、王都の朝の光が差し込んでいる。
普段なら、ここで話し合われるのは試験日程や講義編成、魔導具管理の予算、学生同士の決闘まがいの訓練事故についてだった。
だが、今日の空気は違っていた。
机の中央には、三種類の資料が置かれている。
地方神殿から届いたローネ湖の異常報告。
レスト侯爵家からの私信の写し。
エルン・ファルクの童謡雷唱に関する観測記録。
そして、そのすべてに同じ名が記されていた。
シノ。
議長席に座る学園長は、白い髭を撫でながら、ゆっくりと資料を見渡した。
「では、始めよう」
低い声が、会議室に落ちる。
「本日の議題は、レスト領地方より報告された一連の異常事象についてである」
歌唱魔導科の老教授が、眼鏡を押し上げた。
「異常事象、という表現でよろしいのですかな。ローネ湖の浄化、神獣らしき存在の顕現、侯爵令嬢の悪夢鎮静。これらが事実なら、単なる異常では済みません」
「事実なら、です」
別の教授がすぐに返す。
神殿法制を専門とする女性教授だった。
「神獣顕現の正式認定は、神殿記録官の確認を待つべきです。村人の証言と行商人の噂だけで、学園が神獣と断定するわけにはいきません」
「だが、地方神殿からの報告はある」
「報告されているのは、瘴気の膜と水質改善、そして目撃証言です。神獣顕現とは書かれていません」
「慎重すぎるのでは?」
「神獣の名を軽く扱う方が問題です」
会議室の空気が、少し硬くなる。
学園長は、軽く指で机を叩いた。
「断定はしない。だが、無視もしない。そのために集まってもらった」
視線が、自然とユリアン・ヴェルクへ向いた。
召喚譜式学教授。
王立魔導学園で、召喚を専門に扱う数少ない研究者。
もっとも、彼自身は召喚士ではない。
召喚を研究する者。
召喚できる者ではない。
ユリアンは、いつものように穏やかな顔で座っていた。
机の前には、自分がまとめた報告書が置かれている。
「ヴェルク教授」
学園長が言う。
「報告を」
「はい」
ユリアンは立ち上がった。
「まず、今回の件について、断定できることと、断定できないことを分けます」
そう言って、彼は一枚目の資料を示した。
「断定できること。ローネ湖周辺で、瘴気に類する汚染が確認されていたこと。村人に体調不良が広がっていたこと。現在、その状態が改善していること」
次に、二枚目。
「レスト侯爵家の私信より、リーゼリア・レスト嬢の悪夢症状が鎮静したこと。王立魔導学園予科への進学が、再度検討されていること」
そして、三枚目。
「エルン・ファルク君の記録より、シノ師と呼ばれる人物が、未知の童謡を通じて外部マナを強く鳴らす歌唱法を有している可能性があること」
歌唱魔導科の老教授が、そこで身を乗り出した。
「外部マナを鳴らす、という表現は曖昧ですな」
「はい。だからこそ、可能性という語を使っています」
「歌唱魔導なのですかな?」
「既存の歌唱魔導とは異なると考えています」
会議室が少しざわめいた。
歌唱魔導科の教授たちが顔を見合わせる。
「既存の歌唱魔導とは異なる?」
「では、古流派ですかな」
「地方の口伝かもしれません」
「神殿外の祈歌体系では?」
「王都に記録のない歌唱魔導師……」
それぞれが勝手に言葉を重ねていく。
ユリアンは、それを止めなかった。
ただ、手元の報告書へ視線を落とす。
「現時点では、分類不能です」
静かな一言で、ざわめきが少し収まった。
「分類不能、か」
学園長が呟く。
「君がそう言うのは珍しい」
「分類を急げば、誤ります」
「では、召喚譜式学の立場から見て、今回の件をどう見る」
ユリアンは、少しだけ間を置いた。
「リンちゃんと呼ばれる存在については、ローネ湖で目撃された金色の獣と同一であるなら、麒麟に類する存在の可能性があります」
「麒麟」
誰かが、息を呑んだ。
「ただし、断定はしません。現地の目撃証言のみで神獣種を特定するのは危険です」
「では、バッくんとは?」
神殿法制の女性教授が尋ねる。
「レスト侯爵家の私信によれば、夢を食べた獣とされています。獏、あるいは夢喰いの性質を持つ存在の可能性があります」
「獏……」
「夢に干渉する存在など、記録が少なすぎる」
「神殿降霊官でも扱えまい」
「王宮契約士でも無理だ」
会議室の声が、また重なる。
その中で、ひとりの教授が眉をひそめた。
「そもそも、そのシノ師は何者なのです」
室内が静まった。
問いは、全員の内側にあったものだった。
「ルミナリア地方の在野歌唱魔導士ですかな」
「古流派の継承者か」
「神殿登録外の祈歌師という可能性もある」
「いや、レスト侯爵家が動いている以上、貴族家に縁のある人物では?」
「しかし、エルン・ファルク君の師だろう。若い者ではあるまい」
「エルン君に童謡雷唱の原型を教えた人物だ。相当な研鑽を積んだ歌唱魔導士と見てよいのでは」
言葉が積み上がるほど、シノという存在は勝手に大きくなっていった。
地方に隠棲する老練な歌唱魔導士。
失われた古流派の継承者。
神殿にも王宮にも属さぬ在野の大魔導士。
王都の記録にない秘術を持つ人物。
教授たちは、自分たちの常識の範囲で、その空白を埋めようとしていた。
ユリアンは、静かにそれを聞いていた。
「ヴェルク教授」
学園長が言った。
「君は、シノ師についてどこまで把握している」
「名と、現象のみです」
「人物情報は?」
「現時点では、報告対象から外しています」
歌唱魔導科の老教授が眉を上げる。
「なぜです?」
「人物像を先に置けば、現象の観察が歪むためです」
ユリアンは、淡々と答えた。
「今回必要なのは、シノ師が何者であるかを噂で飾ることではありません。何が起きたのかを、順に確認することです」
「しかし、相手の身元も分からずに対応を決めるのは難しい」
「その通りです。だからこそ、近日中の来訪を待つべきだと考えます」
学園長が資料を見た。
「当該人物、近日中に王都へ来訪予定」
「はい。レスト侯爵令嬢の王都行きに同行する可能性が高い」
「レスト侯爵家の客人として、か」
「おそらくは」
神殿法制の女性教授が、指を組んだ。
「ならば、学園が先に接触するのは問題になります。侯爵家、神殿、王宮、それぞれの管轄が絡む」
「神獣であれば神殿案件」
「召喚であれば召喚譜式学案件」
「歌なら歌唱魔導科案件」
「侯爵令嬢の療養に関わるなら、貴族家の私事でもある」
「ローネ湖浄化なら地方行政にも関わる王宮案件になるぞ」
教授たちは、また顔を見合わせた。
ひとつの出来事が、いくつもの管轄にまたがっている。
そして、中心にいる人物の情報が空白のままだ。
「貴族家、といえば」
魔導史を専門とする細身の教授が、ふと思い出したように言った。
「最近、召喚譜式にひどくご執心の貴族家があると聞きますな」
その一言で、会議室の空気がわずかに変わった。
神殿法制の女性教授が、冷ややかな目を向ける。
「今、その話を持ち出す必要がありますか」
「関係があるとは申しません。ただ、神獣だの召喚だのという話は、王都では人を集めます。金も、欲も」
「噂で議事を濁すべきではありません」
「噂で済めばよいのですがな。古代契約具を買い漁っている家がある、失われた召喚譜式に高値をつけている者がいる。そういう話は、最近いくつも耳にします」
教授たちの何人かが、わずかに視線を交わした。
召喚は、希少だ。
希少なものには価値がつく。
価値がつくものには、必ず手を伸ばす者がいる。
その時、ユリアンが静かに口を開いた。
「今回の件と、その貴族家を結びつける根拠はありません」
声は穏やかだった。
だが、室内の空気が少しだけ止まった。
「ヴェルク教授は、ずいぶん断言なさる」
魔導史の教授が目を細める。
「根拠のない接続を避けているだけです」
ユリアンは、穏やかに微笑んだ。
「召喚譜式学は、憶測ではなく定義を重んじますので」
「噂を定義から外す、と」
「少なくとも、この場では」
そこで話は切れた。
けれど、完全には消えなかった。
王都のどこかに、召喚に金を出す貴族がいる。
それは、会議室の空気の隅に、小さな棘のように残った。
「面倒なことになったな」
誰かが小さく呟いた。
ユリアンは微笑んだ。
「面倒なことほど、丁寧に扱うべきです」
「ヴェルク教授は楽しそうですな」
「否定はしません」
「研究対象として見ている」
「否定しません」
会議室の空気が少しだけ冷えた。
ユリアンは、穏やかな顔のまま続ける。
「ですが、研究せずに恐れるよりは健全でしょう」
「恐れていると?」
「当然です」
あまりにも自然な返答だった。
「麒麟に類する存在。夢に干渉する獣。既存の歌唱魔導とも召喚譜式とも異なる現象。これを恐れない方が、よほど危険です」
神殿法制の女性教授が、少しだけ頷いた。
「その点は同意します」
歌唱魔導科の老教授も、髭を撫でた。
「ならば、まずは観察か」
「はい」
ユリアンは言った。
「シノ師が王都に到着次第、本人の意思を尊重したうえで、聞き取りを行うべきです」
「本人の意思?」
別の教授が怪訝な顔をした。
「それほどの秘術を持つ者なら、学園への協力義務があるのでは?」
ユリアンは、その教授を見た。
「義務、という言葉は慎重に使うべきです」
「なぜです」
「相手はまだ、学園所属ではありません。侯爵家の客人であり、現時点では王都に招かれた証人でもない。こちらが最初にするべきことは、拘束でも命令でもなく、礼を尽くすことです」
「ずいぶん穏やかなことを言いますな」
「最初に怯えさせれば、必要な証言も得られません」
その言い方は穏やかだった。
だが、妙な説得力があった。
学園長が目を細める。
「ヴェルク教授。君は、シノ師を守るつもりか。それとも調べるつもりか」
「両方です」
ユリアンは即答した。
「見ていなければ、守れません。調べなければ、危険も分かりません」
会議室が静かになった。
その言葉は正しい。
正しすぎて、少し怖かった。




