現象だけを
「もちろん」
ユリアン・ヴェルク教授は、あまりにも自然にそう言った。
エルン・ファルクは、一瞬言葉を失った。
研究する気ですね。
そうです。
そこに迷いはなかった。
ごまかしもなかった。
だからこそ、エルンは警戒した。
「シノを研究対象としてだけ見るなら、俺は協力しません」
ユリアンは、筆を止めた。
それから、静かにエルンを見る。
怒ったわけではない。
むしろ、少し感心したような目だった。
「だけ、では見ませんよ」
「……だけ、では?」
「人としても見ます」
「研究対象ではあるんですね」
「エルン君」
ユリアンは、穏やかに微笑んだ。
「神獣様を歌で呼んだ可能性のある人物を、研究対象ではないと言えるほど、私は聖人ではありません」
エルンは黙った。
その答えは、誠実だった。
だが、安心できる答えではなかった。
ユリアンは嘘をついていない。
けれど、すべてを話しているわけでもない。
それは、エルンにも分かった。
「では、確認しましょう」
ユリアンは、改めてシノの手紙を机に置いた。
「リンちゃん、とは?」
エルンは少し考えた。
知っている、と言い切るには、あまりにも知らないことが多すぎた。
「シノが、そう呼んでいる相手です」
「相手」
「はい。ローネ湖の金色の獣と、同じ存在だと思います。ただ、僕は直接見ていません」
「手紙には、どう書かれていますか」
「来てくれた、と」
ユリアンの指が、机を軽く叩いた。
「なるほど。呼び出した、ではなく、来てくれた」
「シノは、たぶん従えているとは思っていません」
「なぜそう思いますか」
「シノは、そういう言い方をしません」
エルンは即答した。
「命令した、とも、使った、とも書かないと思います。シノにとってリンちゃんは、術式でも使い魔でもなく……友達に近いのだと思います」
ユリアンは、少しだけ目を細めた。
「友達」
「はい」
「神獣級存在を、友達として認識している」
「シノなら、そうです」
「……なるほど」
ユリアンは立ち上がり、書棚へ向かった。
高い棚の中ほどから、厚い本を一冊抜き出す。
革表紙には、古い金文字でこう記されていた。
『神獣大全』
エルンは思わず背筋を伸ばした。
「それは……」
「王立魔導学園所蔵の写本です。神殿本典ほど完全ではありませんが、召喚譜式学で扱うには十分です」
ユリアンは頁をめくった。
「金色の体躯。鹿に似た角。馬に似た脚。竜に近い鱗。湖沼、清浄、瑞兆、瘴気の鎮静……」
指が、ある挿絵の上で止まる。
「麒麟、あるいは麒麟に類する瑞獣」
エルンは挿絵を見た。
そこに描かれている獣は、シノの手紙の言葉とはまるで違っていた。
荘厳で、遠く、神々しい。
リンちゃん。
その名の柔らかさとは、あまりにも印象が違う。
「これが、リンちゃん……」
「断定はできません」
ユリアンはすぐに言った。
「噂と手紙の情報量が少なすぎます。ですが、ローネ湖の現象と一致する特徴は多い」
「シノは、リンちゃんと呼んでいます」
「はい。そこが重要です」
ユリアンは、挿絵の横に小さく書き込みを入れた。
ローネ湖。
金色の獣。
リンちゃん。
名あり。
「神獣大全に名はありません。分類名があるだけです。ですが、シノ師は個体名のように呼んでいる」
「シノが勝手に呼んでいるだけかもしれません」
「その可能性もあります」
ユリアンは頷いた。
「ですが、名を呼び、応答があるなら、それは記録上は無視できません」
エルンは黙った。
ユリアンはさらに頁をめくる。
「では、次です。バッくん、とは?」
「それも、シノがそう呼んでいる相手です。レスト侯爵令嬢の悪夢を食べた白い獣だと思います」
「直接は?」
「見ていません」
「手紙には?」
「バッくんも来ました、と」
ユリアンの筆が止まる。
「また、来ました」
「はい」
ユリアンは、深く息を吐いた。
「呼んだ、ではない。召喚した、でもない。来ました」
それから、彼は神獣大全の別の頁を開いた。
「白き体毛。丸き体躯。夢路に現れ、悪夢を食す。眠りの底に沈みすぎた魂を、よき夢の岸へ戻すもの……」
指が止まった。
「獏。あるいは、夢喰いの神獣に類する存在」
エルンは、頁の挿絵を見た。
やはり、そこに描かれている獣は神々しかった。
エルンは少しだけ目を伏せた。
「シノらしいです」
「何がですか」
「神獣大全に載るような存在を、バっくん呼ぶところが、まんまかよって」
ユリアンは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「確かに。観測記録としては、わかりやすいですが非常に困ります。神殿とか威厳的なモノありますし」
「でも、やはりシノらしいです」
「ですか」
ユリアンは、神獣大全を開いたまま、手紙の横に置いた。
重厚な記録と、短い私信。
その二つが、同じ机の上に並んでいる。
「では、エルン君」
「はい」
「我々が今持っている情報を整理します」
ユリアンは筆を取った。
「一つ。シノ師は、神獣大全に記される存在と特徴の一致するものを、複数回目撃、あるいは接触している」
「はい」
「二つ。シノ師はそれらを、分類名ではなく個体名らしき呼び方で呼んでいる」
「リンちゃんと、バッくんですね」
「三つ。それらは、少なくとも手紙上では、呼び出されたのではなく“来た”と表現されている」
ユリアンはそこで筆を止めた。
「この三つだけで、十分に異常です」
「十分ですか」
「十分すぎます」
ユリアンは静かに言った。
「通常の召喚術なら、対象は契約名、種名、あるいは譜式指定で管理されます。ですが、シノ師の場合、分類より先に名がある」
「それは、まずいことなんですか」
「まずい、というより」
ユリアンは少し考えた。
「既存の召喚術では、説明の順番が逆です」
机の上には、シノの短い手紙と、エルンの記録帳と、ローネ湖に関する地方神殿からの報告写しが並んでいる。
ひとつひとつなら、まだ断定できない。
だが、並べると線が見える。
ローネ湖の浄化。
金色の神獣らしき存在。
黒い瘴気の魔獣らしき噂。
レスト侯爵令嬢の悪夢鎮静。
夢喰いの獣。
そして、そのすべてに重なる名前。
シノ。
「レスト侯爵令嬢の悪夢鎮静、か」
ユリアンは呟いた。
「リーゼリア嬢の進学延期理由は、これでしたか」
「王立魔導学園の予科へ進む予定だったと、手紙からは読めます」
「侯爵家から学園へは、体調不良による延期とだけ届いていました。詳細は伏せられていましたが」
ユリアンは手紙へ目を落とす。
「令嬢の療養に関わった存在。夢を食べる獣。仮に獏だとすれば、王宮契約士でも神殿降霊官でも扱えない領域です」
「やはり、珍しいんですか」
「珍しい、という言葉では足りません」
ユリアンは、静かに言った。
「夢に触れる存在は、記録そのものが少ない。人の内側へ踏み込むものだからです。扱いを誤れば、病より深い傷を残す」
エルンは、シノの手紙を見た。
リーゼリア様の悪い夢を食べてもらいました。
シノの字は、やはり簡単だった。
悪い夢を食べてもらった。
それだけ。
けれど、その一文の向こうには、誰かが眠れるようになった朝がある。
たぶんシノは、その方が大事なのだ。
獏かどうか。
召喚かどうか。
魔導体系に合うかどうか。
そういうことより、眠れなかった子が眠れたかどうか。
「シノ師は、そういう方なのですか」
ユリアンが尋ねた。
「短い言葉で、とんでもない現象だけを置いていく方」
「本人に自覚はありません」
「まさか、いや君がそういうのならそうなのでしょうね」
ユリアンは少し笑った。
「だからこそ、扱いを間違えてはならないんです」
エルンは黙っていた。
その言葉は、正しい。
たぶん、嘘ではない。
けれど、全部でもない。
そんな気がした。
***
「何を伏せたいのですか」
ユリアンが尋ねた。
静かな声だった。
責めてはいない。
ただ、確認しているだけだ。
エルンは手紙を見た。
『シノです』
その短い一文を見るだけで、孤児院の庭が浮かぶ。
晴れた日の井戸。
洗濯物の匂い。
小さな子どもたちの声。
そして、歌う少女。
魔導士ではないと言いながら、世界のマナを鳴らした少女。
火の鳥を呼んでしまった少女。
雷の歌を、ただの雨の日の童謡として歌っていた少女。
そして、たぶん今も、自分が何をしたのかよく分かっていない少女。
「シノに関する予備知識です」
「予備知識」
「はい。先にそれを話せば、現象ではなく、その人自身を値踏みされるからです」
「人物像を空白にしたまま、現象だけを見ろと?」
「はい」
「ずいぶん難しい要求ですね」
「承知しています」
ユリアンは、しばらく黙った。
「君が伏せたい情報なのですね」
「はい」
「では、今は聞きません」
エルンは、少しだけ息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただし、最低限の報告はします。レスト侯爵家が関わっている以上、学園だけで情報を止めることはできません」
「はい」
「報告内容は、現象中心。人物については、名をシノとだけ。君の記録にあるシノ師と同一人物の可能性が高い、という表現に留めます」
「それなら」
「ただし、到着後は隠しきれません」
「分かっています」
「では、今のうちに覚悟しておきなさい」
「何をですか」
ユリアンは、手紙を掲げた。
「王都が、少し騒がしくなります」
「少し、ですか」
「控えめに言いました」
ユリアンは、いつもの穏やかな顔でそう言った。
「事実なら、王都の魔導体系が一部書き換わります」
エルンは眉を寄せた。
「シノは、体系を書き換えたいわけじゃありません」
「でしょうね」
「有名になりたいわけでもありません」
「それも、でしょうね」
「ただ歌っているだけです」
「だからこそです」
ユリアンは、ゆっくりと言った。
「意図して秘術を使う者より、意図せず世界を動かす者の方が、はるかに厄介です」
厄介。
その言葉に、エルンは反応しかけた。
だが、ユリアンの声には侮りがなかった。
むしろ、恐れに近いものがあった。
「恐れているんですか」
「当然です」
また、即答だった。
「未知を恐れない研究者は、ただの愚か者です」
「それでも研究するんですね」
「未知を恐れるから、研究するのです」
ユリアンは、白紙に書いた仮称を一度だけ見た。
歌縁。
ヴィンクルム・カントゥス。
「そして、恐れるだけでは、誰も守れません」
***
その日の夕刻。
ユリアンは、報告書を書いていた。
エルンは研究室の隅で、自分の記録帳を開いている。
机の上には、三種類の資料が並んでいた。
地方神殿から届いたローネ湖の異常報告。
レスト侯爵家からの私信の写し。
エルン・ファルクの童謡雷唱に関する観測記録。
噂だけなら、笑い飛ばせた。
地方神殿の報告だけなら、調査中で済ませられた。
侯爵家の私信だけなら、令嬢の療養記録として処理できた。
だが、それらすべてに同じ名があった。
シノ。
ユリアンは筆を止めた。
しばらく、その名を見ていた。
それから、報告書の一部を書き直す。
神獣顕現。
その言葉に線を引き、横へ書き添える。
神獣顕現の可能性。
夢喰い獣の召喚。
その言葉にも線を引く。
夢喰い獣に類する存在の顕現。
断定はしない。
まだ早い。
まだ、本人を見ていない。
エルンは、その作業を横目で見ていた。
ユリアンは、危うい。
それは分かる。
だが同時に、軽率ではない。
断定しない。
決めつけない。
都合よく膨らませない。
その慎重さだけは、信じてもいいのかもしれない。
ユリアンは、別紙に残した仮称を見た。
歌縁。
ヴィンクルム・カントゥス。
その文字を指先で軽く叩く。
それから、報告書には書かず、机の引き出しへしまった。
「それは報告しないんですか」
エルンが尋ねた。
「まだ仮称です」
「教授が好きそうな言葉なのに」
「好きだからこそ、まだ出しません」
ユリアンは引き出しを閉めた。
「名前は、広まれば勝手に歩き出します。歩かせるには、まだ早い」
研究室の窓の外で、王都の夕鐘が鳴る。
ユリアンは、冷めた紅茶を一口飲んだ。
「届かないものほど、人は理屈で触れようとする」
先ほど自分で言った言葉を、もう一度だけ呟く。
それがエルンに向けたものなのか、自分自身に向けたものなのかは分からなかった。
ユリアンは、報告書の最後に一文を書き加えた。
当該人物、近日中に王都へ来訪予定。
その短い一文が、翌日の教授会を静かに揺らすことになる。
***
研究室を出る前、エルンはシノの手紙をもう一度読んだ。
短い。
短すぎる。
リンちゃんが来た。
バッくんも来た。
悪い夢を食べてもらった。
王都に行く。
王都で会えたらうれしい。
それだけ。
それだけなのに、王都の教授たちはもう動き始めている。
「こっちは、会う前から大変なことになっているんだが」
エルンは呟いた。
ユリアンが、報告書から目を上げる。
「シノ師は、手紙を書くのが苦手なのですか」
「苦手というより、本人の中では足りているんだと思います」
「なるほど」
「リンちゃんが来た。バッくんも来た。王都へ行く。それで十分だと」
「事実関係だけなら、確かに十分ですね」
「十分じゃありません」
「でしょうね」
ユリアンは少し笑った。
「エルン君。シノ師が王都に来るなら、君はシノ師の近くにいなさい」
「そのつもりです」
「そして、もう一度シノ師をよく見てきなさい」
「研究のためですか」
「学ぶためです、研究とは少し違います。机の上のものだけが学問ではないのです」
エルンは黙った。
ユリアンは、冷めた紅茶を一口飲む。
「見ていなければ、学べません。そして君が師から教わる余地はまだまだありそうですので」
その言葉だけは、嘘ではないように聞こえた。




