短すぎる手紙
王都には、噂が届き始めていた。
最初は、行商人の話だった。
地方のローネ村で、黒く濁っていた湖が、一夜にして清められたらしい。
次に、地方神殿からの短い報告が届いた。
湖面に瘴気の膜が確認されていたこと。
村人の体調不良が広がっていたこと。
浄化後、井戸水と湖水の状態が改善したこと。
そして、現地の者たちが「金色の神獣」を目撃したと証言していること。
さらに、別の噂も混じった。
黒い瘴気の中から、魔獣のようなものが現れた。
それを、金色の獣が打ち払った。
湖は黄金色に輝いた。
その場には、歌う魔導士がいた。
名をシノと言うらしい。
王都の大人たちは、まだそれを事実とは認めなかった。
村人の証言は、時に大きく膨らむ。
行商人の話は、道中で形を変える。
神獣顕現など、本来なら神殿の記録官が確認し、王都の神殿本部が認定するような出来事だ。
だから王立魔導学園でも、それはまだ噂だった。
けれど、無視できない噂だった。
なぜなら、その名が、すでに学園内で囁かれていたからだ。
シノ。
エルン・ファルクが、童謡雷唱の記録に残していた名。
シノ師。
地方にいる、未知の歌唱魔導の師。
王都の教授たちは、まだ知らない。
その名の持ち主が、どんな人物なのかを。
***
王立魔導学園の研究棟は、午後になると少し静かになる。
講義を終えた学生たちは食堂や訓練場へ流れ、教授たちはそれぞれの研究室に戻る。
廊下には、紙の匂いと、古い木の匂いと、魔導インクのわずかな刺激臭が漂っていた。
その一角。
召喚譜式学研究室で、エルン・ファルクは記録帳を広げていた。
机の上には、童謡雷唱の譜式が何枚も並んでいる。
成功例。
失敗例。
喉に負荷がかかりすぎた例。
魔力の芯が細すぎて雷が散った例。
逆に、外部マナを拾いすぎて髪が逆立った例。
王都へ来てからも、エルンの記録帳は増え続けていた。
「君の記録には、相変わらず成功より失敗の方が多いですね」
向かいの机で、ユリアン・ヴェルク教授が言った。
手には紅茶の杯。
ただし、湯気はもう立っていない。
いつものように冷めている。
「成功だけを記録しても、次に同じ失敗をします」
「良い答えです」
ユリアンは満足そうに頷いた。
「ですが、失敗例の横に『シノに怒られた』と書く必要は?」
「あります」
「学術的に?」
「再発防止のためです」
「なるほど。非常に強い抑止力ですね」
ユリアンは冷めた紅茶に口をつけた。
その時、研究室の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。エルン・ファルク様宛てに、急ぎの書状が届いております」
事務官が入ってくる。
封蝋には、レスト侯爵家の紋章が押されていた。
エルンは立ち上がった。
「レスト侯爵家?」
「はい。早馬で届けられました。至急とのことです」
エルンは書状を受け取る。
胸の奥が、妙にざわついた。
レスト侯爵家。
シノのいる地域の領主だ。
嫌な予感ではない。
だが、普通の手紙ではない気がした。
「開けても?」
ユリアンが尋ねた。
「俺宛てです」
「もちろん。ただ、顔色がすでに研究対象ですので」
「教授」
「冗談です。半分は」
エルンは封を切った。
中には、上等な紙が一枚。
文字は、見慣れたものだった。
少し丸くて、丁寧で、ところどころ力が入りすぎている。
シノの字だ。
エルンは読み始めた。
そして、止まった。
目だけが、紙の上をもう一度なぞる。
さらに、もう一度。
ユリアンが杯を置いた。
「エルン君?」
返事はない。
「どうしました。顔色が、悪いというより白いですよ」
エルンは、ゆっくりと顔を上げた。
「教授」
「はい」
「シノが、王都に来ます」
ユリアンの動きが止まった。
「……今、何と?」
「シノが、王都に来ます」
研究室の空気が、少しだけ変わった。
ユリアンは、ゆっくりと杯を机に置いた。
「詳しく」
「詳しく書いてありません」
「はい?」
エルンは手紙を見下ろした。
「いつも通りです」
***
シノの手紙は、短かった。
エルンへ。
シノです。
リンちゃんが来ました。
バッくんも来ました。
リーゼリア様の悪い夢を食べてもらいました。
それで、リーゼリア様が王都へ行くので、わたしも少し一緒に行くことになりました。
王都で会えたらうれしいです。
シノ。
それだけだった。
ユリアンは、手紙を借りて読んだ。
一度。
二度。
三度。
そして、しばらく沈黙した。
「……短いですね」
「はい」
「しかし、情報量は尋常ではありませんね」
「はい」
ユリアンは、手紙の端を指で押さえた。そして珍しく小声で何かを呟き始めた。
「来た、とはなんだ」
ユリアンの声が、低く漏れた。
エルンは、机の向こうに座る教授を見た。
ユリアン・ヴェルクは、シノから届いた手紙を片手に、もう片方の手で机の上の紙を引き寄せていた。
「いや、待て。ローネ湖の噂。金色の獣。麒麟に類する存在。湖沼浄化、瘴気分解、外部マナ反応……」
ぶつぶつと呟きながら、ユリアンは白紙へ筆を走らせる。
「そして、レスト侯爵令嬢の悪夢を食べた白い獣。獏、あるいは夢喰いの近縁。夢界干渉。精神層への接触。悪夢の分離、摂取、消化……」
「教授?」
「来た。シノ師は、来たと言った」
ユリアンは手紙を見つめた。
その目が、笑っていないのに輝いている。
「召喚、なのか」
エルンは息を呑んだ。
召喚。
その一語だけで、研究室の空気が変わった気がした。
「いや、通常召喚ではない。契約文がない。召喚陣もない。媒介もない。対象指定もない。供物もない。召喚譜式も見えない」
筆先が、紙の上にいくつもの語を書き殴っていく。
契約文なし。
媒介なし。
対象指定なし。
召喚陣なし。
外部マナ反応。
神獣級顕現。
名あり。
「リンちゃん。バッくん。どちらも名がある」
ユリアンの声が、わずかに震えた。
「名づけ……いや、名による再接続か。初回顕現後、対象を名で固定し、再接続の導線を作る。文献にはある。あるが、成功例は神殿記録の中でも神話半分だ。しかも相手は神獣級だぞ」
「教授」
「契約ではない。支配でもない。命令権は不明。帰還条件も不明。だが、来ている。少なくとも、シノ師の歌に応じている」
そこでユリアンは、一度強く息を吸った。
落ち着こうとしているのだと、エルンにも分かった。
けれど、落ち着けてはいなかった。
「童謡雷唱。外部マナ反応。魔力回路負荷の異常な軽さ。既存分類外の譜詩。単純な旋律構造。第五階梯を超える雷撃現象」
筆先が、別の紙へ移る。
「あれは、神獣本人の顕現ではない。少なくとも、あの大会で神獣は現れていない。だが、発生した雷の純度が高すぎる。通常の雷唱ではない。雷属性マナを生成したというより、どこかに残っていた雷そのものの記憶を引き出したような……」
「教授?」
「神獣残響」
ユリアンは、小さく呟いた。
「雷獣、あるいは雷霆系神獣の残滓。本人ではない。意思もない。だが、世界に残った属性の響き。もし、シノ師の歌唱方式がそれに触れているのだとしたら――」
そこで、ユリアンの筆が止まった。
白紙には、三つの語が並んでいた。
召喚。
歌唱。
残響。
エルンは、その文字を見つめた。
「教授。今のは、シノが神獣を呼んでいる話とは違うんですか」
「違うかもしれません」
ユリアンは、ようやくエルンを見た。
その瞬間だけ、いつもの穏やかな教師の顔に戻る。
「失礼しました、エルン君。少し、考えが先に行きました」
「いえ。続けてください」
「君の師は、歌唱魔導を使える。それは間違いありません。君に童謡雷唱を教えたのですから」
「はい」
「ですが、ローネ湖の金色の獣。レスト侯爵令嬢の悪夢を食べた白い獣。そして、この手紙にある“来ました”という表現。これらは、歌唱魔導の発動結果というより、召喚現象に近い」
「召喚……」
「ただし、我々が知る召喚術とは違います。召喚陣も、契約文も、媒介もない。シノ師は対象を命じて呼び出しているのではない。歌っている。そして、来ている」
ユリアンは、手紙の一文を指先で軽く叩いた。
「一方で、君の童謡雷唱では神獣自体は現れていない。けれど、通常の歌唱魔導では説明できないほど高純度の雷が発生している」
「では、僕が使ったのは召喚術の類だったのですか」
「現時点では、召喚とは言い切れません」
ユリアンは即答した。
「ですが、完全に無関係とも言い切れない。むしろ、同じ扉の別の開き方である可能性があります」
「同じ扉……」
「神獣本人が応答する場合。神獣そのものは現れず、その残響だけが現象として現れる場合。二つの事象が、同じ歌唱方式から発生しているのだとしたら」
ユリアンの目が、また熱を帯びた。
「これは、歌唱魔導ではなく、召喚術の新たな接続法かもしれない」
エルンは息を止めた。
ユリアンはすでに、別紙に二本の線を引いていた。
「一つ。シノ師は、歌唱魔導とは別に、未知の召喚術を使っている」
一本目の線に、召喚士、と書く。
「もう一つ。歌唱魔導そのものが、召喚術へ接続するための新しい方法になり得る」
二本目の線に、歌唱召喚、と書く。
そして、その横に小さく、古い文献名を書き添えた。
歌う悪魔。
「……歌う悪魔?」
エルンがその文字を読んだ。
声が、少しだけ低くなる。
「教授」
「はい」
「シノは、悪魔ではありません」
ユリアンの筆が止まった。
エルンは、まっすぐにユリアンを見ていた。
「シノは、誰かを傷つけるために歌っているわけではありません。リンちゃんやバッくんが神獣様だとして、シノが命令して従わせているわけではないと思います」
ユリアンは、数拍置いてから頷いた。
「分かっています、エルン君」
「本当ですか」
「少なくとも、君がそう言うことは重く受け止めます」
ユリアンは、白紙の端に書いたその文献名を、指先で軽く叩いた。
「これはシノ師を指す言葉ではありません。古い文献の題名です。信憑性に欠けるとされ、召喚譜式学では長く周辺資料扱いでした」
「なら、そう言ってください」
「失礼しました」
ユリアンは素直に謝った。
その素直さに、エルンは少しだけ息を詰めた。
「ですが、合いすぎている」
ユリアンは続けた。
「歌う者。契約文なき顕現。名による再接続。神獣級存在の応答。外部マナ反応。そして、神獣本人ではないにもかかわらず発生する高純度属性現象」
エルンは、まだ少し警戒した顔でその文字を見ていた。
歌う悪魔。
嫌な言葉だった。
シノには、似合わない。
「名称は、あとで変えます」
ユリアンは言った。
「今は、手がかりとして置いているだけです」
「お願いします」
「はい。君の師を、言葉で傷つけるつもりはありません」
エルンはそこで、ようやく小さく頷いた。
ユリアンは、自分に言い聞かせるように息を吐いた。
「落ち着け。まだ噂だ。手紙も曖昧だ。リンちゃんが来た。バッくんが来た。情報量が少なすぎる。観測記録ではない。私信だ。だが、その少なさが逆に――」
「教授?」
「いえ」
ユリアンは、すぐに穏やかな顔を作った。
「失礼しました。研究者の悪い癖です」
「今ので悪い癖ですか」
「かなり悪い方です」
ユリアンはそう言いながら、すでに別紙を引き寄せていた。
白紙の上に、大きく一語を書く。
召喚。
その隣に、もう一語。
歌唱。
さらに、少し迷ってから三つ目の語を書く。
名。
そして、その下に小さく書き足す。
残響。
エルンは、手紙をもう一度見た。
リンちゃんが来ました。
バッくんも来ました。
シノの言葉は、いつも簡単だ。
けれど、その簡単な言葉の向こうで何が起きているのか、王都の理屈ではまだ測れない。
ユリアンは筆を握ったまま、紙を見つめていた。
その横顔は静かだった。
だが、エルンには分かった。
静かなのではない。
あまりにも多くのものが、内側で動いているのだ。
「王都に来るのか」
ユリアンの声が、また小さく漏れた。
「シノ師が。記録ではなく、本人が。現象の中心が、ここへ……」
「教授」
エルンが声をかけると、ユリアンは瞬きをした。
そして、いつもの丁寧な口調に戻る。
「はい、ファルク君」
「そもそも、召喚とは何ですか?」
ユリアンは筆を止めた。
その問いに、すぐには答えなかった。
いつものように説明を始めない。
しばらく沈黙してから、ユリアンはゆっくりと口を開いた。
「……良い問いです、エルン君」
その声だけは、奇妙なほど静かだった。
「おそらく今、私たちはその定義を、書き換えなければならない場所に立っています」
「普段なら三年次の講義で二時間使います」
「今は短くお願いします」
「では、短く」
ユリアンは指先で机を軽く叩いた。
「召喚とは、何かをただ呼ぶ術ではありません。対象を定義し、経路を開き、契約によって一時的にこちら側へ座標を結ぶ術です」
「座標?」
「相手が何で、どこに属し、どの程度こちらに留まり、何をしてよく、何をしてはいけないのか。そのすべてを譜式に刻む必要があります」
ユリアンは、机に置かれた古い召喚譜式の写しを一枚引いた。
そこには、細かな文字と円環、幾何学模様、契約文がびっしりと刻まれていた。
「だから召喚譜式には、膨大な定義文が必要になる。曖昧に呼べば、曖昧なものが来ます。あるいは、呼ぶ途中で壊れます」
「壊れると、どうなるんですか」
ユリアンは、ほんのわずかに黙った。
「呼び損ねたものの残滓が、こちら側に残ることがあります」
「残滓」
「瘴気、影、形を持たない獣。人はそれを魔獣と呼ぶこともある」
エルンは、手紙から目を上げた。
「黒い瘴気の魔獣……」
「可能性の話です」
ユリアンの声は静かだった。
「噂は、時に形を大きく変えます。ですが、召喚譜式学では、失敗が形を持つこともあると考える」
そこで、ユリアンの指が一度だけ止まった。
手紙の余白を、軽く押さえる。
それから何事もなかったように、説明を続けた。
「王都にも、召喚に関わる者はいます」
「召喚士ですか?」
「世間はそう呼ぶこともあります。ですが、厳密には違います」
「違う?」
「王宮には、王宮契約士がいます。古い契約具を通じて、王家に縁づいた守護獣を一時的に顕現させる者です。ですが、呼べる対象は固定されている。契約具と儀式場がなければ成立しません」
エルンは頷いた。
「神殿には、神殿降霊官がいます。聖域や儀式場において、神獣の影、加護、霊兆を降ろす者です。浄化や祝福には大きな力を持ちますが、実体ある神獣を自由に呼ぶわけではありません」
「では、純粋な召喚士は?」
「王都には、いません」
ユリアンは、静かに言った。
「少なくとも、王立魔導学園にはいません。召喚譜式学を専門に扱う教授も、私くらいのものです」
「教授も、召喚士ではないんですか?」
「残念ながら」
ユリアンは、少しだけ笑った。
「私は、召喚を研究する者です。召喚できる者ではありません」
その声は穏やかだった。
けれど、そこにはわずかな苦みがあった。
「召喚できないから、召喚譜式を研究するのですか」
「届かないものほど、人は理屈で触れようとする」
エルンは、何も言えなかった。
ユリアンは、手紙の一文を指差す。
リンちゃんが来ました。
「通常の召喚は、こちらが対象を指定します。だが、シノ師の歌は、少なくとも君の記録を見る限り、対象を指定していない」
「はい。シノは、何かを呼ぼうとして歌っているわけではないと思います」
「でしょうね。だから恐ろしい」
「恐ろしい?」
「指定せず、縛らず、媒介も使わず、儀式場もない。それなのに、歌に応じた存在が来る。もしそれが事実なら、これは通常の召喚ではありません」
ユリアンは白紙に小さく文字を書いた。
歌縁。
それから、少し考え、その横に別の語を書く。
ヴィンクルム・カントゥス。
「仮称です」
「名前をつけるのが早くないですか」
「名前をつけないと、研究できません」
「研究する気ですね」
「もちろん」
ユリアンは即答した。
あまりにも正直だったので、エルンは一瞬言葉を失った。




